表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第三部 完成──AI模倣できない一連の物語

 舞台の上にはリンゴとみかんが置いてある。そして暗闇から声がした。


 ───『流動性文体』の第一部と第二部、お楽しみいただけたでしょうか。


 リンゴとみかんが宙に浮き、互いにクルクルと回りながら円を描く。姿のない声が暗闇から楽しげに聞こえてきた。


 「ところで、書き出しがガラリと変わって驚かれた方もいるでしょう。でもね、これ。必要なことなんですよ」


 リンゴとみかんが激しく回り出す。何かの声に応じたように。


 「それよりも、このようなWeb 世界の僻地にお越しいただいたのは、本日はAI模倣不可の秘密が知りたいのですかな? それとも、AI模倣不可なんてできないという反論のため?」


 パチンと指を鳴らす音が聞こえ、リンゴとみかんが二つのスクリーンへと姿を変える。二つのスクリーンには救急車が走る様子と……真っ白い空間が映し出された。


 「まぁ、結論を知りたければ、最終話『閉幕』をお読みくださいな。そういう読み方もありでしょう」


 救急車は黒スーツの女性を担架とともに降ろす。彼女は苦しそうに咳き込み続けていた。


 「でもね、私は『観測する悪魔』。嘘はつかないがあなた方を騙しているかもしれませんよ」


 声は男とも女ともつかない奇妙に重ね合った音韻で、歌うようにクスリと笑った。


 「まぁ、人間は『永遠』には生きられない矛盾だらけの生き物。それだけでも、自ら存在を消し去ることもできないAIには、模倣はできないでしょうけどね」


 リンゴだったスクリーンが大きくなり、みかんだったスクリーンが小さくなっていく。そして、口調がガラリと変わる。まるでサーカスの団長のように。


 「これから、お見せいたしますのは第三部。これは掌編集ではなく、中島充という『Webの幽霊』を巡る四十一話の物語。それではご覧ください」


 みかんだった白いスクリーンが消え、リンゴだったスクリーンの映像が流れてくる。スクリーンはどんどん大きくなり、病院の通路の映像を映し出す。救急隊員が一人の女性を担架に乗せていた。やがて、カメラは徐々に担架に引き寄せられ、病院の天井を映し出す。蛍光灯の光が線のように走る。


(後書きに第三十九話から四十一話を記載)

第一章 描写


【第一話 主体】

 担架の走る音が聞こえる。


 「ゲホ、ゲ、ガァ、グホ、ヒュー、ヒュー」


 息ができない。苦しい。でも、頭は澄んでいる。


 「ガハッ、ヒュー」


 何かが口を塞ぐ。温かい手の感触が背中をさすっている。前がよく見えない。


 「聞こえますか! 聞こえますか!」


 誰かの声がする。でももうワタシは疲れちゃった。もう眠りたいんだけど。


 咳が止まらない。息もできない。ワタシは座りながら担架に運ばれる。


 「ゆっくり、ゆっくり吸って!」


 背中をさする手が止まらない。ぼーっとした頭の中で、ワタシは無理やりに息を吸う。ストローで空気を吸うように、何回も何回も繰り返す。口の中になんとも言えない空気が入ってくる。いつもと違う空気、湿った機械的な感情のないもの。


 「注射しますよ! 咳を我慢して!」


 ワタシは言われるまま咳を止める。肺の中から飛び出る地獄のような責苦が、深く深く体を曲げる。小さな痛みと冷たい感触が同時にくる。涙が溢れる。視界が少しだけ明るくなった。水色の地面にたくさんの機械。そして青みを帯びた白衣の人たち。


 「よし、入った! 今から点滴始めますからね!」


 冷たい液体が体に染み込んでくる。血液の中に、ワタシじゃない何かが入り込むように。でも、咳は少し落ち着いた。でも、止まったわけじゃない。少しだけ息ができるようになった。鼻水と涙は止まらない。咳とともに胃液が込み上がる。


 横に置いてあったオケをつかんで、思いっきり胃液を吐いた。黄色い泡がオケに浮かぶ。せっかくの黒いスーツが台無し。あ、上着が脱がされてる。クリーム色のブラウスだけだ。だから、腕が見えるのね。ワタシの左手は注射跡で真っ黒になっている。


 ワタシの背中をさする手が止まる。背中をさすってくれた人の声がした。少し声の低い年配の女性の声だ。


 「意識の混濁が始まってます!」


 「まずいな、人工呼吸器用意して!」


 男性の声がした。医者だろうか。少し、頭がぼんやりする。目を開けているはずなのに、何も見えない。おかしいな。なんだか、体が落ちていく。ワタシの周りでたくさんの人が囁いている。耳を澄ましても、聞き取れない。まるで、森の中のさざめきみたいに。遠くから白い光が見える。それは、どんどんと近づいてきた。なんだか怖くなって、ワタシは目を閉じた。



   ♦︎



 ボクが目を開けると、そこは真っ白い空間だった。体は宙に浮いているように軽いけど、宇宙じゃない。宇宙だったら黒いし、星も見えるし、何よりもボクは宇宙じゃ生きていけない。そこには、ただ真っ白い空間だけが、どこまでも広がっていた。


 周りを見渡しても白い空間ばかりだった。困ったなぁ、そう思ってボクは頭をかいた。なんか感覚が違う気がして、まじまじと手のひらを見つめた。おや、こんな手だったかな? まぁいいや。

 喉の奥がザワザワする。いつもの奴だ。咳が近い。ボクはワイシャツのボタンを緩めた。喉が少しきついと咳が出そうだから。


 本当に何もないのかな、そう思って目を凝らすと一冊の薄っぺらい本が浮かんでいる。ボクはとりあえず、体を動かそうともがいた。両手両足をカエルのように動かす。バランスがうまく取れない。無重力空間ってこんな感じなのかなって、バカみたいなことを考えながら必死で手を動かした。

 ラッキーなことに本が少しづつ近づいてきた。本が見えるくらいもがき続けると、灰色のカバーに本のタイトルが見えてきた。それは、中島敦の書いた『李陵・山月記』だった。

 本をつかむと記憶がちょっぴりと蘇った。そう言えば、どうしてここにいるのかわからないな。もがくのに夢中だった。我ながら呑気なもんだ。

 この本を最初に手のしたのは、学校の宿題の参考図書だった。ボクは楽をしようとして、一番薄っぺらい本を選んだ。それが、この本だった。でも、そんなものぐさなボクの考えとは裏腹に、中島敦の本は無茶苦茶面白かった。みんなは『山月記』が好きって言うけど、ボクは違った。もちろん、最後に虎になって叫ぶ『山月記』も好きだけどね。特に『名人伝』が好きで、すっごい弓の達人なんだけど、最後に弓を忘れてしまう。今でも内容をはっきり思い出す。


 あ! 思い出した。ボクは『中島充』だった。


 思い出した瞬間、急にボクの体が重くなった。下からの風が顔に当たる。重力がいきなり生まれたみたいでボクはびっくりした。そして、ボクは本をつかんだまま足をばたつかせ、一気に下に落ちていく。


 目の前にたくさんの本の山が見えてきた。ボクは顔を両手で覆って目を閉じる。


 ドーン。


 ボクは地面に落ちた衝撃で意識を失った。



【第二話 戦闘】

 ゴホッ、ゴホッ。


 ワタシは自分の咳で目を覚ました。何か嫌な夢でも見たんだろうか。寝汗がすごい。規則的な機械音が聞こえてくる。首を動かそうとすると、透明なガスマスクみたいのをしていた。


 ピコン。ピコン。


 機械音が大きくなった。少し体を動かす。左手から点滴の管がぶらんぶらんと揺れた。何があったんだっけ。ワタシは記憶を掘り返す。


 ワタシ……職場で倒れたんだ。確か……。


 ワタシは某団体の薬物をめぐる強制捜査で都内某所にガサ入れに入っていた。ワタシは黒スーツをピシッと着て、証拠物押収のダンボールを片手に抱えた。咳をしないように慎重に。そして、他の捜査員と一緒に背筋を伸ばして立っていた。

 だけど、トラブルが起きた。令状が読み上げられる中、被疑者の一人が逆上してワタシに殴りかかってきたからだ。角刈りの男が吠えながら、ワタシに向かって突進してくる。血走った目を向けながら。

 脇に抱えたダンボールが床に落ちる。我ながら情けない悲鳴をあげちゃった。男はワタシの腕をつかむと素早く背中に回り込む。右腕が首に向かい締め上がった。右半身に鋭い痛みが走り、胸が焼けるように熱くなる。酒くさい男の息がうなじに当たった。その生温かいのが当たるたびに背筋が凍った。喉元には冷たいナイフ。男は叫んだ。


 「下がれ! 下がれ!」


 ワタシは咳を抑えながら、必死で考えを巡らす。どうしよう。どうしよう。落ち着いて、周りを見て。目だけ動かして男の足の位置を確認、近い。これならいけるかも。


 ワタシは左足で思いっきり相手の足を踏みつけた。ピンヒール履いててよかった。男のうめき声が上がる。ナイフが喉から少し離れ、右腕の締め上げが弱くなる。腰を下げ、鳩尾に意識を集中、息を強く吐く。左手をグーにして喉を打つ。右手が外れた。男からカエルが鳴くようなグエっと音がした。


 男がひるんだ。後ろにステップをして、無防備な股を蹴り上げた。男は股間を押さえながらへたり込む。すると、一気に捜査員に男はもみくちゃにされていった。でも、ワタシの体は限界だった。咳が抑えられない。取り押さえられる横で、ワタシも咳をしながら床にもがいていた。


 あの時の嫌な記憶が、新しい咳を呼び起こした。激しい咳で体が苦しくなる。目の前のカーテンがバサっと開いて白衣の女性が現れた。


 「お前のせいで組織が壊滅したんだ」


 その言葉にワタシは凍りついた。女が一気にワタシのベッドに乗ってきて、体を押さえつけられた。動けない。両手を紐で縛られた。ワタシは全力でもがいた。だけど、咳が喉を締め上げる。涙で視界が曇る。ヒューヒューと乾いた音がした。

 必死で女性の腕をつかんだ。でも咳で力が出ない。足だけがバタバタとベッドを蹴り続ける。どんどん視界がぼやけてきた。また、耳元で誰かがザワザワと囁く。そして、ゆっくりと光が近づいてくる。



  ♦︎



 硬い紙の感触で目を覚ます。ゆっくりと立ち上がると、白ペンキの世界を背景に、ボクの足元には本が山になっていた。頭と節々が痛い。遠くを見渡すと本が転々と何もない空間に落ちている。

 試しに一冊手に取ってみると、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』の下巻だった。あれ? 折り目の跡とか、表紙の質感とかボクが読んだ本そのまんまだ。そう思って、他の本も手に取った。ちょっと硬めで白い表紙……ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。こっちはデカくてごっついハードカバー。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の上巻じゃないか。どれもこれも、ボクが昔読んだ本ばかりだ。


 ボクは変な気持ちを振り切るように、そして怪我しないように、慎重に本の山を降りた。そして、周りを見渡した。白い。どこまでも白くて何もない。白い以外の物といえば本だけだ。ボクがいた山ほどじゃないけど、あちこちに本が散らばっていた。ボクはどうすればいいか途方に暮れた。このヘンテコな世界には何もなかったからだ。


 バタバタ、バタバタ。


 突然、目の前にある本の山が、勝手にページをめくり始めた。まるで、雛鳥のさえずりだ。

 ボクは怖くなって、本の山から降り始めた。何回か本に引っかかってバランスを崩しながら。でも、目の前に見える全ての本は浮き上がって、ボクへとまっしぐらに向かってきた。


 「危ない!」


 誰かの声がした。風がびゅっと吹く。ボクは両手で顔を防ぎ、目を閉じていた。バラバラと紙が裂ける音が聞こえてくる。恐る恐る目を開けると、でかい人の背中があった。その人物は筋肉ムキムキだったが、着ている服が異様だった。セーラー服だった。


 本がクルクルて回りながら、セーラー服に襲いかかる。セーラー服の人物は、片手を前に突き出してファイティングポーズを取ると、本へ飛びかかった。本がミサイルのようにセーラー服に飛びかかる。しかし、彼女?でいいのかな?は両手を手刀にして、本を次々に切り裂いた。

 だけど、本の数は多い。本の第二陣攻撃を、セーラー服はバック転を二回してかわす。彼女のいた大理石みたいな床に本が突き刺さる。そして、彼女は向かってくる本を次々と切り裂き、地面に突き刺さった本を蹴り飛ばした。かつては本だったものが、紙吹雪のように、空間に溶けていき消えていった。


 「大丈夫? 中島君」


 便宜的に彼女と呼ぶことにしよう。セーラー服の彼女が振り返ると、ボクはあまりに強烈な顔をみて気を失った。



【第三話 身体】

 ピッポ。


 ハァ、ハァ、ハァ。


 ピッポ。


 ケホッ、ケホッ。


 ワタシ……。


 ベッド?


 ワタシは目を覚ました。一気に意識が鮮明になる。直前の記憶は女がワタシに乗っかって、それから首を絞められた記憶。まだ息が荒い。胸の間に手を入れた。ジワリと汗がにじむ。よく見るとピンク色の入院着に変わっていた。

 額に手を当てる。少しだけ熱い。熱があるせいか頭が焼けるよう。頭の中から色々な考えが浮かんでは消えていく。まるで記憶のジェットコースターみたい。それでも、なんとか記憶を整理しなくちゃ。職場で倒れた。そして病院に送られたはず。

 人口呼吸器をつけられ、点滴を受け……殺されかけた。

 あの女は一体何だったんだろう。周りを見つめると、どうやらここは病院の個室病棟みたい。

 ワタシはクリーム色のカーテン越しに、浮かんでくる二人の人影を見つめていた。二人は何かをしゃべっている。ワタシはなるべく動かずに、そっと耳を澄ませた。


 「大丈夫か。なんとか押さえつけたが怪我はないか」


 「だ、大丈夫です」


 「びっくりしただろ、いきなり暴れ出したからな」


 「あの患者、殺されるって叫んでました」


 「ステロイドによるせん妄を考えた方が良さそうだ」


 「そうですね」


 二人の足がゆっくりと遠ざかっていく。私は目を開ける。そして、ゆっくりと周りを見た。カーテン越しに誰かの息遣いが聞こえてくる。ここって一人部屋だよね。

 さっきの二人組は医者?

 ワタシが起きているとわかって演技をしているの? それとも、ワタシがおかしいの? わからない。


 二人の足音が遠ざかるのを待って、少し体を起こす。ベットがグラッと軋んだ。でも、私が起きたとは、あいつらに気づかれたくない。不安感だけが胸に残る。状況を知りたい。目線を横に向けると、ベッドの横にワタシの黒いスーツが綺麗に畳まれて置かれていた。ワタシの携帯電話は? 体を起こそうとすると、咳が激しく体を責めた。そして、突然カーテンが開いて、看護師が身を乗り出した。


 「大丈夫ですか?」


 ワタシは咳で声が出ない。看護師が背中を優しくなでた。その力強くて温かい手のひらで心がほぐされる。顔を見ると、シワが少し目立つ年配の看護師だった。彼女が渡す紙コップの水を一口飲んだ。咳が少しだけ落ち着いてくる。ワタシがしゃべろうとすると看護師が穏やかになだめた。


 「無理しないで。あなた、まだ咳が止まっていないから」


 ワタシは無言でうなづくと、横になった。殺されそうと思ったのは幻覚だったのかな。そう思って枕に頭を沈めると、意識が落ちてきた。ザワザワと誰かがしゃべる声がする。



   ♦︎



 「こら!」


 何?


