ミチルさんのこと
口裂け女を拾ったのは、ちょうど一月前の雨の土曜日だった。
うらぶれたようなこの街の、客の寄り付かなそうな行きつけのパン屋で買い物を済ませると、打ち捨てられたように女はいた。どうやら雨宿りをしているらしかった。
出てきた時は雨など降っていなかったので、当然傘を持っていないぼくは、並んで雨宿りをすることになった。
並んでいるうちに、どことなく気まずいので、「雨ですね」と、どちらともなく言った。
「困りましたね」と、やはりどちらかが言った。
そのままなんとなくお互いに黙った。見知らぬもの同士だから、それも自然だった。
雨が、風向きが変わって、どっと強くなったころに女が唐突に口を開いた。開いたと言っても、女は大きなマスクをつけていたので、いかほどに開いたのかは見てとれなかった。
「あのう、つかぬことを聞いてもよろしいですか」
よく通る、聞こえのいい声だった。
見知らぬ顔だし、いぶかしんでもよさそうだったが、女は華奢だったし丁寧な言い方なので、とくに何も考えず、「どうぞ」、とぼくは言った。
はい、それでは、失礼して。
と、女はマスクをじれったく外して、おどおどとこちらを向いた。
女の口は、頬までぱっくりと裂けていた。
裂けていた、という割には、薄く唇のようなものがちゃんとあったし痛々しい裂け方ではなかった。例えるなら、口の極端におおきな女、のようにも見えた。
「わたし、あの、綺麗、ですか」
きょどきょどと女が手で顔を半分隠しながら言う。
本当は見せたくはないのだろう、顎と歯並びに対し大きく空いた口腔を、できる限りすぼめて。
「ああ、あんた、口裂け女なのか」ぼくは納得した。小学校の怪談の本に、同じ文句が出てくるのを読んだことがあった。
「はい。そ、そうなんですけど。あの」
申し訳なさそうに、恥ずかしそうに、女はうつむいて言う。よほど、見られたくないのか。それでもぼくに見せつけてきたのは、ぼくの口も裂いてやろうと思ったのか。ぼくは首をひねった。
「綺麗か、と聞かれたら、難しい気がするな。なんというか。言葉が違う気がする」
ぼくは首をひねったまま、パンの紙袋を持ち直した。
「そ、そ、そうですか」
それでは、あの、と女はコートの懐に手を差し込んだ。あ、あのあの、あなたも、その。
女は何か言いかけていたが、ぼくは女の顎に指をかけて、くいっと上を向かせた。とっさのことに、女はびくりとしゃべるのをやめた。
うーん、とぼくは言った。
「あんた、かわいい顔してるんだけど」
「はえ」
「綺麗、って感じではないんだよな」
「ほえ」
「目の形はシュッとしてるし、鼻も筋が通っててさあ。化粧っ気がないのはもったいない気もするけど」
「ふ、ふえ」
女は気の抜けた音を連発していた。
するりとぼくが女の顎から指を離すと、顔を支えていたぼくの手がなくなって、女はガクンと下を向いた。
「ふあっ」
勢いあまったのか、女は舌を 噛んだらしく、ぴょんと跳ねて口を押さえた。
「ああ、ごめん」
「いら、いらいっ」
顔を赤くして女は口を押さえ、しばらく跳ね回っていたが、そのうちにその場にうずくまってしまった。
「んんん、んんんんん」
しゃがみ込んだまま、女はぼくを赤い顔で睨みつけてきた。恨めしそうな顔は、口元が隠れて威力半減だ。
「あなたが、変なこと、言うから」
「あんたが先に変なこと聞いたじゃん」
「ううう」
女は威嚇するように低く唸った。
その様子がおかしくて、ぼくは吹き出してしまった。
「あははは。あんた、やっぱりかわいいね」
「ううう」
お腹を抱えて笑いころげるぼくを、涙目で睨みながら女はまた唸った。
ぼくはなんだか小さな子を相手にしている気分になってしまって、女の前に同じようにしゃがんでみた。
こうしてみると、すいぶんと小柄な女なのだな、とぼくは思った。肩も頭も、かなり小さい。だから裂けてしまった口が、不釣り合いに大きく見えてしまうのかもしれなかった。
ぼくはちょっとすまなく思って、女の頭をそっと撫でてやった。
「ごめんな。痛かったな」
