第一幕
その交差点では、事故が絶えなかった。なだらかな坂の途中にあり、決して見通しも悪くはない。誰もが首を傾げた。しかしその交差点には、ある伝説とも言うべき噂があった。曰く、「そこで生を終えると、自分の理想郷へ行くことが出来る―」と。
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「―ねえ、昨日もあったみたいよ。死亡事故!」
「えー、でも今月に入ってもう3人目じゃない。やっぱり呪われてるんじゃない?」
「やだ、あそこ通学路なのに」
春の穏やかな昼休み。しかしその高校では、一つの噂で持ちきりだった。生徒らが通う高校から僅か300mほどの場所に、その交差点がある。「菜の花交差点」―その可愛らしい名前とは裏腹に、今まで数え切れないほどの人間が命を落としてきた。「魔の交差点」そう呼ばれるのに、時間はかからなかった。
―ばっかみたい。
噂話に花を咲かせるクラスメイト達を横目に、少女―鈴木まりあ―はため息をついた。
退屈な日常
昨日も今日も明日も、同じような日々
変わらない自分
いいではないか、あの場所で死んで自分の理想郷に行けるのならば。まりあは昨日命を落とした人を、少し羨ましく思った。もちろん、伝説通りに誰しもが理想郷に行けるなんて子供染みたことは思ってはいない。ただ、火のないところに煙は立たない―そう考えたのだ。
―行きたい。自分の理想郷へ…
放課後、まりあは「魔の交差点」に足を運んだ。車もそれほど多くない道路の隅で、ぼんやりと交差点の中心を眺める。気のせいか、血痕が残っているように思えた。
本当に死んだら理想郷に行けるのだろうか。試してみたい。でも死ぬのはやっぱり怖い…
まるで魅せられるように交差点を凝視していたまりあは、気づかなかった。トラックが猛然と突っ込んで来ることに。
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「マリア様、お目覚めですか?」
「ん……」
ゆっくりと瞼を上げる。豪華としかいいようのない景色が飛び込んできて、まりあは目を見開いた。声をかけた女性が微笑んで、柔らかなベッドから身体を起こすのを手助けする。
「おはようございます。朝食のご用意が整っております。それから朝食後、旦那様が応接室へ来るようにとのことです」
「……分かったわ」
まりあは唐突に理解した。というか記憶が入り込んできた、という方が正しい。贅沢なドレスに着替え、侍女が退出したのを見届けた後、まりあはシーツで口を押さえ狂ったように笑った。
―ここが私の理想郷! 私は大国の大貴族の一人娘、マリア=ロゼス=コウルダー!!
優雅な動作で朝食を取る。貴族のマナーは身体に染みこんでいて、何の心配も要らなかった。先程鏡を見たときは驚いたが、確かに自分の顔なのに髪と目の色が明るい茶色に変化している。それは元々整っているまりあを、余計に美しく見せていた。ほんの少し微笑むだけで、大抵の人が赤くなるほどに。
金も美も地位もある。まりあは有頂天になった。
「おはよう、マリア。今日も綺麗だよ」
「おはようございます、お父さま」
朝食後、屋敷で最も贅を尽くした応接室へ向かう。そこには優しそうな父、コウルダー伯爵がソファーに腰掛けていた。その向かいには、父と同年代だろう口髭を生やした男が、無表情でこちらを見ている。
不審に思いながらも優雅な礼は忘れない。殊更上品に振舞って見せると、相手も慇懃な礼を返してきた。父はこれ以上ないほど嬉しそうに、その男を紹介する。
「マリア、この方はドウユル公爵様だ。お前の婚約者に当たる。一ヶ月後に婚姻の式を盛大に挙げるから、そのつもりで準備するように。公爵様、どうぞ娘をよろしくお願い致します」
「……ああ」
―え……?
今…父は何と言った? 婚約者? 婚姻?…この厳めしい髭の男と!?
「お…父さま、これは…」
ありえない。これは私の理想郷なのに、私の世界なのに!
真っ青になるまりあを緊張のためだと勘違いした父は、丁重にドウユル公爵を送り出した後、まりあに優しく話しかけた。
「マリア、突然で驚いたかもしれないが、ドウユル公爵とお前は、5年前からの婚約者だ。あの方が前王の義弟君であることは知っているな? ドウユル公爵は長い間奥様を持たれなかったが、5年前にお前を見初められてな。お前が16になるのを待っていたのだ」
これで我が伯爵家も安泰だ、という父の声は全く耳に入らなかった。どうやって自室に戻ったのかは覚えていない。気がつくと、まりあはベッドに潜り込んで嗚咽を漏らしていた。
前王の義弟、確かに貴族の娘としては申し分ない相手だろう。だがまりあには嫌悪しか感じられなかった。おそらくドウユル公爵とやらは40歳前後、そして自分は16歳だ。しかも見初められたのが5年前だとすると、完璧に幼女趣味ではないか!