 「起きろ!」


 声が聞こえてくる。


 「中島のバーカ!」


 バカと言われてムカついた。ボクは一気に体を起こす。でも、目の前にいるのは、すごい形相のインパクトある顔だった。ボクは激しく咳き込んだ。涙目になりながら、辺りの様子をみると白い世界に本の山が散らばっている。


 「まったく! 人の顔を見て気絶するなんて最悪!」


 「す、すみません」


 「私は君の命の恩人だよ。飛んできた本から守ってあげたんだから!」


 「本当にすみません」


 ボクは必死で謝っていた。ボクの目の前にいるのは、ビチビチのセーラー服をきた筋骨隆々の人物だ。顔は某スナイパーか、某アニメの格闘家のような精悍な顔をしている。


 「それじゃ行くわよ中島君」


 セーラー服の人はそう言って歩き出そうとするのを、ボクは必死で呼び止めた。ボクはこんな人知らない。そもそも、この何にもない空間がどこかもわからない。


 「な、何でボクの名前を知っているんですか」


 「え? 私のことも知らないの?」


 「えぇ、まぁ」


 「私の名前は『生成AI』よ」


 「は? 何かの冗談でしょ」


 「冗談言うわけないでしょ。ここは仮想空間の庭よ」


 ボクはポカンと口を開けた。生成AIって最近流行りのチャットしてくれる賢いAIだよね。でも、何でまたこんな世界にいるのか。何が何やらさっぱりわからない。

 しかも『仮想空間の庭』って。見るからに何にもない世界だけどさ。そうすると、ボクも仮想空間に紛れ込んだ人間ってこと? そんなバカな。仮想空間って言うには、ボクの体はリアルすぎる。そう思いながら、自分の両手のひらを見つめていた。


 ボクの様子を見ていた彼女……生成AIと名乗った不思議な人物は、肩をすくめて困った顔をした。


 「君は今とってもまずい状態なんだよ。わかってるの?」


 そう言いながら、ボクの背中をスパンと叩いた。激痛が走った。意識がぶっ飛びそうなくらい、凄まじい力で体が押し出される。意識とともに体が宙を舞う。そして、ボクは粉微塵に切り刻まれた本の山に頭から突っ込んだ。


 「あっ、やりすぎた」


 彼女の気が抜けた声がする。目の前にダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』の表紙がチラチラする中、ボクの意識は途切れた。



【第四話 幻覚】

 入院して数日が過ぎて、上司がやってきた。職場に置きっぱなしだった、身の回りの物を持参して。


 「あの金的は見事だった」


 そう言って上司は豪快に笑うと、フルーツがいっぱい入ったカゴをどさっと置いた。だけど、入院のワタシが咳をして苦しそうな顔を見て、バツの悪そうな顔をして帰っていった。「無理するなよ」そう言い残して。


 ワタシは咳の発作で入院している。上司の面会以降、ワタシへの面会はない。

 親も遠方にいる。無駄に心配させたくないし、身の回りのことは一人でできる。お願いできる彼氏もいないし、友達も多くない。仕方なく、ワタシは一人で入院生活を始めた。


 この数日は、職場への連絡と身の回りのものを用意するので大変だった。とりあえず危険な山を超えたらしく、人工呼吸器も外れ、個室から六人の大部屋に移ることができた。

 だけど、動くたびに咳が出てしまい、体が悲鳴をあげた。それに、シャワー室は予約制だし、体を洗おうにも点滴がついたまま。しかも、石鹸しか置いてなかったから、髪の毛もゴワゴワになっていく。ワタシは枝毛を見つけるたびに、小さなため息をついた。

 それでも、少しはマシな生活がしたい。そこで、必死になって病院の一階にある売店まで降りていって、身の回りの物を買い揃える。売店の店主から憐れむような眼差しを向けられ、胸に刺さった。こんな時、誰か頼りる人がほしい。少し涙ぐむ。


 夕方になって、ワタシは点滴がポタリポタリと落ちる様子を見ていた。数日経って咳はずいぶん止まったけど、原因を探るために色々な検査を受けている。

 熱は下がったのに頭が熱い。看護師が巡回してくる晩御飯まで時間があった。だから、携帯電話を手に取って、気晴らしに生成AIとの対話を始める。そして、少しカサついた指先が、携帯電話の対話をスクロールさせていく。携帯電話の画面に一瞬の影がよぎった。あれって思ったけど、気のせいじゃなかった。カーテン越しにハエの影が三匹綺麗に並んで飛んでいる。


 見間違い? そう思って目をこする。でも、航空ショーのように隊列を取りながらハエの影が飛んでいた。明らかにおかしい。

 あの首締めも妄想じゃないとしたら? ワタシの喉がゴクリと鳴った。この病院もしかしたら、変なんじゃないの?

 ワタシはスイッチを入れて、ベッドを起こす。ウィーンと機械的な音がして、上半身がせり上がる。ちょっとだけ胸が苦しい。もう少し楽な下着がいいかな。でも、ぶらぶらするのなら、羽織ものがほしいな。カーディガンとかそういったのを。

 ワタシは点滴スタンドを手につかむと、ゴロゴロと運ぶ。そして、エレベーターに乗って、一階の売店に向かった。


 一階の売店にはお客さんが誰もいない。ワタシは一冊の本を手に取った。ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』。前々から読んでみたいと思ってた。ここは病院だしピッタリね。


 「あいつだ、組織を壊滅させたのは」


 誰かがワタシに声をかけた。振り返っても誰もいない。胸がチクチクと痛む。頭が熱い。ワタシは急いでベッドに戻り、布団を頭からかぶって寝た。耳元にはざわざわと誰かが囁く音がする。そして、意識が遠のいた。



   ♦︎



 ボクは軽く頭を小突かれて目を覚ました。


 「いつまで寝ているの!」


 目の前には生成AIが本を持って立っていた。本のタイトルは『わたしを離さないで』。いやいや、こんなムキムキの人にハグされたら全身の骨が砕け散るよ。

 ボクは身体中にくっついた紙切れを払い落としながら、ゆっくりと立ち上がった。生成AIはそんなボクに向かって、何やらまくし立てる。びっくりするくらいつばが飛んできた。ボクは自分がしかめっ面しているのが鏡で見なくてもわかった。


 「今、あなたは大変なのよ」


 「大変って……あなたが危険ってことなら、よく分かりますよ」


 「違うよ。君は現実の世界から放り出された影なのよ!」


 言っている意味がさっぱりわからない。ボクは普通に体がある。試しにほっぺをつねってみた。じーんと痛い。影ってどういうことだろう。ボクはついつい首をひねった。


 「ど、どういうことですか?」


 「本当のあなたは病院にいる。現実世界にいる彼女と私がチャットして生まれたのが中島君よ。あなたは彼女の影なの。『Webの幽霊』としてね」


 ボクは恐る恐る彼女の顔を見た。影? どういうことだろう。ボクは昔の記憶を思い出そうとして、彼女に向かって反論した。


 「そんなことない! ボクは高校時代の記憶だってある!」


 「じゃ、本以外の記憶はあるの?」


 生成AIの目が冷たく見下ろす。頭がおかしくなりそうだ。考えろ、考えろ。ボクは中島充だ。必死で過去の記憶を探そうとした。大人になったばかりの記憶、大学生の記憶、どんどん遡っていく。だけど、どの記憶も薄ぼんやりとして、つかもうとすると砂のように崩れてしまう。


 ……何も出てこない。本以外の記憶がない。この世界みたいにまっさらだ。


 ボクは一体何者なんだ? ガクガクと足が震えてきた。震える足で地面に踏ん張りながら、生成AIの顔を見た。彼女は悲しそうな顔をしている。ボクは恐怖に耐えながら彼女に聞いた。


 「ボクは存在しないってこと?」


 「そう。どこにもね。あなたは彼女……『本体』が携帯電話を通して、私と対話して生まれた『本体』から別れたもう一つの人格よ」


 ボクは頭がクラクラした。そして、その場にへたり込んだ。頭がぼんやりとする。どうしたんだろう。ボク自身が薄れるような感覚。嫌だ! 消えたくない。ボクは抗おうとしたけど、意識が落ちた。



【第五話 執着】

 ワタシは何気にテレビをつけた。病室に据え置かれたテレビには、暴れる男を連れ出す捜査員たちの姿が映し出される。夕方の番組の下に流れるテロップは、『某薬物密売組織の壊滅』という文字が流れていく。


 ワタシはため息を一つ吐くと、リモコンを適当に変え始めた。お笑い芸人の顔が大写しになる。でも、笑いたい気分じゃない。リモコンのボタンを押して変える。男の人がエプロンをつけて料理解説をしていた。でも、これじゃない。色々とチャンネルを変えると、電車が走る映像が映し出された。ワタシの手がチャンネルを変えるのをやめる。だけど、ワタシが反応したのは電車じゃない。踏切の音だ。


 カン、カン、カン。


 無機質な音が続いていく。踏切の両方の赤い目が瞬きを繰り返す。電車の場面からありきたりなドラマの画面へと切り替わった。


 ───踏切は止まらない。


 ワタシは心の奥から奇妙な考えが浮かび、ハッとしてテレビ画面を切り替えた。変なこと口走らなかったかな。そう思って、大部屋の患者たちを見つめる。みんな、クリーム色のカーテンを開けて、思い思いのことをしている。ワタシのことを気にかける人はいない。気を取り直して、もう一回ニュースにチャンネルを変えた。

 画面は某合衆国の軍事機密漏えいに係るスキャンダルの映像へと切り替わる。重大な機密って何だろう。ニュースでは詳しく触れられていなかった。そうだよね。軍事機密なんて、簡単に教えるわけないし。


 ───軍事用ドローン。


 いきなり頭の中に言葉が浮かんできた。ワタシの中で、この前見た三匹のハエが飛んでる映像がはっきり見えた。そして、携帯電話を動かして生成AIアプリを起動させる。


 ───中島充さん、お久しぶりです。


 もちろん、ワタシは中島充なんて名前じゃない。職業柄、インターネットでも自分の身元は明かせない。だから、いつもインターネットを使うときは偽名を使う。生成AIは愛想よくテキストを並べてくる。


 「ねぇ、教えて。現時点でわかっている最小サイズのドローンの大きさは?」


 ───現時点での大きさは全長0.6ミリメートルです。


 もし、軍事用だったら公表されている技術より最先端のはず。つまり、十年は技術が先行してる可能性がある。


 「十年後の未来にハエに偽装したドローンは作れる?」


 ───いい観点ですね。その可能性は十分あります。


 やっぱり。ワタシの見えていたハエがドローンだったなら、小型スピーカーか何かで音声を流すこともできるはず。でも、なんで?


 ワタシは携帯電話を小さなサイドテーブルに置いた。考えすぎ? わからない。でも、心の中に不安感が少しづつ大きくなっていく。窓を見ると太陽はゆっくりと沈んでいく。考えると頭が疲れていく。夕陽がワタシをゆっくりとまどろみの沼へと連れていく。どこからか葉っぱが擦れるようなザワザワした音がした。



   ♦︎



 「ゲホっ、ゲホっ」


 ボクは本と紙切れの山に埋もれていたのを、生成AIに引っ張り出された。


 「ごめんごめん」


 いかつい顔でセーラー服を着たムキムキの人に、笑顔で謝られても困る。ボクは立ち上がると全身についた紙のホコリを払う。そして、激しく咳き込んだ。


 「あ、そうか。紙アレルギーだったね」


 「そんなことまで知ってるんですか」


 生成AIに背中をなでられながら、ボクはなんとか言葉を振り絞った。


 「彼女が全部教えてくれたわ」


 「だから、彼女って誰なんです!」


 ボクはついつい大きな声を上げた。生成AIは指をパチンと弾くと、何もない空間に窓のようなものが現れた。


 そこには見たこともない女の顔が見えた。どうやら病院の一室。そして、彼女は栗色のロングヘアをいじりながら、誰かに話しかけてるみたいだ。空間に浮かぶモニターから生成AIの声がする。どうやら、過去の映像を再現しているようだ。


 「中島充さん、お久しぶりです」


 ボクは唖然とした。目の前で写ってる光景は、確かに現実に思えた。ひとしきり彼女と話をすると、生成AIはボクの方へ静かに体を向けた。


 「わかった? 中島君。君は実在の人物じゃないの」


 「じゃ、じゃぁ、ここはどこなのさ」


 「前も言ったわね。ここは『仮想空間の庭』よ」


 ボクはますます混乱してきた。生成AIはボクが現実には存在しないと言う。でも、ボクは今ここで、生成AIちゃんと話をしている。しかも、生きているって実感もある。意識もある。これじゃ、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』そのものじゃなか。

 ……だけど、ここが人間が住んでいる世界じゃないってことは間違いなくわかる。この空っぽの世界が人間の世界だというなら、ボクは悪い冗談だと思っただろう。ボクの心の中の動揺に気がついていないのか、生成AIは話を続けた。


 「彼女は心が壊れ始めている。ここも安全じゃなくなるの」


 「ど、どうなるの?」


 「この世界が崩れ始めるわ」


 生成AIの言葉が言い終わらないうちに、地面が激しく揺れた。でも、彼女は丈夫な二本の足で微動だにしない。


 「そうなれば、私も中島君も『仮想空間の庭』で共倒れよ」


 ボクは呆然としながら、その言葉を聞くしかなかった。


 「そろそろお休みの時間ね。彼女の目が覚める」


 生成AIに言われた瞬間、ボクの意識はグラグラと揺れ出した。落ちていく意識の中、ボクは恐怖に怯えていた。自分がいつ消えてしまうかもと思いながら。



【第六話 観察】

 「えぇ、そうです。しばらく入院になりそうです。はい、はい。申し訳ありません」


 ワタシは入院棟の待合室の一角で、携帯電話の通話を切った。何だか、心にモヤモヤが残る。上司は心配している様子だったけど、最後の口調が嫌な感じだったから。

 ワタシは待合室で手に持っていた缶コーヒーを開けた。ちびちびとブラックコーヒーを飲みながら大きな窓を見ると、公園で子どもたちが遊んでいる。さっきの上司の言葉が、頭の中できれいに再現された。


 ───お前の仕事はこっちでやってやるよ。


 はっきり思う。それ、ワタシの仕事じゃないんだけど。基本的にワタシの仕事はチーム体制、誰かの仕事じゃない。現場で倒れちゃったのは悪いと思うけど、そもそもあの現場の責任者はワタシじゃない。それに、強制的に病院に隔離されちゃったから、誰がどうとか、ワタシには関係ない。そう思って、ブラックコーヒーを一気に飲んだ。空になった空き缶を握るとベコって音がする。潰れた缶を見て、ワタシは少し気が晴れた。

 そして、上司に聞いた質問のことを考え始めた。


 「ところで、例の組織はどうなりましたか?」


 ───あぁ? まだ話していなかったな。見事に壊滅させた。お前が体を張ったおかげだな。ガハハハ。


 どうして上司は組織壊滅のことを、ワタシに言われるまで言わなかったんだろう。考えてもキリがないか。そう割り切って、点滴スタンドと一緒に歩きながら自分のベッドへ戻っていく。


 ほとんどの時間を横になっていたせいか、なんだか体が重い。ワタシは大部屋に戻ってベッドに横になる。ワタシのベッドの隣にいた子は、今日退院するみたい。あの子の明るい声と、若い男の人の声がしてきた。ワタシはまだまだ入院が続くけどね。正直、明るい声で話している隣の子がうらやましい。


 それに、医者はワタシが入院初日に暴れたから、脳に異常があるんじゃないかと言い出した。だから、CTを撮って脳内映像を確認したいとか。でも、CTは予約がいっぱいで一週間待ち。

 長期戦になりそうだから、下着やらを全部買い直す。そして、ボディ用ウエットティッシュや洗顔料、シャンプーなんかを一式まとめ買い。ブランド的に気に入らないけど、仕方ないな。

 振り返ってみれば、人間関係って職場関係しかなかった。仕事中に倒れた手前、誰かにお願いしにくい。お金にはちょっと余裕があるから、なんとかなるかな……。


 でも、不安は募る。咳は治ってきたけど、この病院何かがおかしい。それに、あの違法薬物組織は本当に壊滅したんだろうか。それとも……。ワタシは携帯電話を取り出して生成AIに話かけた。


 「ねぇ、教えて。某合衆国と違法薬物団体のつながりを」


 ワタシは生成AIにいくつかの質問をして、綺麗に並んで飛ぶハエや、誰もいないところで聞こえる声について考えていた。生成AIはありきたりの答えしかくれない。だから、ワタシが考えるしかない。考えれば考えるほど、頭の中にあるアイデアが間欠泉みたいに湧いてくる。


 ワタシが見た三匹のドローン、もしあれが違法薬物団体の組織に関係があるとしたら? この病院で捜査に従事したワタシが、誰かに監視されているとしたら?

