第十一話 前国王
王都ノルディーの平時の総人口は三十万を超える。
しかし魔王軍上陸の知らせを受け、二十万を超える民が既に逃げ出していた。これは自力で移動できない赤子や老人を除けば、ほとんどの民が逃げ出したことを意味する。もはや王都はもぬけの殻であった。
唯一の例外を挙げるとすれば、それは前国王と、それに付き従う年老いた兵士たち、そして死を恐れぬ宗教ギルドの実働部隊たちである。
彼らはフラックランド王国王都の中枢、ノルディー城に陣取った。王都を囲む市壁は早晩破られ、王都の家々は蹂躙されるだろう。残された防衛拠点はノルディー城より他に無かったのである。
昨日、誇り高いパン職人が、フラックランド王国ノルディー城に最後のパンを納めて――かちかちの黒パンを、多めに見積もって二ヶ月分は焼いてある――去っていった。
「御武運を」朝食の黒パンの合間に挟まれたメッセージカードを見て、前国王陛下は小さく笑った。
「これが余の最期のパンか。なるほど、だいぶ日持ちしそうな良いパンだ」
もうすぐそこまで魔王軍が迫っている。
宮廷魔術師のハルマンは既に死戦を最後まで戦い抜く腹づもりで、作戦参謀と共に地図を見ている。魔王軍を示す赤いコマが、見張りの騎兵の報告を受けて地図の上を進撃する。あと数刻もしないうちに、市壁の向こうはゴブリンたちとオークたちでいっぱいになるに違いない。
「これより我らは籠城に入る。助けが来るとは思うな。もはやここまでと見れば、食料庫、穀物庫に火を放て!」拡声器を通じて王は命じた。
ここで正直に言えば、ノルディー城が戦争に用いられたことは一度たりともない。美しく左右対称に配置された四つの石造りの塔や、煌びやかなアーチや彫刻は、単に王家の名に華を添えるためにあるのであって、実戦ではあまり役には立たない。
だが古代の石工たちは、美しさの中に一本の筋を通すことを忘れなかった。ノルディー城は周囲に深い堀をめぐらし、そこには今や水が満ち満ちていた。跳ね橋は上げられ、その門は来るものを拒絶する体勢を取る。
早朝の攻防の末に、ゴブリンたちの破城槌によって市壁は破られ、王都にゴブリンたちが侵入する。教会に、学習院に、住宅地に、火が放たれる。長い間、人々を守ってきた建物。それらが、瞬く間に大火に包まれてゆく。ゴブリンたちは無邪気に笑う。笑ってノルディー城に突撃する。塔の上から射られた無数の矢が、ゴブリンたちの頭を次々と貫く。
「来るならば来るがいい。魔女シズネリの予言通りに、余はここで倒れよう。だがそれで終わりではないぞ、魔王軍よ。我らの覚悟、とくと見るがいい」
石造りの塔の上から、矢が雨のように降る。フラックランドの手だれの老兵たちの悪あがきだ。ゴブリンたちは巨大な木の板を跳ね橋の代わりにして、城門に突撃するための道を作ろうとする。だが、上から降る矢がその作業を徹底して妨害する。
形勢不利と見たオークたちは、魔王の指示を仰ぐ。一人の黒いローブを着た者が現れ、跳ね橋を指さし、「開け!」と叫んだ。跳ね橋を固定していた強靭なロープが引き千切れ、跳ね橋が開く。ちょうど下敷きになったゴブリンたちが潰れるが、当のゴブリンたちもそんなことは気にしていない。
突撃! 突撃! 突撃! 突撃!