まりあは憤る。こんなはずではなかった。理想郷は、もっといい場所のはずだった。どうしてこのようなことになるのだろう。この世界を動かすのは私ではないのか!?
控えめなノックの音がして、まりあは急いで涙を拭う。ひどい顔であることは分かっていたので、ベッドのカーテンに隠すようにした。そして小さく返事を返すと、朝の侍女とひとりの青年が入室して来た。青年はどうやら騎士らしく、剣を腰に佩いている。侍女が弾んだ声で言った。
「マリア様、ドウユル公爵様との御結婚、おめでとうございます! そして今日から一ヶ月間、マリア様の護衛をする者を連れて参りました」
「護衛……?」
「はい、王族へ嫁がれると決まったからには、危険が無いとは限りません。それで旦那様直々に、腕の立つ騎士をお選びになったのです。さあ、ご挨拶をなさって下さいませ」
侍女の言葉に頷いた青年は、ベッドに近づき、片膝をついて頭を下げた。
「貴女様の護衛が出来ることを光栄に思います。サイア=ヒュールと申します」
凛々しい声に、まりあの肩が震える。そして顔を上げた姿を見た時、まりあは一目で自分の感情が燃え上がるのを悟った。
「お嬢様! 大丈夫ですか!? お怪我は!」
サイアが血相を変えて駆け寄ってくる。まりあは転んだ―振りをした―身体を懸命に起こそうとするが、その前にサイアの手が差し伸べられた。「ありがとう」と、にっこり微笑んで身体を預ける。決して自分に触れようとしないサイアと、唯一触れ合えるこの瞬間。
まりあはサイアを騙していることに罪悪感を覚えながらも、ひとときの幸せを噛み締めていた。
凛々しく、強く、優しい青年…サイアはまさに、まりあの理想そのものだった。出会ったあの日から、7日が経ったが、狂おしい想いは募るばかりだった。髭の公爵も何度かまりあを尋ねて来たが、まりあは何の感情も抱かなかった。
そして二人が出会ってから矢のように時は過ぎ、30日目…とうとうその日が来た。純白のドレスを着て、髭の男の横に並ぶ。誓いの言葉を言う時は、悲しさで涙が出そうだった。幾度も逃げ出そうとしたが、その度にサイアに止められたのだ。サイアは私のことを何とも思っていない…。そのことを痛いほど理解した。
心が悲鳴を上げる。いつしかまりあには、ここが理想郷ではなく牢獄だと感じるようになっていた。
その夜公爵家へ引き取られたまりあは、広大な屋敷の中で、必死にサイアを探していた。彼はまりあを公爵家へ送り届けるまでが任務だと聞いていたので、もしかしたら会えるのではないかと思ったのだ。そして。
「―サイア!!」
縋るように、今にも玄関から退出しようとしている青年を呼び止める。ドウユル公爵は、まだ宴会の場にいるようだ。会場から、人々の騒ぐような声が聞こえている。
「お嬢様…?」
「お願いっ、ちょっと来てほしいの!」
強引にサイアの腕を取り、与えられた自室へと向かう。使用人と擦れ違わなかったことは幸運だった。急いで扉を閉めると、困惑する青年に抱きついた。
「サイア…あなたのことが、好きです…」
精一杯の想いを込めて、言葉を紡ぐ。そして呆然としているサイアにキスをしようとした…その時。
「これはこれは…我が花嫁殿が既に愛人を囲っているとは」
後ろから聞こえる、侮蔑を含んだしゃがれ声。
酒を片手に扉を開け、こちらを無表情で見つめているのは、今日からの夫…ドウユル公爵だった。
「あ……!」
一気に血の気が引き、顔は真っ青になり、床に崩れ落ちた。サイアは慌てて膝をついたが、もう全てが終わったことは、誰から見ても明らかだった。
今―まりあは、冷たく暗い牢獄に繋がれている。サイアがあの場で処刑された時、彼女の心は死んだ。そして彼女も、いつ来るか分からぬ処刑人をただ待つ日々…。
「早く…死にたい。この牢獄のような世界から、早く…」
ふいに数人の足音が聞こえてきた。ここへ来るのを許されるのは、一人の侍女と、処刑人のみ。まりあはようやく訪れようとしている「終わり」に、静かに微笑んだ。
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「くくく…本当に人間とは愚かなものだ。自分で理想郷を創りながら、自ら規則に縛られる」
薄暗い空間で、男が静かに笑った。いや、嘲笑した。
「だが…今回もそれなりに楽しめた。次は…ああ、こいつか。こいつはどのような幻を望むのか…」
―伝説には、続きがあった。「理想郷へ行ったものは、必ず悲運を辿る」
このことを知るものは、現実世界には存在しない。
そして今日も、その交差点では事故が絶えない…