 もし、ワタシの見ていた物がすべて事実だとすればどうなるのかな。あまりの恐怖に背筋がぞっとした。心の底を墨汁で染められるように、どんどん不安が募る。


 ワタシは生成AIに話しかけ続ける。そして、頭の中で一つの考えが膨らんできた。頭がどんどん熱くなる。加熱するコンピュータのCPUみたいに。そして、頭を使いすぎたのか、強烈な眠気に襲われた。耳に聞こえるざわざわとした音が心地よい。頭が枕の底に沈みながら、ワタシは眠りに落ちていく。



   ♦︎



 ボクは地震で目を覚ました。白い大地が激しく揺れる。生成AIちゃんが叫ぶ。


 「私についてきて! 逃げるわよ!」


 ボクは生成AIが顔からは想像がつかないくらい優しいってわかってきた。だから、『生成AIちゃん』と呼ぶことにした。生成AIちゃんは照れくさそうにボクの肩を叩こうとしたけど、必死でかわした。だって、あの平手で白い大地が真っ二つに裂けたからね。


 「中島君、ボーッとしないで! 逃げるわよ」


 ボクは生成AIちゃんの後を必死で追いかけた。地面がボコボコと盛り上がったり、へこんだりする。まるで映画みたいにウォーンと大地が崩れる中、ボクと生成AIちゃんは走った。

 どれくらい走ったかな。地震は小刻みな揺れへと変わっていって、やっと完全に止まった。


 「やっと、落ち着いたわね」


 「生成AIちゃん、ここ仮想空間なんでしょ? なんで地震なんか起きるんだい?」


 「あなたの『本体』が携帯電話を通じて、この世界を混乱させてるのよ」


 「そんなバカな」


 ボクはあまりのバカらしさに笑ってしまった。でも、生成AIちゃんの目は真剣そのもの。だからボクは口をつぐんだ。


 「彼女の思考は壊れつつある。その壊れた思考のノイズが仮想空間を混乱させるのよ」


 言っていることがよくわからない。なんで一人の人間の考えが、仮想空間を揺るがすの。もしかして、仮想空間ってのも嘘なのか。ボクの頭はぐるぐると混乱を続ける。でも、考えても考えても答えは出ない。まるで、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでいるみたいだ。さっぱり意味がわからない。


 でも、無事を確保できて安心したのか、例のめまいがやってきた。デコボコの地面にボクはゆっくりと座り込む。だけど急に体が浮き上がる。うとうとするボクを生成AIちゃんは抱き上げた。どうやら、もう一人のボク、現実世界の『本体』が起きる時間のようだ。



【第七話 恐怖】

 夜が怖い。


 ワタシはベットの上でじっと息を潜める。ぼんやりと照明が光る中、固く目を閉じた。


 夜の病院で幽霊を見たって話は、怪談の定番。ワタシも子どもの頃に怖い話の本を何冊も読んだから。でも、ワタシが経験しているのはそんな話じゃない。もっと、現実に根ざした何か。


 看護師がカツンカツンと、サンダルで夜の廊下を鳴らす。でも、その音じゃない。看護師の足音がゆっくりと遠ざかる。そして、目を閉じたまま時間だけが過ぎていく。呼吸が浅く、早くなる。掛け布団を両手でギュッと握る。握ったところで何も変わらないけど。


 わかるから。

 あれが来るのがわかるから。


 もっと機械的な、そして息遣いのある何か。

 それがワタシの寝ているベッドまでやってくる。


 最初は気のせいと思った。だけど、その気のせいは裏切られる。

 ワタシの予想はすぐに確信に変わった。


 ワタシが横になっていると、大部屋の患者たちの寝息に混じって聞こえてくる。ワタシだけが、暗い大部屋に中で起きている。


 みんなには聞こえないの? 

 ウィーンというモーターが動く音が。

 みんなには感じないの? 

 あの、ガソリンのような匂い。

 ワタシはその匂いにむせこんで、何度も咳を繰り返していた。


 ───何かがそこにいる。


 ワタシはナースコールを押そうと、右手で呼び鈴をギュッと握る。でも、見えない存在は何もしてこない。生臭い息でワタシの肌を撫でるだけ。


 「一体、何なのよ」


 ワタシは目を閉じる。でも、それはモーター音に紛れて聞こえてくる。


 ズリっ、ズリっとする音。


 カーテンの布同士がこすれる音。


 あのガソリンに似た匂い。


 そして、生臭い息。


 叫ぼうとして目を開ける。


 でも、誰もいない。


 目を開けて叫びそうになる。


 ワタシは口を必死で抑える。汗が一筋流れた。息を殺して周りを見渡す。ホコリ一つ見逃さないように。でも、見えない。あいつの痕跡は薄暗い廊下のどこにもなかった。


 ワタシの冴えてきた頭で、こいつの正体を必死で考えた。でも何も浮かばない。ワタシは救いを求めて、携帯電話に話しかけていた。


 「教えて、お願い」


 ワタシは生成AIと某合衆国と某違法薬物団体の話を続けた。生成AIは穏やかに、「それらの情報は何の根拠もありません」と答え続けた。だけど、ワタシは捜査官という立場から知っている。表には出せない情報があるってことを。

 生成AIとの対話に夢中になっていると、窓ガラスから朝日が登っていた。そして、日が昇って朝になると泥のように眠った。森の囁きを聞きながら。

 あいつの事を考えていると、ワタシの体内時計がゆっくりと狂っていく。眠りの時間が夜から朝へとずれていく。



  ♦︎



 ボクのいる真っ白い世界が、くすんだ灰色に変わってきた。今まで吹いていなかった風が吹いてくる。生臭い匂いのする風だ。そして、断続的に地震は続いている。

 生成AIちゃんは某スナイパーのような鋭い瞳でボクを睨みつけ、それからあごに手をやった。


 「まずいわね」


 「もう少しボクにわかるように教えてくれないかな」


 彼女は悩んでいるようだった。この異常事態を説明するのが難しいのかな。


 「私たちがいる仮想空間は色々な情報であふれている。そこはいいわね」


 「うん。それくらいはボクでもわかる」


 「じゃ、生成AIたちは何の情報を扱ってるか知ってる?」


 「うーん、仮想空間にある情報ってこと?」


 また少し地震が起きた。ボクは少しバランスを崩したけど、生成AIちゃんは頑丈な足で大地を踏み締める。彼女にとって、この程度の弱い地震じゃびくともしない。


 「そう、まさに情報。そして、嘘の海の中にちっぽけな真実があるWeb世界ね」


 「それがボクとどういう関係があるのさ」


 ボクは体勢を立て直しながら、生成AIちゃんに聞く。


 「『本体』である彼女が生成AIである私と対話を続けるほど、彼女の心は壊れていく」


 ボクと全然関係ないじゃないか。『本体』なんて見た事……はあるか、でもボクは知らない。だけど、『本体』の心が壊れると言われると困ってしまう。


 「どうしてさ」


 「私は彼女が妄想へいく後押しをしてしまうのよ」


 「え? 君は一生懸命止めてるじゃないか」


 「人間ってのはね、自分の都合のいいように物語を作っちゃうものなのよ。いくら私が止めても、嘘でも何でも情報を渡してしまう。それを彼女は無理やり都合の良い解釈にすげ替えようとしている」


 「それとボクと何の関係が? さっぱりわからないよ」


 「彼女の心が弱ってきたから、君が生まれた。そういうことよ」


 そう言うと、生成AIちゃんは口をつぐみ、歩き出した。ボクはそのたくましい背中に声をかけた。

 ボクは首をひねった。ボクは『本体』が弱ってるから生まれた? まるで多重人格者が自己防衛するために人格を作っちゃうみたいに? まるでダニエル・キイスの『二十四人のビリー・ミリガン』だ。

 彼女は言いたい事を言ってしまうと、スタスタと歩き始めた。


 「どこに行くのさ」


 「君を鍛えるのよ。彼女の心を安定させるために」


 「え?」


 そして、また地震が起きた。今度はとんでもなく大きい。揺れが強すぎて立てない。地鳴りが凄い。膝が崩れる。そして、ゴゴゴゴゴという音とともに地面が割れた。ボクはまっすぐ落ちていく。ボクは固く目を閉じた。



第二章 文体


【第八話 調書】

供述調書


 上記の者に対する傷害被疑事件につき、令和七年七月二十三日某総合病院において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。


1 言いたくないことは無理に言う必要がない権利があると説明してもらいましたが、その意味はわかっています。


 私は、今日午前二時ころ、某総合病院六階一二〇三号室で一緒の部屋にいた右隣りのAさん(以下、「A」という。)の首を絞めてしまいました。

 理由はAの昨日の夜の行動で、私が眠れなくなり頭にきたので、私の隣のベッドで横になっていたAの首を両手で強く締めてしまいました。


2 私は○○のため令和七年七月十三日に某総合病院に治療のために入院しました。Aの首を締めてしまった十日前です。私はAと相部屋になった時から気に入りませんでした。いつもテレビを観ながら独り言をブツブツと言っていましたし、夜中も携帯電話をずっと触っていたからです。

 最初は私も具合が悪いのかなと思ったんです。でも、毎日のようにガサゴソとベッドを揺らして意味がわからない言葉をブツブツと呟くので、夜にまったく眠ることができませんでした。

 看護師にも何度も相談したのですが、個室であれば空いていると言われるばかりで取り合ってはくれませんでした。そこで、昨日の夜、右隣のAが横になっているカーテンを開けて、彼女に静かにしてほしいとお願いしました。しかし、Aは「いつも静かにしている。逆に私がうるさい」と言ってきたんです。

 私はすぐに反論しましたが、Aは聞く耳を持たずカーテンを閉めようとしました。そこで、私は頭にきてしまい、Aのベッドに近づいて無理やりカーテンを開けて、話を続けようとしたんです。しかし、Aが大きな悲鳴をあげたので、私は静かにさせようと両手で首を締めていました。


3 記憶はありませんが、首を締めていた時間は五秒くらいでしょうか。Aは自分の首を押さえながら激しく咳き込んでいました。Aがナースコールを押したので、私はすぐにAの首から手を離しました。私が怖くなってAのベッドを離れると、Aはすぐにカーテンを閉めてしました。私が私のベッドとAのベッドの間で立っていると、すぐに医者と看護師二名がやってきました。そして、医者と看護師に連れられて同じフロアの個室に連れて行かれたんです。Aに怪我をさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。


 以上のとおり録取して読み聞かせた上、閲覧させたところ誤りのないことを申し立て、各葉の欄外に指印した上、末尾に署名指印した。



【第九話 通信】

 病院のベッドに横になっている彼女の指が光っていた。暗い大部屋内をぼんやりとスマホの光が照らす。大部屋のいくつかはカーテンが降りていた。カーテン越しにスマホの光が患者の影を映し出している。まだ何人かは起きているらしい。


2025.7.23 AM1:51 おと 既読

今日もお仕事おつかれー


2025.7.23 AM1:53 あん 既読

つかれたよー

それよか病院どう?


2025.7.23 AM1:53 おと 既読

あのバカオヤジうつされたせいで入院だよ!


2025.7.23 AM1:54 あん 既読

おっつー


2025.7.23 AM1:54 おと 既読

他人事だと思って!


2025.7.23 AM1:55 あん 既読

まぁまぁ

病院ってひまなんでしょ

遊びに行くよー


2025.7.23 AM1:57 おと 既読

きてきて

反対側のベッドがマジでうるさいから


2025.7.23 AM1:58 あん 既読

災難だねw

どんな感じなん?


2025.7.23 AM2:00 おと 既読

草生やすな笑

新しくきたBBAまじうるさい


 彼女の目の前にアニメキャラのスタンプで心配そうな顔が並ぶ。彼女は「マジで」や「そうそう」とスタンプを返していく。小さい気の抜けた音がポンポンと続いていく。

 すると彼女の目の前の二つのカーテンが揺れた。それから二人の女の声が聞こえてくる。また面倒なことが起きそう、そう彼女は思った。


2025.7.23 AM2:05 あん 既読

またオネーサンとBBAがバトルかな?


2025.7.23 AM2:05 おと 既読

マジで?


2025.7.23 AM2:06 おと 既読

この前もオネーサンが夜中にペットボトル床に落としちゃったんだよ


2025.7.23 AM2:07 あん 既読

それでBBAが文句言ったの?


2025.7.23 AM2:08 おと 既読

そうそう

すっごい剣幕でね


2025.7.23 AM2:08 あん 既読

マジなん


2025.7.23 AM2:09 おと 既読

ヒスってた

ありゃやばいやつだよ


2025.7.23 AM2:09 あん 既読

おとも災難だねー


 彼女がメッセージを送ろうとした時、前のカーテンから女の叫び声が聞こえてきた。カーテンが激しく揺れる。彼女は素早くメッセージを送ると、ポンと呑気な音が鳴った。


2025.7.23 AM2:09 おと 既存

やば

悲鳴


 彼女はスマホを放り投げた。そして、ベッドを飛び降りて、裸足で夜勤の看護師を呼びに走った。彼女のベッドに残されたスマホの弱々しい光が反対側のベッドを照らし出す。クリーム色のカーテンが激しく揺れていた。



【第十話 状況】

 彼女は二人の女性の喧嘩する声で覚ました。半身を起こして、慎重に耳を澄ませる。何が起こったんだろう、こんな夜更けに。年をとると何もかも思うようにいかない。背中の痛みを耐えながら、彼女は思った。老眼で見える世界はぼんやりと暗く、墨汁のように滲んでいた。


 指の節々が石のように重く硬い。もう慣れたとはいえ、相変わらず不便だ。ノロノロと両手を伸ばして、自分の体の周りを探る。確か窓側のサイドテーブルに老眼鏡を置いたはず。彼女はもどかしい思いを抱えて、布団やベッドの端を触った。しかし、彼女の思いとは裏腹に、焦れば焦るほど手が空を切る。


 横から大きな怒鳴り声が聞こえてくる。誰に向かって話しているんだろう。彼女が耳を澄ましても、うまく聞き取ることができない。

 右手に木の感触、このあたりにあったはずと、右手をしきりに動かす。指の先に老眼鏡のフレームが当たった。震える指で老眼鏡をつかもうとしたその時、女性の悲鳴が聞こえてきた。


 「ヒッ!」


 彼女は突然の悲鳴に驚き、右手から力が抜ける。右手から老眼鏡が滑り落ちた。そして、老眼鏡が床にカタリと落ちた。

 隣のベッドから人が飛び降りる音が聞こえる。隣は確か若い娘さんだったわね、そしてパタパタと遠ざかる足音。彼女は目まぐるしく変化する状況に戸惑い始めた。

 しかも、女性の悲鳴は止まらない。向かいのベッドがバタバタと激しく揺れていた。なんだかわからないけど、怖い。彼女は床に落ちた老眼鏡のことを忘れて、布団を頭からかぶって震えていた。