しゃがんだこの位置だと、雨粒がかかりやすく女の髪は雨粒で光っていたが、もののけの類にしては女の髪はあたたかかった。
「なんですか。今度は子ども扱いですか」
女はこれ見よがしに頬を膨らませてふてくされる。こうしていると、普通の女の子となんら変わりないように思えた。
ぼくはすっと立ち上がって、女に手を差し出した。
「悪かったよ。ごめんって。ほら」
手をひらひらと振って見せる。
女はしばらくその手を恨めしそうに見ていたが、そのうちに観念したようでこわごわとぼくの手を握った。ぼくが女を起こしてやると、女はぼくの抱えた紙袋におもむろに手を突っ込み、カレーパンを引っ張り出した。
「おい。それぼくのだぞ」
返してもらおうと手を伸ばすが、女は身をよじって逃れると大きな口でカレーパンにかぶりついた。
「ちゃんと質問に答えないのが悪いんです」
女は口の周りにパン粉をつけたまま偉そうに言う。
「おい、それ窃盗ってやつだぞ」
ぼくが呆れて言うと、女はこれ見よがしに残りを大口に放り込んだ。
「だいたい、あなたは変です」
「食い終わってからしゃべれよ」
「うるさいですねえ。ふつうしますか。口裂け女に説教なんて」
「あのなあ」
「そもそもですねえ、質問の答えが綺麗です、ならおんなじにしてやるうってハサミで襲い、逆に綺麗じゃないです、なら、じゃああなたもおんなじになればいいって襲うのがセオリーなんですよ」
「はあ」
「その通り魔的妖怪に、かわいいとか、言いますか、普通」
「そう言われると、まあそうだねえ」
「なっ。なんですか、今更訂正するつもりですか」
「あーもう、あんたはどうして欲しいの」
呆れたり疲れたり、ぼくはぼくで忙しくしている一方、口裂け女は口裂け女で怒ったり顔を赤くしたりとやはり忙しくしていた。
なんだか不毛だ。こいつとのやりとりは。
と、だいぶ前からだがぼくは思っていた。
「でも」と、女は小さく言った。
「だけどそれを言ったら、わたしだって変なんですよね……」
「ん? というと?」
「いえその、質問の答えがアレだった以上、襲うのが普通なんですけど、そうならなかったというか、できなかったというか、その……」
女はしどろもどろになって言った。そう言われてみれば、そうである。
「そうだな。変だな。なんで、襲いかかってこなかったんだ?」
「しましたよ! 襲おうと!」
「あれ。そうだっけ」
「そうですよ! なのにそうさせてくれなかったんじゃないですか!」
女はなにがなにやらもう一生懸命である。
「あ、ああ、そうだったっけ」
ぼくはまた首をひねるが、いまいち記憶がない。
「うーん、じゃあ、今から襲う?」
「えっ」
女はハッとした表情になった。
赤らんでいた顔がじんわりと元にもどり、そしてまた真っ赤になった。
「そ、そのう。それは。」
もじもじと女は所在無げに目線を泳がせる。ほんと、子どもみたいなやつ。ぼくはまたおかしくなった。
「あんたって、ほんと、そういうとこかわいい」
「んなっ」
「あはははは」
ぼくはお腹をまた抱えた。女は憤慨した様子でぼくの腕をばしばし叩いている。土砂降りだった雨は、いつ間にだか小ぶりになってきていた。
「決めました」
「決めたって、何を」
ぼくの笑い虫がやっとおさまると、女は意を決したように言ったのだった。
何事かとよく分かっていないぼくに、女は人差し指を立てて宣言した。
「あなたに取り憑くことにしました」
「はあ⁉」
唖然とするぼくの腕をとって、女はしがみついてきた。パン屋の紙袋が、湿気で湿ったのかにぶい音を立てた。
「妖怪が妖怪としての役割を全うするのを、あなたは邪魔しました」
女はぼくの腕に抱きつきながら、にたりと大きな口で笑いかける。
「責任とってもらいます」
「せ、責任」
「そうですよ。あなたが悪いんです」
笑いかける女の顔は、口が頬まで裂けている。だが不思議と恐ろしくはなかった。むしろ・・
「ほら、雨止みましたよ。帰りましょうよう」
「待て、お前家までついてくるつもりか」
「当たり前ですよ。失業しちゃったんだから」
「口裂け女って職業だったのかよ」
