第二幕
「打球は伸びるっ、伸びるっ、入ったあ〜!! 入りました! 逆転サヨナラ満塁ホームラン!!」
「くそっ!」
栗原聡はラジオを殴るように消すと、悪態をついた。これで3年連続、応援する球団の最下位が決定した。仕事帰りの車の中、イライラする気持ちは容易には収まりそうにない。聡は窓を開けて、既に更けた夜の風を受ける。
「どいつもこいつも…ちくしょう!!」
就職のために田舎から出てきて5年。都会の風は厳しかった。慣れない仕事に懸命に取り組んでも、全く評価されない日々。田舎で暢気に野球を楽しんでいた頃が、無性に懐かしく思えた。
目の前の信号が赤になり、聡はまたも憤りながらブレーキを踏む。その時、ふと目に付いたものがあった。
「ん…? 菜の花交差点…ああ、これか」
だいぶ前に、同僚から聞いたこの交差点の噂。もちろん信じてなどいなかったが、もうすぐ日付が変わろうとするこの時間に、自分だけ存在するこの交差点は何やら不気味にも感じた。噂は信じていないが、この場所で死者が多いのは事実だ。
「ふん、ばかばかしい」
そうは言ってみたものの、なかなか変わらぬ信号に焦れ、聡はアクセルを踏んだ。見通しがいいこの交差点。横から来る車は何百メートルも先から見える―はずだった。
「うわっ!!」
しかし今、聡の車に横から突っ込もうとしているのは、ありえない存在のダンプカー。音も、気配も全くしなかった。気づくと横にいた―そんな感じだ。耳をつんざくような音がして、聡は気を失った。
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歓声が、聞こえる。
ゆっくりと目を開け、打席に立つ。自分の名前が連呼され、何万もの観客はますますヒートアップした。
『4番、サード、栗原聡。背番号17』
アナウンスが終わり、聡はバットを静かに構えると、相手投手を睨んだ。そして一球目…。球場が静まり返る。僅かバット一振りで、試合は決した。6−5、サヨナラホームラン。ガッツポーズをし、ダイヤモンドを小走りしホームに還ると、チームメイトにもみくちゃにされる。報道陣が、我先にとインタビューを試みてくるのをかわし、観客の一人と握手をした。悲鳴が起きる。
強豪プロ野球チーム、山陰スネークスの4番バッター。それが、栗原聡の姿だった。
「おめでとうございます! 今シーズン、記念すべき50本目のホームランは劇的なサヨナラホームランでした。今のお気持ちをどうぞ!」
「絶対に負けられないと思って、無我夢中で打ちました。運よく入ってくれて、本当にラッキーでした」
「謙虚ですねー! あのホームランは、栗原選手しか打てませんよ! では、最後にファンの皆さんに一言お願いします!!」
「えー、今日も応援ありがとうございました! 勝てたのは皆さんのおかげです。これからも応援よろしくお願いします!!」
試合後のヒーローインタビュー。聡は精一杯「良い人」を演じた。誰もが聡を絶賛し、褒め称える。家に戻り一人になった後、聡はとうとう堪えきれずに笑い出した。
「ははははっ、これが本来の俺の姿…ここからが、俺の本当の人生だ!!」
未来は、明るい。
翌日。
「栗原さん、今日もスポーツ紙一面に載ってますよ! うらやましいなあ」
「はは、偶々だよ」
朝の個人練習。休憩室にいた栗原の元に、昨年プロ入りした後輩の溝口が寄って来る。まだ二軍にいて、今のところは害の無い人間だ。少なくとも、4番の座を脅かす程の才能はない。
すると、後ろから聡が持つ新聞を眺めていた溝口が「あっ」と叫んだ。
「何だ?」
「この記事…知りません? 栗原さん。去年の甲子園で優勝投手になった高校生! まさかジャガーズに入団するなんて。大学に入学したはずなのに」
「甲子園…ああ、あいつか、杉江とかいう」
一瞬焦った聡だが、その時の記憶が浮かんできた。確か中継のテレビを見ていたはずだ。ここがあの理想郷なのか、天国なのかなんてどうでもいい。自分が認められる世界なら、地獄だって構わない。
だから、その高校生が長年のライバルチーム、東海ジャガーズに入ろうがどうだっていいのだ。
その日のチームも快勝し、聡は満足して家路に着いた。不安なことなど、何もなかった。
「……に入ることが出来て、とても嬉しく思います。精一杯努力します」
夜、テレビをつけた瞬間、少年、いや青年の声が飛び込んでくる。画面右上の見出しを見ると、『杉江投手入団会見』と書かれていた。まだまだガキじゃねえか。そう思いながら何ともなしに画面を見る。解説を聞くと、どうやら今シーズン成績が芳しくないジャガーズが、大学にいた杉江を強引に引き抜いたらしかった。