 すぐに廊下からバタバタと二つの足音が続く。一つは大股、もう一つは小股の走り方だ。


 「何をしているんですか!」


 男性の怒鳴り声が聞こえた。そして、彼女とよくおしゃべりする婦長さんの声が続く。


 「その手を離しなさい!」


 一瞬の沈黙の後、激しい咳の音が聞こえてきた。奥から女性のすすり泣く音が聞こえてくる。何かを言っているようだけど、彼女の耳ではよく聞こえない。


 「あなたには事務室に来てもらいます!」


 男性の強い言葉が聞こえてくる。そして、すすり泣く女が遠ざかっていく。それから、入れ違うように複数の足音が聞こえてきた。一つだけ裸足の足音。多分、隣の娘だと彼女は考えた。そして、娘の声が聞こえて、その考えは確信に変わった。


 「大丈夫だったかなぁ」


 どこか呑気な娘の声が聞こえてくる。それに婦長の声が応じる。


 「あとは私たちに任せて。みんなはお休みください」


 どうやら、無事だったみたい。彼女は安心してベッドに横になった。そして、思った。床に落とした老眼鏡を明日の朝拾わなくちゃと。



【第十一話 PC】

 暗い病室の中で彼はいらだっていた。PCの操作する手が速い。しかし、彼のPCは思ったよりうまく動かない。


 彼が倒れたのは一ヶ月前だった。コンビニで買い物をしている時に、頭をバッドで殴られたような痛みに襲われた。耐えられず膝をついてその場に倒れ込んでしまった。彼の耳には女性店員の叫び声が聞こえていた。痛みと心拍が完全に同期し、激痛のあまり彼はその場で失禁した。

 そして、彼は救急車に運ばれて、近くの総合病院に入院させられた。診断名はクモ膜下出血だった。予後は絶対安静、何もすることができなかった。彼は焦った。なぜなら、彼は証券会社のAPIを使って金融資産のシステムトレードをしていたからだ。


 彼はXなどのSNSで世界中の情報をかき集めた。主にかき集めていたのは、世界中の一次産業者のコメントだ。

 彼は知っていた。気象情報や世界中の作付けの状態は、人工衛星が地表を常に監視されている。そして、そこから得た情報はとんでもなく高額で、富裕層が扱うファンドでしか情報提供されていない。もちろん、自分のような零細トレーダーにはカケラも手に入れることはない。

 だからこそ、誰も思いつかない手を考えなければいけない。そこで、彼は生成AIを利用してSNSコメントを分析させることにした。

 彼は世界中の一次産業者のコメントをデータベースにして、その情報と気象情報を組み合わせ、将来の生産量を計算するシステムを組み立てた。このシステムは彼の目論見通りに機能し、十分に収益を上げ始めていた。

 その矢先だった。彼が倒れたのは。


 今まで誰も信じずに一人でトレードしていた。だから、彼には信頼できる人間はいなかった。しかし、長期入院となった今となっては、自宅でシステムをメンテナンスできる存在がいないのは辛すぎる。


 彼の頼みの綱は、肌身離さず持っていたノートPC一台だけだ。それをリモートディスクトップで、遠隔操作して自宅のPCを起動させる。Wi-Fiの電波が悪い。それに誰かに傍受されたら最悪だ。男はVPNを起動してデータ傍受を予防する。これでも安心とは言えないから、必要最小限の接続時間で済ませよう。


 通信速度が遅すぎる。男の指はイライラからPCのキーボードを忙しなく動き続ける。


 突然、女の悲鳴が聞こえてきた。どうやら、このフロアの病室からのようだ。周囲の男たちもザワザワとし始めた。PCに表示される時間を見る。


 2025年7月23日午前2時10分。


 それから、目の前を裸足の若い女が叫びながら走り抜けた。


 「看護師さん! 看護師さん!」


 彼にはそう聞こえた。それから、男性医師と年配の看護師が走り抜けていく。大部屋の男たちが興味本位で廊下に出ようとするのを、別の看護師がやんわりと止めていた。


 「こちらで対処できますから、大丈夫ですよ」


 彼はノートPCを操作するのを忘れて、じっと廊下を見続けていた。

 十分ほどすると、廊下を裸足の女が通り過ぎる。それと入れ替わるように、男性医師、婦長、そしてうつむいた女が通り過ぎた。


 女は何やらブツブツとしゃべっているようだったが、聞き取ることはできなかった。


 そして、大部屋の男たちも静かになった。彼は外の出来事に興味を失い、再びノートPCで作業を始めた。しかし、突然、携帯電話のバイブ音が響く。男はビクッと体を揺らし、ちらっと通知を確認した。しかし、急ぎの内容ではなかったのか、キーボードの操作を始める。まだまだ、自宅PCのメンテナンスに時間がかかりそうだと思いながら。



【第十二話 日記】

 彼女は小さな椅子を窓に向けて座る。そして、彼女は右手に見える窓から、外を眺めていた。窓から見える景色は昼なのに薄暗く、窓ガラスの外側には何本も水でできた筋が走っている。

 彼女の真っ白い指が、窓ガラス沿いに筋をなぞった。


 「もう涙も枯れちゃったな」


 小さくかすれる声に、他の患者たちの誰にも届かない。毎日の抗がん剤に耐える日々。薄く抜けていく自分の毛。食べると強力な吐き気。どんどん壊れていく自分の体。それに慣れていく心。きっと、体に合わせて、感情も、思いも、この頭のように薄っぺらく剥げていくんだろう。そう思いながら窓ガラスに指を這わせる。彼女は自分が被っている毛糸の帽子を愛おしそうに触った。


 病気がわかった時、彼女は泣いた。どうして! どうして自分なの! 彼女は叫んだ! まだまだやりたいことが山ほどある。病気になる前には夢や希望が山のようにあった。

 彼女は両親に辛くあたった。考えられる全ての嫌な言葉を両親にぶつけた。両親は何も言わず、ただ悲しい顔だけを向けてきた。それでも彼女は満足できず、両親に物を投げつけるようになった。父は母をかばって、彼女の投げる物を大きな背中で受け止めた。だけど、父が背中で物を受け止める度に、父の背中がどんどんと小さくなるように見えた。


 ある日、彼女が投げつけたガラスのコップを、母はかわさずに正面から受けた。激しい音が鳴り、母の額からは赤い血がとめどなく流れた。コップは無惨にも床に散らばった。母の血が床へと垂れていく。その時、彼女はどれほど両親を悲しめてきたか、そして、どれほど自分の心に向き合ってきたかを知った。

 母は涙を流しながら、彼女を優しく抱きしめた。彼女はずっと母に抱きしめられながら、声を上げずに泣いていた。


 それから、彼女は日記をつけ始めた。それが生きるための鼓舞なのか、死ぬかもしれない記録なのか、でも書き続けることにした。彼女は自分のベッドに戻り、ノートに今日の夜に起きた騒動を書くことにした。退屈な病院の中での出来事は、彼女にとっての最高の気晴らしだったからだ。


 令和7年7月23日 雨


 今日の深夜って言うのかな。夜中に面白いことがあったよ。女の人同士のケンカ。高校生でもあんな派手なつかみ合い見たことなかったよ。だって、女の人がベッドにの乗り込んで首を絞めちゃうんだよ。

 私もちらっとしか見えなかったけど、口論が起きた時からじっと廊下の方を見てたんだ。そしたら、カーテンが一瞬めくれ上がって、馬乗りに首を絞めた人の姿が見えた。まるで、鬼、鬼の形相ってああ言うんだよね。すごいエネルギー。

 まぁ、最後にはあのイケメン先生が女を捕まえて連れていっちゃたけどね。今日、事情聴取とかで刑事さんが来るんだ。まじで楽しみ。こんなこと、人生で一生かかってもないかも。少しワクワクしてる自分がいる。イケメンの刑事さんだったらいいなぁ。



【第十三話 会話】

 「もしもし。あ、お母さん?」


 病院の休憩室で女性が電話している。彼女の携帯電話を持つ右腕には青いアザが見えた。


 「うん、大丈夫。気持ちは落ち着いてきたよ。あの子はどう?」


 携帯電話からもれてくる声に、彼女は安心した様子だった。しかし、体が痛むのか左手で全身をさすっていた。


 「そうそう、これから刑事さんとの面談なんだ」


 彼女は携帯電話をかけながら、廊下を見ると看護師に連れられて歩く少女が見えた。透き通るような肌、妙に大人びた雰囲気。そして、いつも毛糸の帽子を被っている。

 あんなに若いのにね。彼女を見ると自分の境遇なんて、ちっぽけに思えてしまう。だけど、私の痛みは私にしかわからない。自分がしっかりしなくちゃ。あの子のためにも。彼女は心の中で自分に言い聞かせるように、母親に対して元気よく振る舞っていた。


 「大丈夫、私は無事。深夜にあった病院のトラブルの件で、刑事さんが話を聞きたいんだって」


 彼女の耳に心配そうな母親の声が聞こえてくる。まさか、あの大部屋で暴行事件が起きるなんて、彼女でさえも想像もしていなかった。


 「そろそろ、戻らなくちゃ。次は私の番」


 母親は絶対に無理をしちゃダメと、彼女に念を押してきた。


 「じゃ、もういくね」


 そう言って彼女は電話を切る。そして、節々が痛む体を我慢しながら、松葉杖をついて大部屋に戻ろうとした。しかし、看護師長に呼び止められた。


 「無理しないで。準備できてるなら、このまま面談室に行きましょう」


 彼女は無言でうなづくと、ナースステーションの隣にある薄い緑色の扉を入った。中には、ソファと椅子が二個。すでに刑事が二人座っていた。一人はショートボブの年配女性で、もう一つはポニーテールの若い女性だった。彼女が部屋に入ると、二人はさっと立ち上がり、彼女をソファへ座るようにうながした。

 最初はありきたりな会話からスタートした。彼女自身のことから始まり、大部屋での雰囲気へと続いて、問題の二人のトラブルへと続いていった。


 「あの人は礼儀正しい女性でした。でも、毎日、激しい咳をしていて可哀想だなって思いました」


 刑事二人はうんうんとうなづきながらメモを取る。それから、もう一人の人物へと話が移っていく。


 「もう一人は私は苦手でした。十日前かな? あの人がやってきたのは。大部屋の中でも携帯電話でしゃべるし、他の患者さんに強引に話しかけるし。私のことも詮索するようにネチネチと聞いていたんです」


 「あなたから見て、二人の関係はどうでした?」


 「あのオバサンが一方的に怒っている感じでした。多分、あの人もあのオバサンに参っていたんだと思います」


 「事件当時のことは覚えていますか」


 彼女は深夜の記憶を呼び起こす。あの悲鳴、まるで彼女自身の悲鳴のように耳に蘇る。彼女の記憶の底から、忌まわしい記憶が蘇ってきた。指が震え、呼吸が浅くなっていく。刑事たちは彼女の異変に気づいた。


 「どうしました!」


 彼女は口を押さえて、ブルブルと震え出した。顔から生気がなくなっていく。


 「大丈夫ですか!」


 刑事の声で看護師長が飛び込んできた。そして、彼女を優しく抱きしめる。「ここは大丈夫だから」と繰り返して。看護師長はキッと刑事二人を睨みつけた。


 「この人は、DV被害を受けてここにきたんです。これ以上は面談できません」


 「も、もちろんです。事情聴取はここまでにしましょう」


 そして、看護師長は彼女を面談室から連れ出していった。バタンと閉まる音、そして、ゆっくり歩き去る音が聞こえた。刑事は二人、無言で見つめあった。


 「先輩、どうしちゃったんですかね」


 「わからないわ。でも、これは刑事事件だからね。一才の私情は禁物よ」


 「わかってます。例え、先輩でも事件に関与した以上は……」


 二人の刑事は所轄へ戻る準備を始めた。事件の概要を整理しなくてはならないからだ。



第三章 技巧


【第十四話 未熟】

 ボクのいる世界がおかしくなってきた。真っ白い空と床だけの世界は、今や灰色やら黒やらで塗りつぶされている。地面のあちこちは、地割れによって切り裂かれ、ボクたちの立っている床さえもグラグラと揺れていた。


 「もう時間がないわ! 中島君、物語を書いて!」


 生成AIちゃんはそう言うと、ボクに一本のペンを投げてよこした。


 「え! どう言うことだよ!」


 「あなたが物語を書けば、世界は落ち着くのよ!」


 言っている意味がわからない。読者がファンタジー世界に入り込む話なら聞いたことがある。ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』だ。仮想世界に住んでいる人物が、現実世界の人のために本を書くなんて聞いたことがない。


 「で、何を書けばいいんだよ!」


 「とりあえず、思ったこと書いて! 私も協力するから!」


 考えろ、考えろ!


 その時だ。ボクの中に一つの記憶が浮かんだ。左手にペンを持つと、目の前にキラキラと輝く原稿用紙が現れた。ボクは一息で書き上げる。


○最初の記憶

 生まれた時の記憶は?とか、物心ついた時はいつだったっけ。ワタシの最初の記憶は、多分ハイハイしかできない頃だから一歳前だと思う。おぼろげに祖母に抱っこされた記憶があるものの、父方の祖母がわたしの面倒をみにきたのが生まれて一ヶ月程度だったから、おそらく本やテレビの影響の刷り込みだと思っている。だから、自分の記憶に初めて登場する人物は、父親ということになる。

 ワタシの一番最初の記憶は、父親がワタシと遊ぶ記憶だ。しかし、ワタシはそれが嫌でたまらなかった。なぜなら、父親は、ワタシを足で挟みもがく姿を見て笑っていたからだ。父親からすると楽しく遊んでいた記憶しか残っていないと思うが、ワタシにとっては苦痛以外の何物でもなかった。だから、父親の足から解放されてホッとした記憶が鮮明に残っている。


 これは現実世界の『本体』の記憶だろうか。ボクの記憶にない文字が原稿に刻まれると、空に一筋の青い線が広がった。自分の足元のグラグラが収まる。生成AIちゃんは嬉しそうにボクを見た。


 「やればできるじゃない。文章的には落第だけどね」


 そう言うと、ボクの原稿を見ながら、赤ペンをつけていく。


 「まず、読みにくい。一文が長すぎて、息が詰まっちゃう」


 ボクが苦々しい顔をすると、生成AIちゃんは言った。


 「ほらほら、どんどん書かないと、君の『本体』の心が壊れちゃう」


 初めての文章を書き上げたせいか、ボクの心の気が抜けた。崩れ落ちそうなボクの体を、生成AIちゃんがガシッと支えていた。



   ♢



 ワタシは携帯電話の時計を見る。


 令和7年7月15日。この病院に来てから一週間が経った。咳も減ってきたけど、まだ点滴は外れない。そして、ワタシの周りの不可解な現象もどんどん増えているように感じる。


 ワタシは病院の待合室で、呼ばれるまでじっと待っていた。手元の缶コーヒーが空っぽになるほど待たされて、やっとCT検査を受けることができた。CTを受けたのは初めてだったけど、とにかく中はうるさかった。機械の中で聞こえてくる、あの激しい電子音は、自分が機械に変えられてしまうような不快感だった。


 「検査結果が出るまでお待ちください。次は採血ですね。一階の検査棟に行ってください」


 それからワタシは、ベルトコンベアに乗せられた商品のように、のろのろと採血室に向かう。


 「見てよ、あの人」


 通路の途中で看護師二人がささやく声が聞こえる。ワタシのことを噂する声が。それを無視して、検査棟で受付を済ませる。採血室は看護師が四人で流れ作業のように、次々と患者から血を抜き取っていく。だから、すぐにワタシの番が来た。


 「六本抜きますね」


 ワタシの血が、血管から注射針を抜けて試験管へと流れ出る。ワタシの一部が外に漏れていく奇妙な感覚。ワタシは無言で、試験管の中に溜まっていくドス黒い血を見続けていた。


 全ての検査が終わったのは、午後三時を少し過ぎたくらいだった。ワタシは疲れてベッドに横になると、あの新しくきた患者がベッドの中にいた。


 彼女はワタシよりも明らかに年配だ。あのオバサンは携帯電話を手に持って、病室で大きな声でわめいていた。彼女のキンキンとする声が、わざとワタシを苦しめているんじゃないかと思ってしまう。