「そうです。でも今日で寿退社です」
「ちょっと待て。それは意味合いが違う気がする」
「あってるんですよ。これが。あ、虹!」
「はぐらかすな」
「ふへへ」
口裂け女を拾ったのは、ちょうど一月前の雨の土曜日だった。
うらぶれたようなこの街の、客の寄り付かなそうな行きつけのパン屋で買い物を済ませると、打ち捨てられたように女はいた。
あれから一月経った今も、女は相変わらず居着いている。否応無く一緒に暮らしていると、女は以外と家事も料理もできたしよくしゃべった。一人暮らしのぼくには、そんなに悪い同居人でもないようだった。
華奢で目鼻立ちもよく、口の大きな女はぼくは嫌いではないので、たまに居心地の悪い時もあったりするが、なんとなくそれは言っていない。
女が作ってくれた食事の食器を一緒に片付けたり、居間で湯のみを並べてくつろいでいると、なんとも言えない安心感がある。一人でいた頃には、なかった感覚。
しかし、このままだと本当に女を寿退社にしてしまう気がして、ここのところ一線を置いている。女はそれを察してか、なんとなくくっついてくる。
抗わなくてはならない、と言い聞かせて、また離れるのだが、そのたびに泣きそうな顔になる女を見ていると、ついその次は離れられなくなる。
いけない。これではいけない。
いけない、のだが、女に必要とされているのはそれなりにうれしくもあって、心の均整がとれない。
女のことを、未だに女、とか口裂け女、とか呼んでいることに今更ながら気づく。あいつ、そういえば何という名前なのだろう。聞けば、教えてくれるのだろうか。
せいいちさん、と女はぼくを呼ぶ。
下の名前で、壊れものを扱うように優しく呼ぶ。
そうやって呼ばれるたびに、ぼくは胸が妙にざわつくのが分かっていた。心地よい、波のような感情。
ぼくは、もしかしたら。女のことが好きなのかもしれなかった。
くっついてくる背中も、腕にしがみつくぬくもりも、淹れてくれるお茶も、すごく好きだった。なのに、女のことそのものはどうかと考えるのは、どこか怖かった。
人を好きになるというのは、自分から苦しくて心地の良い底なし沼にはまり込むようなものだ。その相手が口裂け女であるならば、なおさらだ。
でも、その底なし沼に、女はすでに身を投じた。ぼくのために。ぼくも一緒に沈んでくれることを願いつつ、拒絶されないように、じっと見つめている。
その様子が、ぼくは愛しかった。
名前、聞いてみようかな。それで、呼んでみようかな。ぼくも。
「あのさ」
「なあに、せいいちさん」
「あんた、名前、なんていうのか聞いてないなあと思って」
ぼくは目をそらしながら、なるべく平静に見えるように聞いた。
女は目を見開いた。そして、大きな口でにいっと笑うと、ささっとぼくの腕にしがみついてきた。
「責任、とる気になったの?」
「いや、別に、そういうことでは」
「ふーんだ。つれないの」
女は頬を膨らませた。ああ、やっぱりこいつ、かわいい。ぼくはふいに思った。
「じゃあ、せいいちさんもわたしのこと、あんたとか口裂け女じゃなくて、名前で呼んでよね」
「お、おう」
ふふ。と、女は笑ってぼくの耳に口を寄せた。
「わたしの名前はね・・・」
一月前に拾った妖怪は、どうやら出て行ってくれそうにない。だけどなにやらそれが嬉しい自分がいる。
カレーパンを二口で食うくせに、舌は猫舌で、親知らずに歯茎がかぶってる痛みに悩んでて、見慣れてしまうと何のことはない口のでかい女の子。
でかさは、尋常じゃないけど。
砂かけばばあとか濡れ女みたいな、醜い妖怪ではないぶん、うっかりしているとドキッとさせられてしまう。
かわいいなんて、言わなきゃ良かった。そうやって見てしまうと、逃れられなくなりそうだ。
でも、本当に逃れたいのかは、自分でもよく分からない。
答えが出るまでは今のままでもいいかな、なんて思ってしまう。
そうだな、あと、もうひと月くらいは。
責任をとるとらないは、それからでもいいような気がしている。
だから、その話はまた一旦お預け、ってことで。
これからも、まあその、よろしく?
おしまい。