そして、インタビューは大詰めを迎える。
「では最後に、憧れの選手や、一度対戦してみたい選手の名前を教えてください」
「そうですね…一度対戦したいのは、山陰スネークスの栗原選手です」
記者団から、「おおっ」という声が上がる。大半が、「無謀な奴だ」という響きを持っているのだろう。
それだけ、栗原聡という野球選手は群を抜いていた。
―面白いじゃねえか。
聡の口角が上がる。負けることなど、あり得ない。―絶対に。
「返り討ちにしてやるよ」
聡は、画面の中で笑う杉江に向け、にやりと笑った。
一ヵ月後、シーズンも終盤に差し掛かり、スネークスの首位はキープされている。優勝は確実で、それに比例してか聡の成績も目を見張るものがあった。打率4割3分7厘。65HR。常人には考えられないような数値だが、本人は至って普通のことと受け止めている。まるで球がバットに吸い寄せられるように向かって来るのだ。当てられないほうがおかしい。
そして今日からの3連戦は東海ジャガーズとだが、試合はすでに決して…いや決しようとしていた。8回のウラ、同点のままスネークスが二死満塁とし、次打者が栗原。観客もリポーターも、相手チームでさえも聡が打つと信じている。その時だった。
『只今の投手に代わりまして、36番、杉江』
どよめきが起きる。既にバッターボックスに入っていた聡も驚く。何より、このピンチを新人投手―しかも、初マウンドの奴に任せるということに。ジャガーズはこの試合を捨てたのか…?
しかし。
「ストラーイク!!」
―え…?
「ストライクツー!」
―何だ? 何だこの球は!?
「ス、ストラーーイク!! バッターアウッ」
場内が静まり返る。聡は一歩も動けずに、呆然としていた。信じられなかった。あの左腕から放たれる球は、聡に反応することさえも許さなかった。
―どういう、ことだ? ここは、俺の、世界…?
「くそっ!!」
飲み屋をハシゴし、深夜に帰宅した聡は机を勢いよく蹴り上げた。これで、明日の新聞トップは杉江で決まりだろう。何しろ、この「自分」を三振に取ったのだから。ソファーに倒れ込み、深呼吸する。
「まだ、負けた訳じゃねえ…」
そうだ、たかが一打席、何だというんだ。次は、HRをお見舞いすればいいだけだ。
聡は自分にそう言い聞かせると、そのまま眠りにつく。…悪夢の、始まりだった。
ロッカーを殴る音が響き渡る。チームメイトがこそこそと出て行くのを横目に、聡は悪態を吐いた。
21打数0安打、ありえない失態。監督も、初めは「疲れてるのか?」とからかわれる程度だったのが、今では不審な目で自分を見る。
打てないのだ、どうしても。バットが動かない。あの球が、頭を過ぎって。杉江とは、あの一回しか対戦していないのに。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう……!!」
誰が悪い? 自分が悪い? …そんなことはない。悪いのは……杉江だ。
「……そうだ。悪いのは、全てあいつのせいだ」
―俺の世界に、勝手に入って来るから。
次の対戦は、およそ2週間後。
「見てろよ…杉江」
聡は暗い笑みを浮かべた。
―許さない。俺の世界を、壊す奴は。
歓声が、聞こえる。
だがそれは、自分に向けられたものではない。ジャガーズのファンが、マウンドにいる杉江に送っている声援だ。しかし聡は、それに愉快ささえ感じた。
「今日限りで、お前の投手生命は終わるんだからな」
聡は、バッターボックスに向かいながら、低く呟いた。
そろそろ、効いてくるはずだ。苦労して手に入れた全身に麻痺を起こさせる「毒」が。致死量ではないが、一生痺れが残るのは明らか。執念を注ぎ込んで、用意周到に準備した。ばれる心配は絶対にない。マスコミは、食中毒だと騒ぎ立てるだろう。
後は、自滅するのを待つだけだ―
『7番、サード、栗原聡。背番号17』
バットを構え、相手投手を見る。顔が青いのはすぐに分かった。それでも杉江は懸命に肩を動かし、投球動作に入る。だが、左腕が耐え切れず思い切りぶれ―…
「え……?」
聡は信じられないという様に、球を凝視する。
投げられた球は一直線に聡の頭部に向かい……………鈍い音がした。
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「…ああ、こいつの『幻』も終わったか、案外つまらぬものだったな」
男は少々不機嫌になり、今まで眺めていたものを一瞬にして消し去った。
「ほう…次はこいつにするか。退屈しのぎには、なるだろう」
犠牲は、止まらない。
そこは「菜の花交差点」。
人の欲と命を弄ぶ場所…