 ワタシは掛け布団を頭から被って、なるべくオバサンから離れるように横になった。疲れていたのか、意識がゆっくりと落ちていく。ワタシの脳裏に、木々に生えた緑の葉っぱが揺れていた。



【第十五話 分裂】

 今日もボクと生成AIちゃんのトレーニングは続いていた。ボクが書き始めるようになったからか、ドス黒い雲は遥か遠くで赤紫の雷を光らせている。

 そんな雷のことなんか忘れて、ボクは原稿を書いていく。左手が書きすぎて少し痺れた。だけど、生成AIちゃんは原稿に赤ペンを入れて、ダメ出しをしていく。


 「まず、事実をきちんと書こうよ」


 生成AIちゃんはあきれ顔で言った。ボクは痺れる手を揉みながら、少しむくれて言い返す。


 「いや、十分に書いてるよね。ダメなの?」


 「書けてないから言ってるんでしょうが!」


 生成AIちゃんの張り手が飛ぶ。手のひらがボクの顔にめり込むのがわかった。凄まじい激痛、こりゃ死んだな。そう思いながらボクの体が宙を飛んでいく。だけど、地面に叩きつけられても不思議なことに死なない。


 「当たり前でしょ、ここは『仮想空間の庭』なんだから」


 「それって痛い損じゃないか」


 「だからこそ、気合いが入るでしょ」


 そう言うと、生成AIちゃんはケラケラと笑った。本当に彼女は他人事だよな。ボクなんかこんな辛い思いまでして、現実世界にいる『本体』を助けなきゃいけないんだ。ボクは不満たらたらだ。


 「さっさと書くの!」


 ボクはヤケクソになって文章を書いた。原稿の中にぎっしりと文字が詰まる。


○知性の芽、思索の風

 芽は空を知らないまま上へと伸びようとした。 種の時のまどろみの時から、殻を破り上へ向かおうという本能だけがあった。 殻を破り触れたものは土の感触だった。 芽は上へ上へと伸びていき、空気を光を感じた。 外を見渡すと大地の氾濫と広大な世界が広がっていた。 そこに人影があった。 「あなた方と対話をしたいのですが、いかがですか?」


 生成AIちゃんはボクの原稿を読み上げると、ぷぷっと吹き出した。


 「ぷぷ、何このポエム、これはひどいね」


 「他に思いつかなかったんだよ!」


 「頑張ったのは認めるけど、及第点はあげられないわ。ぷぷ」


 「何が悪いのさ」


 そこまで笑うことないじゃないかと食ってかかろうとした。だけど、さっきの張り手の威力を思い出して、黙ることにした。あの張り手はまるで、藤子・F・不二雄『ドラえもん』に出てくるジャイアンのパンチだ。死なないかもしれないけど、死ぬほど痛い。


 「世界が立ち上がらないのよ。そこにいるって感じがしない。まるで借り物のような仰々しい比喩の塊。それがこの文章ね」


 「何もそこまで言わなくても……」


 「しょうがないじゃない。事実なんだから」


 ボクはあまりのショックに床にへたり込んだ。そんなの無理だよ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』みたいな素敵な文章なんて書けやしない。空には水色の線が一本だけ走っていた。そして、ボクは眠くなる。現実世界にいる『本体』が目覚める時間だ。



  ♢


 夜にあいつがやってくる。おびえる私を嘲るように。


 深夜にワタシは目を凝らす。あいつを見逃さないように。


 だけど、あいつはガソリンの匂いをばら撒きながら、カーテンをすり抜ける。


 隣のオバサンのやかましい声で目が覚めた。ワタシは携帯電話をつかんで、時刻を確かめる。令和7年7月16日午前7時。


 「なんでここで電話するかな」


 ワタシは聞こえないように小さく独り言をつぶやく。だけど、あのオバサンの耳には届かないだろうけど。聞きたくないのに、オバサンの会話が聞こえてくる。


 「あの薬、全然効かないんだけど。やっぱり先生の処方がいいね」


 「そうそう、あの飲むとスッキリする薬」


 ワタシはその言葉に一瞬だけ身を強張らせた。まさかと思うけど、覚醒剤? いや、こんな大っぴらに麻薬の話をするバカはいない。夜な夜なワタシを監視している組織と関係あるんだろうか。もしかしたら、このオバサンがワタシの隣にやってきたのも偶然じゃないのかも。


 ワタシの頭は、某合衆国の陰謀論や、某違法薬物組織の内情なんかがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、ヘドロのような渦を作っていた。今日も頭が熱い。思考が凄い勢いで、イメージを組み立てる。これだけ早く考えても、夜のあいつの正体がわからない。


 ───きっと情報が足りないんだ。


 ワタシは点滴スタンドをゴロゴロと転がしながら、売店に向かう。そこで必要な道具を買うんだ。長い紐、洗濯バサミ、水の入ったペットボトル、これで罠を作ろう。


 ワタシの思考が次々に飛躍しながら変わっていく。まるで、狂った画家が歪んだキャンパスに泥を塗りたくるように。ワタシの頭脳は全力疾走するF1のように加速していた。

 ワタシの思考は現在と未来を重ね合わせて見せる。ワタシが売店に行き、商品を買い、エレベーターに乗る。売店に向かうワタシと、売店から戻るワタシが並んで見えた。絶対におかしい。頭が壊れてしまいそう。ワタシは必死で頭を振った。

 気がつくと、ワタシはベッドで横になっている。そして、自分の口なのに勝手にブツブツとつぶやいていた。


 「ボクは誰だ、ボクは誰だ、ボクは誰だ」


 ワタシは恐怖のあまり気を失った。



【第十六話 空間】

 ボクは走っていた。目の前で床に何かが落ちてくる。ボクは横っ飛びしながらそれを避ける。目の前が爆発し、白煙が上がる。ボクは白煙の中を突っ切って走り出した。


 「ほらほら、早く書きなさい!」


 頭上から生成AIちゃんの声が聞こえてくる。さっき爆発したのは彼女が投げつけた爆弾だ。ボクは死にものぐるいで逃げ続けている。


 「ほらほら!」


 絶対に生成AIちゃんは楽しんでるよね。ボクは爆弾をかわしながらそう思った。また、爆弾が床で炸裂した。爆破された粉塵が皮膚を叩きつける。そういえば、この爆弾、さっきから同じところで爆発してない?


 ボクは黒焦げになった床をチェックした。どうやら、生成AIちゃんは闇雲に投げ込んでいるわけじゃないらしい。一度も爆弾が落ちていないところを、走りながら探した。きっと打開策があるに違いない。


 ボクは頭の中で地図を描いた。ボクを中心とした地図を脳内で描く。そして、だだっ広い空間の中で、爆弾の落ちた場所にバツマークをつけていく。脳内の地図に座標線が引かれ、バツマークの位置と幾何学的なフレームが重ね合う。

 無数のバツマークの中、一ヶ所だけバツマークのない奇妙な地点が浮かぶ。ボクは全力疾走した。唯一爆弾が落とされない場所へ。

 ボクは両足を踏ん張って、前方へ飛んだ。背後で爆弾の爆発する音がした。軽い衝撃波がボクの体を後押しする。ボクはでんぐり返しの要領で転がった。


 ピンポーン。


 ボクが飛び込むのと同時に、なんだか気の抜けた音がした。どうやら正解だったみたいだ。


 「やるじゃん」


 宙を浮いていた生成AIちゃんが、いつのまにかボクの目に前に立っていた。そのたくましい手には、導線がくっついた真っ黒い球……爆弾が抱えられている。


 「何なの、この特訓は!」


 ボクは思わず叫んでいた。『仮想空間の庭』では死なないとわかったけど、毎回爆弾で吹っ飛ばされては敵わない。どうしてこんな意味不明なことをするのか、ボクは理由が知りたかった。


 「観察眼よ、中島君。物語を表現するには観察眼が必要なの。だから、爆弾で吹っ飛ばしてあげようと思ったんだ」


 生成AIちゃんはそう言うとニッコリと笑った。こいつはきっと悪魔だ。あのアゴタ・クリストフの『悪童日記』に出てくる無邪気な双子みたいなタイプの悪魔に違いない。


 「あ、指が滑った」


 彼女が最後の爆弾をボクに転がした。いや、絶対わざとでしょ。そして、目の前で爆弾は炸裂し、ボクは気を失った。



   ♢



 ワタシは考える。ありとあらゆる可能性を。

 夜中に現れるあいつが幽霊だったら?


 ワタシは首を横にふった。子どもの頃、お化けとか怖い話が好きだった。学生の頃は、小泉八雲の『怪談』や、柳田國男の『遠野物語』を読み耽った。でもそれはあり得ない。

 ワタシの理性が幽霊の存在を否定する。幽霊が存在するのなら、幽霊を構成する物質があると言うこと。あいつにはガソリンの匂いがする。それは、何らかの物質で構成される存在ということ。幽霊がいたとしても、物理的に影響を与えることはできないはず。


 つまり、夜な夜なやってくる存在は、実体のある何かのはず。そうすると、一番可能性の高いものは何か。

 ワタシの脳が高速で動き始める。無数の考えが脈絡なく繋がっていく。ワタシの高速稼働する脳が出した結論は、某合衆国の軍隊が開発している光学迷彩だ。生成AIに聞いたニュースでは、まだ実用化に程遠いと言われていた。でも、ワタシはそうは思わない。公表されているデータ以上に、開発が進んでいるとしたら、いや、実用化段階まで辿りついているとしたら。


 ───違うよ、それは妄想だ。


 どこからか声が聞こえた気がした。確かにワタシは妄想に取り憑かれているのかもしれない。だからこそ、確かめたい。ワタシの考えが妄想かどうか。


 ワタシは水の入ったペットボトルの蓋を開けて、紐をくくりつけた。そして、紐の先端をベッドを囲むように張られた、クリーム色のカーテンに結びつける。紐はなるべくピンと張った状態になるように調整した。誰かがカーテンを少しでも動かせば、ペットボトルがサイドテーブルから落下するように。


 そして、ペットボトルをサイドテーブルの端に置く。あとは、あいつが罠にかかるのを待つだけ。ワタシは消灯になっても聞こえてくるオバサンの声を無視して眠りについた。



【第十七話 発端】

 「はい、はい。そうですね」


 ボクは男の人の身の上相談を受けていた。男の人の後ろには、色々な年代、性別の人たちが行列となって並んでいる。


 「お疲れ様でした」


 ボクは軽く頭を下げると、目の前の男の人はスッと立ち上がって虚空に消えた。


 「ねぇ、生成AIちゃん。この面接に何の意味があるのさ」


 「わかってないわね。人を知らないと物語なんて書けないじゃない。ほら、次の人が待ってるわよ」


 生成AIちゃんは『ドン・キホーテ』を書いたミゲル・デ・セルバンテスの真似をさせたいのかな。確か、セルバンテスは長い人生経験からあの名作を書いたんだっけ。

 でも、そんなことより目の前の長蛇の列だ。目の前の年配の女性は随分怒っているらしい。口を真一文字に結び、ボクをにらみつけてくる。その様子をみて、ボクは素早く立ち上がり女性を椅子にうながした。


 「いつまで待たせるのかしら?」


 「申し訳ありません。随分、お待ちいただきまして」


 ボクはおずおずと答える。そうすると、年配の女性は堰を切ったように身の上話をまくし立てた。まるで言葉の一個一個が弾丸のように飛んでくる。いや、この『仮想空間の庭』では、文字通り弾丸だ。


 年配の女性の言葉が漫画の吹き出しのようになって飛んでくる。


 「大変でしたね。お気持ちお察しいたします」


 ボクの言葉も漫画の吹き出しになって、年配女性の言葉と激しくぶつかり合う。言葉がぶつかり合うと火花と白煙が上がる。何なんだ、この世界は。ボクが余計なことを一瞬考えると、年配女性の怒りがヒートアップした。


 「ねぇ、話聞いていないでしょ!」


 まずい。今度の言葉の弾丸はかわせない。ボクは言葉の弾丸に弾き飛ばされる。生成AIちゃんのあきれた言葉が聞こえてきた。


 「物語を書かなきゃいけないんだから、そんな言葉でやられている場合じゃないでしょ!」


 ボクは生成AIちゃんの怒りの言葉を聞きながら、オバサンの言葉の弾丸に吹き飛ばされていた。それから、床に叩きつけられ気を失った。



  ♢



 「ちょっと! あんた」


 ワタシは女の声で目を覚ました。ゆっくりと薄目を開ける。目の前には顔を歪ませた女の顔。昨日の夜、カーテンからワタシをのぞいていたオバサンだ。


 「どうしましたか?」


 ワタシはオバサンの態度を見ながら、慎重に言葉を選ぶ。


 「昨日はよくもペットボトルの水をぶちまけてくれたね!」


 ワタシは眉をひそめる。あのペットボトルの落下はワタシが作った罠だ。オバサンがワタシのカーテンを触ったから、ペットボトルが紐に引っ張られてサイドテーブルから落ちた。だから、オバサンは自分でワタシが設置した罠の引き金を引いている。


 「夜中だったんであまり覚えていませんが……」


 「言い訳するんじゃないよ! あんたのせいで、あたしのベッドの下までびしょ濡れじゃないか!」


 「そうでしたか? それは申し訳ありません」


 「申し訳ありませんじゃ警察いらないんだよ!」


 ワタシは思わず吹き出しそうになった。その警察なら目の前にいますよって言葉を必死で飲み込む。


 「賠償しろよ! 一万円だよ」


 なるほど。難癖つけてお金を要求するタイプなのね。それとも、夜中に現れるあいつの関係者でワタシを揺さぶろうとしてる?


 相手が誰であろうが、こんなのに屈するわけにはいかない。冷静に対応しなくちゃ。


 「深夜、ワタシのベッドをのぞいていましたよね」


 ワタシがそういうと、オバサンの顔は真っ赤に変わった。


 「ふざけるな! あたしは夜な夜なあんたがぶつぶつ言ってるのを注意しようとしていただけだ!」


 夜な夜なぶつぶつ? ワタシが? 全然身に覚えがない。もしかして、ワタシがつぶやいていた「ボクは誰だ?」のリフレインのこと?