ゴブリンたちは跳ね橋を渡り、城門の中へと突っ走る。だが、そこに待っていたのは、隊列を揃えた長槍兵の一糸乱れぬ刺突であった。入るゴブリンは皆槍で突かれ、膨大な肉塊が城門の前に築かれた。ことここに至って、魔王も物量だけで押し切ることが無謀であることを認めざるを得なかった。
そこで魔王軍に、援軍としてドラゴン四匹が飛来した。
それぞれの塔の上に着地したドラゴンは、塔の上にいた長弓兵たちをおもむろに火の息で焼いた。
矢の勢いが収まるのを待って、魔王はゴブリンの肉塊に魔法をかけた。現れたのは巨大な「肉のゴーレム」である。人間四人分ほどの体躯を持つこれを倒すには、その身体を切り刻むしかない。長槍兵は肉のゴーレムに槍を何本も何本も突き刺すが、その動きは止まらない。思いのほか素早く振り回されるゴーレムの拳に触れ、周囲の兵士たちは皆吹き飛ばされた。
これを機とみたゴブリンたちとオークたちは、跳ね橋を渡って次々に城内への侵入を試みる。
だが、宗教ギルドの実働部隊が現れて、これを阻止した。解呪の魔法を受けて、肉のゴーレムが地に倒れ、ただの肉塊に戻る。
「我らは神の代理人である。世にはびこる悪鬼どもは打ち滅ぼすのみ。ものども続け!」
プレートメイルを着込み、兜をかぶり、棘の生えたメイスを振り回し、跳ね橋に集うその戦闘修道士たちの姿はまさに無双。恐れを知らぬはずのゴブリンやオークも、この完全武装の兵士には手も足も出ない。剣も弓矢も効かない。近付けば叩き潰される。ゴブリンやオークに恐怖というものがあるとすれば、まさに今がそれであった。跳ね橋は一進一退の様相を呈した。
魔王軍の多くは、この侵攻で多大な被害を受けていた。
それに、魔王軍はどうしても食料を得る必要に迫られていた。
だから魔王が手の内を明かしたのは、当然だったといえる。彼は塔を指差し「壊れよ」と命じた。そしてそのようになった。塔の基礎は根こそぎ抉られ、支えを失った城は崩れた。城を立てた石工の仕事が不完全だったのではない。魔王が使う魔法があまりにもでたらめなのである。
魔王はゆっくりと正面を指差し、再び「壊れよ」と命じた。正面の城門ごと、そこにいた宗教ギルドの実働部隊たちは分解、消滅した。ゴブリンたちは仲間の血で染められた跳ね橋を渡った。
ゴブリンたちとオークたちは、城の中に無遠慮に入っていった。もはやこれまで。ハルマンは敗北を悟り、自分の命と魔力とを引き換えに火の精霊四体を召喚する。それははるか上空に現れた。
いままさに敵が押し寄せようとする王国の玉座で、前国王は最期の言葉を叫んだ。その言葉は拡声器を通じて増幅され、城じゅうに響いた。
「既に穀物庫には火を放った。お前たちはこれ以上進軍できない。たとえ魔王でも、飯を食わねば生きられまい。この戦争には負けたが、なに、次は勝つさ。王都ノルディーに再び勝利の栄光があらんことを!」
「黙れ人間!」
オークたちが現れ、恐れることなく玉座を覆う天幕を引き千切った。そこにはずらりと並ぶ火薬樽があった。
「余はただで死んでやるつもりは無いぞ!」
近衛兵により、火打ち石が打たれた。閃光。爆風。轟音。オークたちと共に、玉座は跡形も無く消し飛んだ。
上空から、主を亡くし制御を失ったイフリート四体による無差別な爆撃が始まった。城を包囲していたゴブリンたちに向けて、城の存在などお構いなしに、火の球が次々に叩きつけられる。二匹のドラゴンがその脅威に気付き撃退に向かうが、遅かった。既に放たれた火球だけでも、城の内部の魔王軍を蒸し焼きにするのに十分であった。イフリートのうち二体がドラゴンに噛み砕かれたが、その瞬間に大爆発を起こし、ドラゴンの頭を道連れにした。二匹のドラゴンのうち一匹が城の上に落ち、その衝撃で別の塔が崩れた。
「滅びよ……だめか、距離が遠すぎる」魔王は歯噛みした。既に残されたドラゴンは四匹、うち、現状使えるのは二匹。イフリート二体を排除する為にドラゴンを使うというのは愚策である。
「私がドラゴンに乗って、直接排除する」魔王は従順な若いドラゴンを選ぶと、それに跨った。飛翔する魔王に向けて、イフリートが火球を投げつける。その合間を縫うようにドラゴンは飛び、魔王はイフリートを射程に収めた。
「滅びよ。滅びよ」二匹のイフリートは雲散霧消した。
逃げ遅れた者、守りに徹した者、ゴブリン、オーク、そしてドラゴン。この戦いで多くの血が流された。しかし穀物庫は焼け落ちて既に炭と灰だけになっていた。魔王軍は家々を略奪し、残った住人たちを殺して回ったが、ほとんど何の戦利品も得られなかった。
 