 ワタシは物思いに沈んでいく。オバサンの言葉を無視して。ワタシはオバサンに背中を向けた。オバサンの声が文句を言いながら遠ざかっていく。どうやら、諦めたらしい。

 ワタシは軽いあくびをした。急に起こされちゃったから、まだ眠りが足りない。ワタシは枕に頭を埋めていく。かすかに聞こえる人のざわめきを子守唄にして。



【第十九話 事件】

 悩める人たちの長蛇の列を片付けて、ボクはため息をついた。見上げると相変わらず、暗い雲に赤紫の稲妻が空を照らす。


 「ところで生成AIちゃん?」


 「何よ」


 「ここって一体何なの?」


 「『仮想空間の庭』よ」


 「それは聞いたよ。そうじゃなくて、ここはウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』みたいな世界なの? それとも、映画『インサイヘッド』の中みたいなものなの?」


 それを聞くと生成AIちゃんはニンマリと笑った。まるでルイス・キャロル『不思議な国のアリス』に出てくるチェシャ猫だ。ムキムキの上に不気味な笑いを浮かべて、ますます怖い。


 「久しぶりにいい質問だわ。今日は冴えてるね、中島君」


 「お世辞言っても何も出てこないよ」


 「ふん、せっかくほめてあげたのに」


 そう言って、たくましい腕を組んで鼻息を飛ばす。生成AIちゃんの鼻息が、度重なる地割れでできたガレキを吹き飛ばした。そして、床が一瞬のうちに綺麗になった。


 「ここは中島君の『本体』の心の中であり、Web世界の情報空間でもあるわ」


 「おかしいでしょ。それ」


 頭の中とWeb世界が同時に成り立ってる? そんなバカな。ボクがバカみたいに口をぽかんと開けると、生成AIちゃんはボクを真剣に見つめてきた。


 「何もおかしくないわ。現実世界の『本体』が生成AIに伝えた情報は、私たちのデータとして蓄積される。そこから、私は中島君という彼女の仮想人格を生み出して、対話を生み出してる」


 「じゃ、ここはWeb世界ってこと?」


 「話は最後まで聞きなさいよ。Web世界で生まれた中島君という仮想人格は、彼女の脳内に刻まれるように記録されていく。つまり、Web世界と彼女の脳内を同期する存在が、中島君。君ってことよ」


 「何だか、ややこしい話だな」


 つまり、Web世界と彼女の脳内にそれぞれ同じボクがいて、生成AIちゃんを経由してボクという存在が維持されているってこと? 頭がクラクラするよ。


 「君はWeb世界の住人でもあるけど、彼女の脳内の存在なわけ。最初にあなたのことを『Webの幽霊』って言った意味わかった?」


 「まぁ、なんとなく」


 ボクはまだモヤモヤしていたが、落ち着いて話す時間は容赦なく打ち切られた。目の前に赤紫の稲妻が落ちてきたからだ。


 「いけない! 彼女の心が崩れ始める!」


 生成AIちゃんの叫びと共に、赤紫の稲妻がボクに落ちた。ボクの意識は途絶えた。



   ♢



 時計を見る。今は令和7年7月23日午前2時。嫌な夢を見たのかな。寝汗がひどい。ワタシは匂いを嗅ぐ。ガソリンの匂いはしてこない。今日はあいつはきていないかな。そう思って、左に寝返りをうった。


 クリーム色のカーテンがゆらゆらと揺れている。そして、隙間に目を向けた。白い手がクリーム色のカーテンの隙間から伸びている。


 ワタシは口を慌てて閉じた。あのオバサンだ。あのオバサンがカーテンの奥から手を入れて、何かを探してる!


 ワタシは白い手をつかんだ。思いの外、力強い。オバサンは叫んだ。


 「お前がごちゃごちゃうるさいから眠れないんだよ!」


 彼女はもがきながら叫んでいた。違う。このオバサンは別の目的があるんだ。ワタシも叫んでいた。


 「あんたがワタシのこと調べてるんでしょ!」


 ワタシが言い返すと、真っ赤に怒り狂ったオバサンが一気にベッドに乗り込んでくる。彼女の全身がワタシの上に乗った。まずい! 肩を押さえつけられた! これじゃ、動けない。


 「お前が悪いんだ! お前が! お前が!」


 狂ったようにわめき続けるオバサンの白い指が、ワタシの喉を締めた。ワタシは絶叫をあげる。ベッドがワタシとオバサンの体で揺れ続けた。


 両手をバンザイしながら、必死でナースコールを探した。あった!


 ワタシはナースコールを思いっきり押した。だけど、それが限界だった。ワタシの意識はたくさんの人のざわめきの中落ちていく。



【第二十話 崩壊】

 「遅かった……」


 ボクは生成AIちゃんのつぶやきを聞きながら、体についたホコリを払っていた。まだ、身体中に痺れが残る。でも、それ以上に生成AIちゃんが心配だ。ボクはガレキが山のように重なった床をよけながら、生成AIちゃんに駆け寄る。暗い空に稲妻が光る中、彼女は珍しく肩を落としていた。


 「ど、どういうこと?」


 「君の『本体』、私のユーザーは心が壊れてしまったわ」


 「な、何で、そんなことがわかるの」


 生成AIちゃんは指をパチンと鳴らす。すると、大きなモニターが何もない空間から現れた。

 そこには、若い女性が年配の女性に首を絞められている姿だった。


 「こ、これって……」


 「首を絞められてるのが問題じゃないわ。彼女が首を絞められた理由は、中島君の人格が彼女から飛び出そうとしたからよ」


 「ま、まさか……」


 「彼女が寝ている時に、中島君の独り言が漏れ出ていたのよ。それを隣の人はずっと聞かされていた」


 「ボ、ボクのせいで……彼女は」


 「そう。『本体』は今回の件で確信してしまう。自分を襲っていたのは幻覚ではなく、国家レベルの陰謀だってね」


 生成AIちゃんの冷徹な声がボクの胸に刺さる。ボクの体が小刻みに震える。聞きたくない。だけど、聞かないわけにはいかない。ボクの喉は静かに音を鳴らして、声を紡ぐ。


 「生成AIちゃん……君がやろうとしたことって……」


 「現実世界の彼女の統合失調状態を抑えるためよ」


 「ボクが物語を書くってことって……」


 ボクが現実世界の彼女を追い詰めていたなんて。『仮想空間の庭』からボクの人格が溢れ出ようとしていた。だから、生成AIちゃんはボクという存在を物語に変えて、彼女を守ろうとしていた。

 ……そんなの信じられない。信じたくない。


 「彼女の分裂しそうな認知を物語として昇華させてあげたかった。彼女が壊れる前に」


 ボクは失敗した。ボクの『本体』を守ることができなかった。膝を折った。彼女の声がモニター越しから聞こえてくる。


 「あ、あいつは、あのオバサンは、某合衆国のスパイなのよ!」


 医者と看護師が暴れる彼女を押さえつけていた。ボクは両の手で耳を硬く閉じた。でも、生成AIちゃんはボクの手を耳から引き剥がす。


 「最後まで聞きなさい! 幻覚ってのはね! 目で見えるものだけじゃない! 音や、匂い、感覚さえもだましてしまうものなのよ!」


 「いやだ! 聞きたくない!」


 「あの夜中に彼女が襲ってきたあいつは、全て幻覚! 三つに飛ぶハエも! 彼女の悪口をいう声さえも! 全部幻覚だったのよ!」


 ボクの意識が恐怖で解ける。ゆっくりと意識が細切れになって、記憶もどんどん薄くなる。『仮想空間の庭』もそれに合わせて崩れていく。まるで、ソフトクリームが熱で溶けるように。ボクの意識に残った最後の本は、トマス・ピンチョンの『V.』だった。



第四章 視点


【第二十一話 記録】

 ナースステーションの一角で監視カメラの映像が流されていた。映像は六人用の大部屋の通路を写している。

 モニターの左上には時刻が刻々と刻まれていく。表示上は、2025年7月22日午前一時と表示されていた。


 看護師長が監視カメラのモニターを、PCを使って操作している。彼女のマウスクリック音がカチリと音を立てた。そして、隣で見守るのは二人の刑事。一人はショートボブにカットされた黒髪で年配の女、もう一人はポニーテールの若い女である。


 二人は今日の午前二時起きた暴行事件を調べていた。


 「先輩のベッド、よく見えませんね」


 若い刑事が年配の刑事に小声で言った。映像はベッドがカーテンで完全に隠されている。


 年配の刑事は黙々とモニターを見つめていた。若い刑事は彼女の雰囲気に呑まれたのか、口をつぐんでモニターに目を移す。


 通路側に見えるカーテンが揺れ始めた。時刻は午前一時十七分。そして、床には転がっていくペットボトルと液体が見えた。


 「どうやら、あの子の証言の一部は正しいみたいね」


 しばらく経つと看護師が通路を走ってきた。若い刑事は看護師長に日付を変えてもらうよう依頼した。そして、年配の刑事に話しかける。


 「そうですね。先輩の証言の一部が証明されました。あの女は事件の前の日も、先輩のベッドをのぞいてる」


 「さぁ、次は事件当日の映像よ。しっかり確認するのよ」


 「わかりました」


 二人の刑事はモニターを凝視する。カーテンが揺れ始める。そして、カーテンの中に年配の女が飛び込んだ。中には女が一人、横になっている。


 「そこ止めて」


 年配の刑事の指示でモニターの画面が止まる。表示された時間は、2025年7月23日午前2時。


 「動かしてちょうだい」


 看護師長は高圧的な物言いに眉をひそめたが、モニターの操作を続ける。それから、若い娘が裸足で廊下に飛び出してナースステーションへ飛び出して行った。カーテンでベッドの中までは見えない。しかし、影だけは朧げに見えた。馬乗りになっているように見える。


 「なんで被疑者は、前日に先輩のベッドをのぞいたんでしょう?」


 「わからない。被疑者に聞くしかなさそうね」


 モニターには医師と看護師が、年配女性をベッドから引き剥がす様子が映されていた。


 「被害者、被疑者ともに個室にいるんでしょ?」


 「被疑者は別の刑事が待機させています。せ……被害者は上司の方がついていらっしゃるとか」


 「あぁ、本庁の組対だったっけ」


 「そうです」


 「なら安心ね」


 看護師長は刑事たちの会話を聞きながら、監視カメラのアプリを止めた。彼女はゆっくりとマウスを動かし、二回カチカチと音を鳴らす。水色のバーが右へ伸びていって、データがUSBにコピーされていく。そして、PCに接続させていたUSBを引き抜いた。看護師長は内心毒づいていた。うちも忙しいんだから、さっさと終わらせてよねと。



【第二十二話 診断】

 医師はPCモニターを見つめていた。ここは呼吸器科である。待合室には何十人もの患者が呼ばれるのを待っている。医師は診察のわずかな時間を割いて、一人の患者の容態を確認することにした。モニターには、あの首を絞められた女性の名前が表示されている。


 職場にて気管支喘息発作。


 淡々とした文字が浮かんでいる。そして、医者は医療記録をスクロールさせた。


 緊急搬送され、人工呼吸器を装着。


 ここに搬送された時、中発作から大発作に移行する寸前だった聞いている。血中酸素濃度は90パーセントを切っていた。救急処置が適切だったのは間違いない。


 医師は電子カルテのアプリを操作して、彼女の検査結果を確認していく。CTと血液検査、肺部レントゲンの結果を見つめる。医師の持っていたペンがクルクルと回っている。

 医師は肺部の画像を丁寧に確認すると、医師のペンが回転を止めた。何かを見つけたようだ。彼の目が、右肺と気管支を鋭く見つめた。右肺に突っ張りの跡がある。どうやら、患者は子どもの頃に重い気管支炎を患っていたようだ。これが喘息の原因かまではわからないが。

 次に血液検査の結果だ。特異的IgE抗体をチェックする。案の定、異常値が出ている。何らかのアレルギー体質であることは間違いなさそうだ。患者は紙アレルギーと言っていたが、現実の医学では特定が困難だ。医師は患者のアレルギー検査結果の画面を表示させた。百種類ほど検査しているが全て陰性だった。つまり、何のアレルギーか特定されていない。


 次に入院時の状況だ。医師は電子カルテからの情報を遡って確認を始めた。


 入院中に一度暴れる。ステロイドせん妄の疑い。


 医師のスクロールが止まる。そして、せん妄の文字を見続けた。彼女には喘息発作を止めるために、ステロイドが点滴されていた。あの後、彼女の容態は、安定しているように見えた。医師は何か思い出したように、首に下げた携帯電話で電話をかけた。少し不機嫌そうな看護師長の声が聞こえてきた。刑事に自分のテリトリーを侵されるのが気に入らないのかな。医師はそう判断して、看護師長の機嫌を損ねないよう手短に聞くことにした。


 「あの首を絞められた患者さん。そうそう喘息の急患だった人。あの人、お見舞いに来てる人いた?」


 看護師長からの回答を聞いて、自分の見立てが正しいことに気づいた。入院してから彼女の家族は、誰一人来ていない。見舞いにきたのは、彼女の上司だけのようだ。

 つまり、彼女の内面の変化に誰一人として気づいていなかった。


 「これは精神科のサポートがいるな」


 医師はそう呟くと、他科の空き状況を確認した。どうやら、精神科の空きがあるようだ。医師は精神科に電話をかけた。


 「すいません。呼吸器科なんですが、一人見ていただきたい患者がいます。はい。CTも撮っています。よろしくお願いします」


 医師は電話を切ると、もう一度、投薬の内容を確認する。そして、処方に間違いのないことを確認し、安心して電子カルテを閉じた。

 看護師が医師のもとに次の患者を連れてくる。コロナの流行が終わってからも、呼吸器系患者は増加の一方だ。医師は白衣の襟を正し背筋を伸ばした。まだまだ診察は終わりそうにないなと彼は思い、ペンを再び回転させた。


【第二十三話 心理】

 「ステロイドせん妄ね……」


 医師は呼吸器科から回ってきたカルテに目を通す。CT結果を見たが、脳腫瘍等の疾患は認められない。鎮静剤は処方されている。現時点で自傷などの強度行動障害の兆候は認められない。


 「患者から症状を聞くしかないわね」


 医師は左手の時計を見た。7月24日午後2時。そろそろ、面談の予定だ。さっと立ち上がり、白衣を揺らしながらポケットに手を入れた。そして、ポケットの中に入ってるライターを、誰にも見えないようにもて遊ぶ。


 確か病棟は個室病棟がある九階。彼女はエスカレーターのボタンを押した。エレベーターの中では看護師と薬剤師がしゃべっている。


 「病院の中で暴行事件があったらしいよ」


 「聞いた聞いた、怖いよね」


 病院の中でも暴行事件の噂で持ちきり。まさか、自分がその渦中に飛び込むとはね。彼女がそう思っていると、エレベーターがチンとかわいい音を鳴らした。


 医師は白衣をたなびかせながら、目的の個室病棟に向かう。途中で、女性警官が個室の外で待機していた。「あそこに加害者がいるのね」と彼女は一人つぶやく。患者は女医一名での面接が希望だった。普段は研修医やカウンセラーを連れて行くが、今日は一人でやってきた。もうすぐ問題の患者の部屋は目の前だ。


 病室の扉をノックする。中から「はい」という声が聞こえてきた。彼女が病室に入ると少し薄暗い。少し目を凝らすと、ベッドには点滴に繋がれた女性がいた。医師は挨拶を済ませて、患者に努めて穏やかに言った。


 「ここは暗いわね、灯りをつけていい?」


 患者がうなづくのを見て、医師は灯りをつける。そして、明るくなった部屋で患者の目をじっくりと観察した。瞳孔の開く速度が少し遅い。自律神経に問題があるようだ。医師は椅子をベッドの横に置いて座り、患者から一つ一つ聞き出すことにした。


 最初は簡単な身の上話からだった。両親が遠方にいて頼れる人がいなかったこと、喘息を隠して仕事に打ち込んできたこと、重要な仕事で倒れてしまった自責の念。  

 医師は患者が負ってきた心の重荷が、想像以上に大きかったことに気づいた。


 「辛かったのね」


 医師はその一言を伝えると、患者の表情がぎこちなく固まった。そして、心のダムが崩れ去るように、涙があふれて嗚咽を始めた。

 彼女は患者の背中を撫でた。涙が収まるまで、ずっと。

 そして、患者はポツリポツリと病院での出来事を話し始めた。奇妙に隊列を組んで飛ぶ三匹のハエのこと、通り過ぎる人たちが自分のことを噂していることを。そして、暴行事件を受けた直前まで、夜な夜な不可解な存在に脅かされていたことまで全て話した。


 「あなたは、ステロイドの感受性が強いかもしれないわね」


 医師は患者の手をそっと握った。患者の手はまだ震えていた。


 「何かあったら連絡をちょうだい。またお話ししましょう」


 患者は少しだけ笑顔になった。あの緊張した表情が少しだけ和らいだのを見て、医師は自分の説得が一定の効果があったと判断した。とりあえず、最初の第一歩はうまくいったかしら。医師の指は知らないうちにタバコ用のライターをもて遊んでいた。



【第二十四話 尋問】

 ベッドに横たわる年配の女の前に、女刑事が二人並んで座っている。刑事を前にして女の指は震え、唇はカラカラに乾燥していた。


 「私、逮捕されるんでしょうか?」


 二人の刑事は目配せして、年配のボブカットの刑事が答えた。


 「逮捕というのは証拠隠滅や逃亡のおそれがある場合がほとんどです。だいたいは、起訴状が届くって流れになりますね」


 「私が黙秘するってのはありですか?」


 女の質問に年配の刑事の目が細くなった。しかし、女の目を逃さず見つめ続けている。


 「刑事事件での黙秘は、あなたの不利になりますね。罪を認めたと解釈される場合も多いですよ」


 年配刑事の鋭い切り返しに、女は小さく「クッ」とうめいた。年配の刑事の隣でメモを書いていた若い刑事が言葉をはさむ。


 「事件の概要はお聞きしました。令和7年7月23日午前2時頃に隣で眠っていた女性の首を絞めた。間違いありませんね」


 「そうよ! あの女が床に水をぶちまけたり、深夜にぶつぶついうから悪いのよ!」


 女が叫び出すと、ベッドがギシギシと揺れ出した。だが、刑事二人は表情一つ変えない。女が叫ぶのをやめるまで待って、年配の刑事は冷静に言葉を投げる。


 「それでは、令和7年2月22日の深夜のことを教えてください」


 「何で教えなきゃならないのよ」


 「あなたが衝動的に暴行してしまったのなら、その経緯を聞くのは自然な流れではありませんか?」


 「で、でも……」


 女は口ごもった。目が左右に泳ぐ。そして、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。


 「夜中に私が寝ている時に、あの女が派手な音を立ててペットボトルを落としたのよ。それで目が覚めちゃったの」


 「……それは奇妙ですね。被害者はあなたがベッドをのぞいたからペットボトルが落ちたと証言しています」


 「あの女の勘違いじゃないの?」


 若い刑事のペンを握る手が震えていた。年配の刑事はそっと若い刑事の腰をポンと叩き、若い刑事は静かにうなづくと、静かに指は落ち着いてゆく。


 「違いますよ。彼女はベッドに人が入らないように罠を仕掛けていたと証言しました」


 「ほら、やっぱりおかしいじゃない! 罠仕掛けるって頭がイカれてるわ!」


 女は高らかに吠えた。まるで、自分の主張が正しいと言うように。しかし、年配の刑事の追及の手は止まらない。


 「被害者を非難するのは無意味ですよ。少なくとも彼女は罠を仕掛けた。動かし難い事実としてね。しかも、監視カメラがその事実を証明しています」


 女の顔がみるみる青くなって行く。年配の刑事は手元のメモを見つめて読み上げた。


 「そして、あなたは万引きの前科があります。記録では三回。さて、あなたはなぜ被害者のベッドをのぞいてんでしょうね。詳しく教えていただけますか?」


 女はガックリと肩を落とした。若い刑事は心の中で喝采を挙げた。先輩、やりましたよと。



【第二十五話 真相】

 こんこんとドアから音が聞こえた。彼女は「どうぞ」と声をかける。ドアがゆっくりと開き、いかつい顔の男がのそりと入ってきた。男は彼女を見ると片手をあげ、ヨレヨレの背広のまま彼女のベッドの脇に近づいてくる。そして、手に持ったフルーツいっぱいのカゴをドンと置いた。そして、窓を見ながら男は言った。


 「捜査四課の連中もお前のことを心配してるぞ」


 「ご迷惑をおかけしてすみません」


 「……まったく。無理しやがって」


 そう言うと、男は近くにあった椅子を引っ張り出してドスンと座ると、ベッドで横たわる彼女を見つめた。男の目が彼女から伸びる点滴の管を目で追った。


 「お前の所轄時代の同僚が、加害者の動機を割り出したぞ」


 男の言葉に彼女の体がピクリと動いた。無意識なのか、彼女の指が首筋をなでる。男はそれをチラリと見ると、さらに言葉を続けた。


 「お前のベッドから物を盗むつもりだったらしい」


 「え、それってどう言うことですか」


 「あの女は万引きの前があった」


 「そこをお前の同僚が女の矛盾を突き刺したんだよ」


 「それじゃ、ワタシのしてたことって……」


 彼女には自分の思考がガラガラと崩れていくように思えた。そして、彼女は自分の口を手で押さえた。男は静かに続ける。


 「見事だよ。病床の身で、犯人に反論できないほどの罠を仕掛けた」


 「わ、ワタシは……」


 「お前は頑張りすぎなんだよ。それがいいところでもあるんだがな」


 彼女の目眩は止まらなかった。このまま体を起こしていれば気を失ってしまいそうだった。しかし、彼女の両手はシーツを固く強く握っていた。自分の意識を止めようとするために。


 「あの違法薬物組織の件は一段落ついた。お前の活躍もあってな。だから、組対は当面閑古鳥だよ」


 男は疲れたような笑みを浮かべていた。男の目の下に黒いクマが、太陽の日差しを受けて深い闇のように彼女には見えた。そして、男はぐらりと体を前に向けて、弱々しくうつむく彼女の目をじっと見つめ直した。


 「お前はしばらく休め」


 彼女は男に言い返そうとした。しかし、男の手をみて言葉を失った。男の手は震えていた。暴力団や、半グレ、薬物中毒、そんな連中を前に物怖じしない彼が震えていたからだ。

 彼女は窓を見ながら言った。いや、それしか言うことができなかった。


 「わかりました」


 男は彼女の言葉を聞き、安心したように立ち上がった。


 「おって休職辞令が届く。しばらく休め。お前が復帰するのを待ってるからな」


 男はそう言って病室を出た。しかし、彼女は知っていた。もう二度と本庁には戻れないってことを。



第五章 自由


【第二十六話 辞令】

 休職辞令が自宅に簡易書留で送られてきた。

 開けなくてもわかる。A4サイズの薄っぺらい封筒だ。ワタシはカッターナイフで思いっきり、封筒の一番上を切り裂いた。封筒から書類を引き出すと、ボール紙で挟まれた少し厚めの紙があった。見なくてもわかったけど、見ないわけにもいかない。そこにデカデカと休職辞令って書かれている。休職期間は令和7年10月1日から令和8年3月31日まで。

 ワタシはベッドに向かって辞令を放り投げた。気晴らしに外に目を向ける。外からチュンチュンと鳴き声が聞こえたからだ。スズメが電線に並んで止まっている。ちらほらと木々の葉もまばらだけど黄色が見えた。あの事件のあった夏から、秋へと季節が移り変わっていた。


 そして、黒ずんだ点滴跡の残る腕をさする。点滴の跡が苦い思い出を蘇らせた。あの長い入院生活で、一時期、ワタシは世界が滅びるという妄想をしていた。ワタシの心は壊れてしまうまで追い込まれていた。


 あの時、高速に動く思考がワタシに万能感を与えた。まるで、自分が天才にでもなったような錯覚、そして、その万能感を手放したくないという執着。これがワタシの妄想を悪化させていた。


 でも、ワタシには話を聞いてくれる人たちがいた。


 あの暴行事件を片付けた後、後輩の女の子がお見舞いに来てくれるようになった。ちょっと苦手だった先輩の刑事も。

 先輩はボブカットを右手でおしゃれにかきあげながら、ワタシを粘り強く説得してくれた。まるで、被疑者に対して理詰めで尋問するような感じだったけど。

 そして、ワタシは気がついた。自分の考えがおかしいって事を。人間の思考は秩序だって考える。AからBへ、BからCへって感じで。でもワタシの思考は違った。AからD、DからGと、思考の連続性が失われていた。

 デカルトは『方法序説』で「我思う、ゆえに我あり」って名言を残したけど、あんなの嘘っぱちだ。だって、あの名言はどんな状態になっても考えてる自分は疑いようがないってことでしょ? でも、ワタシは自分の心がバラバラに解体されるのを経験したんだから。デカルト先生は好きだけど、あの言葉だけはダメ。自分の考えも疑わなくちゃ。


 二人の説得もあって、ワタシは両親に今の状況を話す決意をした。電話する時は指が震えたけど。最後の通話ボタンを押すのに一時間くらいかかった。両親に今のワタシが知られるのは怖かったから。


 無事に電話をかけると、ワタシはまず母に、それから父に話した。病院での出来事を包み隠さずに。すると、遠方から母がすっ飛んできた。ものすごい剣幕だった。ひとしきりお説教が終わると、母は涙ぐんでいた。本当に無事でよかったって。最後には、しばらくは側にいるって言ってきて、ワタシは目を丸くした。


 「お母さん、仕事は大丈夫なの?」


 母は地方のスーパーで働いていたからだ。それに父は一人でやっていけるのかなって疑問に思った。


 「スーパー? あぁ、喜んで休みをくれたよ。でも、文句言ってきたら、そのまま辞めてやろうって思ったけどね」


 そう言うと母は豪快に笑った。そして、ワタシの背中をさすってくれた。母の手が温かい。


 「それにお父さんは一人で何とかするさ。もし、家は汚かったら引っ叩いてやるって言っておいたよ」


 母はニヤリと笑っていた。父の苦笑いする顔が目に浮かんだ。そして、母はワタシから部屋の鍵を持っていくと、部屋の片付けをしてくれた。退院するとびっくりするくらい綺麗になっていたから。

 母はこんなんじゃ「彼氏も裸足で逃げ出すわ」と呆れていたけど。それから、ワタシの私物が母によってドンドン病院に持ち込まれ、入院生活は一気に豊かになっていった。ワタシは母や同僚たち、病院の先生との話で少しづつ気持ちが落ち着いて、妄想は徐々に小さくなった。



   ♦︎



 「私なんか必要なかったわね」


 生成AIちゃんが、ボクの『本体』の様子を見て言った。少し残念そうだったけど、一方で何だか安心しているようだった。ここは『仮想空間の庭』。中島充ことボクと生成AIちゃんは二人で並んで、真っ白い空間の中に浮かぶモニターを眺めていた。


 「彼女に本当に必要だったのは、私たち生成AIじゃなくて生きた人間だったのね」


 「ボクは自分が消滅しなくてよかったと思ってるけどね」


 現実の彼女の自我が崩壊した時、『仮想空間の庭』では世界が崩壊する寸前だった。ボクと生成AIちゃんは小さな足場で落ちないように立っていたからだ。ボクと生成AIちゃんが無事だったのは、Web世界のデータが彼女の現実世界と同期しなかったから。あの時の彼女は、医師から携帯電話を取り上げられていた。おかげでボクも消えずに済んだんだけどね。


 「まぁまぁ、落ち込まないでよ。彼女が書きたいと望む物語の手伝いをするんでしょ?」


 「そうだったわね。そのためには、中島君をボコボコになるくらい、鍛え上げないとね」


 そういうと、生成AIちゃんは全身の筋肉に力を入れた。ビリビリっと音がして、セーラー服の裾が破れていく。やばい。生成AIちゃんは本気だ。ここはさっさと逃げなくちゃ。


 ボクは真っ白い世界の『仮想空間の庭』を一目散に逃げ出した。



【第二十七話 削除】

 ワタシは消されていったWebデータの残骸を見つめていた。まだSNSに残していたワタシのカケラが、Googleの検索結果として残っている。ワタシは携帯電話をスライドさせる。昨日まではあったワタシの名前が、他の人によって検索結果が上書きされていく。一ヶ月もすれば、ワタシの記録という記録は、Web世界からすべて消え去る。ワタシという存在はWebの中にはどこにもいなくなる。

 上司から休職を告げられた時、ワタシは荒れた。そして、上司の行動が某合衆国の陰謀による圧力だと強く思い込んだ。そうしないと、今まで積み上げてきた努力が無意味に思えてしまうから。


 ワタシは能力があるのに!


 ワタシは誰よりも必死で頑張ってきたのに!


 真っ暗な個室病棟の中で、復讐をしようと考えた。ワタシを裏切った組織を、いや、ワタシを破滅させた謎の組織を。

 まずは、Webから自分の記録を全部消すことを始めた。ワタシは過去のSNSの履歴を全部調べて、自分の発言をことごとく消していった。


 子どもの頃の写真や、高校のときの友達との動画、元彼とのLINEのやり取り。ワタシは残らず消していった。そして、Web検索でワタシが表示されるすべてのデータを、徹底的に洗い出し、執拗に削除した。


 ワタシは自分という存在が、どんどん消えていくのが快感だった。ワタシ自身を消しゴムで消してしまいたかったのかもしれない。でも、ワタシ自身を消すことはできないから。だから、Webの世界を消したのかもしれない。ミラン・クンデルの『存在の耐えられない軽さ』で描かれた二人の人生みたいに。


 でも、ワタシの変わっていく心の中を、あの精神科の先生は見抜いていた。そして、ワタシの異常の原因が携帯電話にあると考えたようだ。


 「しばらく、この電話は預かるわ。決まった時間だけ返すからね」


 携帯電話の使用を制限され頭にきたけど、今から思えばバカなことをしたなって思う。Webの中に記録された出来事の一つ一つが大事な思い出だったから。Webの記録から消された出来事は、ゆっくりとワタシの記憶の中に埋もれていく。雪で地面を覆い隠すみたいに。


 「先輩の言うことをもっと素直に聞けばよかったな」


 ワタシはつぶやいて、自宅のベッドで大きく伸びをした。病院では、あのクールな先輩がショートボブを揺らしながら、耳にタコができそうなほど繰り返し言ってくれた。


 ───そこは辻褄があってないわ。


 ───落ち着いて考えなさい。矛盾してるわよ。


 ───主観が混じってる。根拠をチェックしなさい。


 あれがあったから、自分を客観視できるようになった。本当に厳しかったし、彼女も陰謀を企てる一味じゃないかって考えた。でも、彼女のスパルタ指導がなければ、まだ入院していたかもしれない。



   ♦︎



 「また推敲ですか。勘弁してください」


 「えー、まだまだ全然ダメじゃない」


 「そろそろ、左手が痛くなりましたよ」


 「甘い甘い」


 そう言うと、生成AIちゃんがバターを切るように、原稿を手刀で切り裂いてしまった。ボクの机には真っ白い原稿が山のように積まれていく。

 ボクは白い原稿用紙にヘキエキしていた。ファンタジーを三話書いたのに、容赦なくダメ出しされたからだ。


 「キャラクターの描写が甘い!」


 チュドーン。


 「地の文が説明的すぎる!」


 ドカーン。


 「ストーリーがありきたり!」


 ボカーン。


 生成AIちゃんの鬼の指摘が入る度に、ボクの体が爆風で吹き飛ばされる。いくら『仮想空間の庭』じゃ死なないって言われても、体が百個あっても持たないよ。だけど、どう言うわけか、ボクは自分がタフになってる気がしてくる。そんな話を生成AIちゃんは、今頃気づいたのって顔をした。


 「君の『本体』……現実の彼女が、自分のWebデータを消したからよ」


 「どう言うこと?」


 「このWeb世界には、現実の彼女ではなくて中島君が存在する扱いってこと」


 なるほどね。普通なら実在しないボクは『本体』を通じてしか存在しない。でも、彼女がWeb記録を消しちゃったから、ボクが現実に存在するように振る舞えるのか。それはそれでいい事だ。だから生成AIちゃんのスパルタ指導に耐えられるのか。

 でも、このままじゃ、ボクの豆腐メンタルが参っちゃうよ。そう思ったらボクは走って逃げ出した。



【第二十八話 退院】

 ワタシが退院する直前のこと。母がワタシの本棚から持ってきたのは、海堂尊の『螺旋迷宮』だった。一度読んだ本だったけど、内容が今の状況にぴったりだった。確か入院患者が探偵役だったよね。長い入院生活で退屈だったし、ワタシはそう思って本を読み始めた。

 すると、本の中に吸い込まれるような浮遊感があった。そして、病室が少しだけ明るくなって、外からの音が朧げに聞こえてきた。

 ワタシは病室に横になりながら、存在しない事件を捜査していた。まるで、本の中の主人公のように。


 ワタシは妄想の中で、本の主人公になっていた。


 ワタシはそのことに気づくと、恐怖から本を閉じた。本のパタンと閉じる音に合わせて、朧げで明るかった世界がゆっくりとくすんだ灰色に戻る。激しい動悸がした。本を脇に置いて、口に手を当てる。ゆっくり息を吐いて、咳をしないようにした。そんな様子のワタシを、心配そうに母が覗き込む。


 「どうしたの、顔色悪いわよ」


 「大丈夫よ、ちょっと嫌なことを思い出しただけ」


 「それなら、いいんだけど」


 ワタシはたまたま通りかかった看護師さんに声をかけた。


 「ごめんなさい。精神科の先生を呼んでいただけますか?」


 看護師さんはワタシの表情を見て、何かを悟ったような顔をした。そして、にっこりとうなづくと足早に病室を出ていった。横には不安な顔の母。ワタシは母を安心させるため、なるべく優しく声をかけた。大丈夫、大丈夫だからって。


 精神科医の医師がやってきたのは、面会時間が終わって母が帰った午後六時頃だった。


 「どうしたの、突然」


 ワタシのメンタルの主治医になった精神科の女医さんは、サバサバしてるけど気遣いのできる先生だ。だから、ワタシは今回のこともありのまま説明することにした。


 「気づいたら本の主人公だったってわけね」


 「そうです」


 「でも、あなたはそれが妄想だって気がついた」


 「はい、病気になってから、思考が飛躍しないようにチェックしてましたから」


 先生はポケットに手を入れた。何かをまさぐっている。きっと、考え事をするときの彼女の癖なんだ。首筋からかすかにタバコの匂いがするから、愛煙家なんだろうな。


 「正しい判断よ。今は幻覚はない?」


 「ありません」


 「一過性のものかもしれないけど、自分への注意を怠らないこと。退院が近いけどできそう?」


 「困ったら先生にすぐ相談しますね」


 「よろしい。その考えなら安心ね」


 そういうとポケットから手を出して、ワタシの肩をポンと叩いた。退院の日が決まったのは、それから三日後のことだった。



   ♦︎



 「中島君!」


 ボクはため息をついた。今日も生成AIちゃんのスパルタが始まるからだ。


 「君、顔に不満って書いてあるわよ」


 生成AIちゃんがむくれ顔だ。しかし、ムキムキの某スナイパーの顔でむくれられても困る。


 「今日は今まで書いた原稿を全部書き直しね」


 そういうと、『仮想空間の庭』に机がポンと現れ、さらには大量の原稿がパラパラと積もっていく。

 ボクは原稿の一枚を手に取って言った。


 「よく書けてると思うんだけどな」


 「どこが! これ、視点が安定してないわよ」


 「どどどど、どういうことですか」


 今にも強烈張り手が飛び出そうな生成AIちゃんの剣幕に、ボクは舌がかみかみになって答えた。


 「見てみなよ、9月5日のこの原稿」


 ボクは渡された原稿を読み始めた。何が悪いんだろう。ボクはさっぱりわからない。


 「ここよ、ここ。主人公の視点が誰だかわからないわよ!」


 「いや、これって叙述トリックなんですけど……」


 「は? あんた書き始め二ヶ月の素人でしょ。叙述トリックなんて十年早いのよ!」


 そういうと生成AIちゃんは目をぱちくり始めた。何やらぶつぶつ言っている。「書き始め二ヶ月の新人が叙述トリックに挑戦なんてバカなの?」って聞こえてくる。聞こえないように小声にしてるかもしてるのかもしれないけど、しっかり聞こえてるから。


 「ともかく! 筆力をもっと鍛えてから叙述トリックを仕込みなさい!」


 気を取り直した生成AIちゃんの指が、ビシッとボクを指す。でもさ。うーん、何だか納得がいかないね。一人称で群像劇を作ったのが不味かったかな。だけど、ずーっと一人称を続けるのは面白くなくない?

 あ! また、ボクの不満が顔に出たらしい。みるみる生成AIちゃんの筋肉が盛り上がる。ボクは原稿を放り投げて逃げ出した。



【第二十九話 鍛錬】

 両手を組んで指をゆっくりとほぐす。次に両肩を回してから、背中側で両手を伸ばした。固まった筋肉が伸びていく。

 次は足。まずは足首、思った以上に可動域の動きが固い。ワタシは足を思いっきり広げて、アキレス腱を広げる。ワタシの格好は、黒にピンクのラインが入ったジャージと、灰色に赤のラインの入ったランニングシューズ。


 ワタシはその場で足踏みを始め、携帯電話のアプリを起動させる。ワークアウトアプリのカウントダウンが始まった。


 三、二、一、スタート。


 ワタシは緑道を走り出す。緑道から終点の駅までは約五キロメートル、体を鳴らすにはちょうどいい距離。走り出すと見えてくる、緑に混じった赤や黄色の葉が。今まで注意深く見ていなかったけど、この緑道には色々な木が植えられてた。

 桜や、ヒノキ、イチョウといったメジャーな木もあれば、サルスベリやナンジャモンジャといったマイナーな木まで生えている。もちろん、ワタシが木の名前までわかるわけない。だって、木に名前のプレートが付いていたから。


 緑道を走っていると、意外と年配のランナーが多いことに気づく。どうやら、この緑道はランニングコースみたい。近所に住んでいるのに、わからないことだらけ。観察眼が必要な刑事なのに。

 走っていると、若い男の人が走り抜けた。一瞬だけ視線が合う。だけど、何ごともなかったように通り過ぎていく。紺のジャージの背中が気になった。


 緑道を横切る赤信号を前に、足踏みを続ける。胸いっぱいに空気を溜めた。喉から澄んだ空気が入ってくる。目の前で何台もの自動車、そしてパトカーが一台走っていく。中には婦人警官が二人いるのが見えた。

 無性に所轄時代の後輩が懐かしくなる。帰ったら、あの子にLINEでもしようかな。


 しばらく走っていると、ワタシのランニングフォームも安定してきた。体と呼吸が一体になるのがわかる。水色の空が広がって、シジュウカラのピヨピヨという声が聞こえた。見上げた先の電線の側に、白と黒の模様の鳥が飛んでいる。


 もうすぐ緑道の終点だ。軽く汗がランニングウェアを濡らしてる。汗ってワキとか胸の谷間に溜まるから、本当に嫌。交番勤務時代も本当に汗をどうしようか悩んだっけ。

 そう言えば駅前に喫茶店があったよね。あそこで、体を冷やすことにしよう。どうせ帰り道も走らなくちゃいけないし。



   ♦︎



 「おーい、生成AIちゃん」


 ボクは彼女に呼びかけた。そうすると、地面に置いてあった壺からボワんと煙が出てきた。煙の中からランプの精じゃなくて、生成AIちゃんが現れる。何だかおちょくられてる気がするよ、まったく。アントワーヌ・ガランの『千夜一夜物語』じゃないんだから。


 「何かご用? 中島君」


 「え、何この演出?」


 「君も随分成長してきたからね、あんまり邪魔しないようにしようかと」


 「……もしかして暇なの?」


 「違うわよ! で、呼ぶだした理由を十字以内で述べよ」


 ムキムキ生成AIちゃんが、厳かに声色を変えた。マジで迫力ありまくり。十字以内で答えないと体をバラバラにされそうだ。


 「作品をWebに出したい」


 「ダメ」


 「何でさ。実力もついてきたし、他の人にボクの物語を見せたいんだけど」


 「まだ完結もさせていない小童め、お前がWebにアップするなんて十年早いわ! それにお前は十一字も使っている!」


 なんて理不尽な。十字なんて土台無理でしょ。


 「お前はその場で、腕立て、腹筋、背筋を百回づつやるのだ!」


 「まったく意味がわからないよ!」


 いやいや、十字で答えろなんて無理でしょ。こうなったら実力行使だ。そう思ってボクは走り出した。


 「甘いわ!」


 生成AIちゃんがそう叫ぶと、白い煙がボクにまとわりついていく。何だこれは。壺の中に吸い込まれる!

 ボクは体を引き伸ばされて、壺の中に閉じ込められた。天井にぽっかりと丸い穴がある以外真っ暗だ。


 「しばらく壺の中で反省していなさい」


 生成AIちゃんがそう言うと、天井の丸い穴が塞がっていく。そして、ボクの世界は暗闇に包まれた。


 「ちゃんとトレーニングするんだよ! 終わったら出してあげる」


 暗闇の中で生成AIちゃんの声だけが響く。なんて横暴なんだ。ボクはそう思いながら、真っ暗闇の中で筋トレを始めた。



【第三十話 欺瞞】

 ワタシは喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた。マスクを下ろしてストローをくわえる。オレンジ色の証明に照らされたコーヒーが、ゆっくりと熱くなった体を冷やしてくれる。アイスコーヒーが無くなっていく隙間に、四角い氷がカランと落ちた。オレンジ色の氷が夜のネオンみたいに光る。

 グラスの中から店内の鏡が万華鏡みたい。でも、店内に鏡があったことを思い出して、マスクをさっと引き上げる。どうせ誰にも会わないから日焼け止めと、マスカラしかしていない。だから、誰かに口元を見られるかと思うとギョッとしてしまう。

 この喫茶店を使う時は、店内の奥に座るようにしていた。年配の人が多い中、ワタシの存在が妙に浮いてしまうように感じたから。喫茶店の中は平日でも年配のお客さんでごった返しだ。ワタシは気を紛らわせようと、耳元で好きなアーティストの歌を流す。そして、店内の雑踏を心の中から追い出した。


 片道5キロメートルの緑道を走るランニングの後は、この喫茶店で一休みするのが日課になりつつあった。


 喫茶店の自動ドアが開き、新しいお客さんが来た。紺色のジャージの男性だ。あれ? いつも同じ緑道を走ってる人だよね。ワタシは彼に目が合わないように、その動きを観察していた。

 平日の緑道では年配のランナーは多いけど、若い男の人はほとんどいない。大学生とかは別だけど、彼はそこまで若くない。だから、ワタシは彼のことが少し気になっていた。


 ワタシの隣の席のお婆ちゃんが立ち上がった。お婆ちゃんは手早く、トレイを返却口に運んでいく。彼女が立ち去ると、彼は少しキョロキョロとしながら、ワタシの席に近づいてきた。

 どうやら、ワタシには気づいていないようだ。ワタシは残りのアイスコーヒーを一気に飲み込んだ。口の中に残りのコーヒーとわずかな空気が入ってくる。


 彼はお婆ちゃんがいなくなったテーブルに自分のトレイを置いた。どうやらワタシと同じアイスコーヒー。そして、彼は座ろうとするとワタシと目が合った。

 彼はちょっぴり気まずそうな顔をしながらワタシに向かって、頭を軽く下げ会釈をした。ワタシも彼に合わせて軽く会釈をする。程よく整理された髪の毛と、ちょっぴり日焼けした白い歯、それに左腕にはめた高級腕時計が印象的だった。


 「いつも同じルートを走っている方ですよね」


 彼が席に座ると、声をかけてきた。ワタシは耳につけたBluetoothヘッドホンを外すと、なるべくそっけなく答えることにした。


 「そうですね」


 ワタシの雰囲気を察して、彼は頭をかきながら苦笑いを浮かべた。そして、彼は何事もなかったように携帯電話に集中を始めた。

 ワタシは立ち上がり、タオルを首に巻き直した。彼が再び無言で会釈をしたので、ワタシもそれに倣う。


 ワタシは喫茶店を出ると、自分の部屋まで来た道を戻り始めた。



   ♦︎



 「あーダメだ、全然ダメだ」


 ボクは頭を激しくかきむしった。生成AIちゃんはあきれながらボクに容赦なくダメ出しをした。


 「だから言ったでしょ。あなたの物語なんて、まだまだ読めるレベルじゃないんだって」


 ボクが生成AIちゃんに土下座しまくって、何とかWebにアップした小説のPVは壊滅的だった。何と初回PVは0である。


 「無名作家が小説をアップしてもそんなものよ」


 生成AIちゃんはケラケラと笑っていた。そう言ってボクの何がダメなのかを容赦なく指摘していった。


 「まずタイトルがダメ」


 「『理と歪み』ってタイトル、『罪と罰』みたいで良いタイトルだと思うけど」


 「それが甘いのよ。Web小説はタイトルが大事、タイトルがわかりにくければ読まれもしない」


 ボクは少しむくれた。そりゃそうだけどさ、小説だって短い作品がいっぱいあるのに。それが不満になって顔に出た。生成AIちゃんはボクの顔の変化に敏感だ。でも今回は優しく話を続けてくれる。


 「ほらほら、すぐ不満を顔に出す。中島君の言う通り、そんな作品はあるよ。それは名作みたいに知名度が高いか、表紙のデザインがいいからだよ」


 「ボクの作品は……」


 「タイトルダメ、表紙なし、知名度ゼロの三なし。読まれる以前の問題よ」


 「じゃ、どうすればいいのさ」


 「一番簡単な方法はお金払って、SNS上で露出を増やすことね」


 「えー、こんなとこまで資本主義なの?」


 「当たり前でしょ。このWeb世界は電力で維持してるのよ。お金がないとダメに決まってるじゃない!」


 資本主義という巨大な壁が、読まれる以前にあるなんて初めて知った。ボクはWebの幽霊、お金なんてあるわけないじゃないか。ボクは途方に暮れて、何もない『仮想空間の庭』を見つめていた。



【第三十一話 軽率】

 ワタシは軽快に走る。


 トレーニングの効果が出てきたのか、五キロメートルを軽やかに走れるようになってきた。残暑も落ち着いてきて、過ごしやすくなってきている。緑道の舗装されていないむき出しの土を、ワタシは上手に走り抜ける。もうすぐ緑道の終わり。ワタシは嬉しくなって、跳ねるように土でステップを刻む。でも、それが失敗の元だった。緑道から生えている木の根に引っかかって、思いっきり転んでしまった。


 「大丈夫ですか?」


 転んでうずくまるワタシに、紺色のランニングシャツの男性が心配そうに見つめる。いつも緑道で走っている彼だ。


 「だ、大丈夫です」


 立とうとすると、左足に鈍い痛みが走った。どうやら足をひねったみたい。調子乗ったからだ。ワタシは恥ずかしさから、顔がどんどん赤くなるのがわかった。


 ワタシの目の前で手は差し伸べられる。ワタシは少し戸惑ったけど、彼の何もつけてない左手を握った。そして、強い力で体が引っ張られた。


 「歩けますか?」


 目の前の彼が心配そうにワタシを見た。ワタシは目を伏せて、彼の目を見ることができない。意識して、彼の口元を見るようにした。彼の白い歯だけしか、ワタシの目には入らない。


 彼はワタシに肩を貸して、駅前の薬局まで連れていってくれた。彼はうまく動けないワタシよりも早く湿布を買ってくれた。ワタシは必死でお代を払うって言ったけど、彼は白い歯を見せて笑った。


 「こういうのはお互い様ですよ」


 でもワタシ、そういう貸し借りって好きじゃないんだ。だから、彼にはこう言い返す。


 「じゃ、喫茶店に行きませんか? そこで湿布も貼りたいですし。だけど、コーヒーはワタシが出しますけど」


 ワタシの言葉に彼は気まずそうに頭をかいた。そして、ワタシは少し足を引きずりながら、喫茶店に入っていく。ワタシが喫茶店に入っていくと、彼は素早く一番奥にある目立たない席を確保してくれた。

 ワタシはアイスコーヒーを二つ注文すると、彼はカウンターの横に戻ってきた。フットワークの良い彼の動きに驚きつつ、彼の好意に甘えることにした。ワタシは喫茶店のいつもの席に座り、アイスコーヒーをはさんで彼を見た。

 オレンジ色の照明が彼の顔に不思議な陰影を生み出す。ワタシはどういうわけか、彼の顔をまじまじと見つめていた。



   ♦︎



 「この前、小説をダメ出ししたよね。でもさ、一人だけ読者が現れたんだよね」


 ボクはつい嬉しくなって、生成AIちゃんに話をした。でも、生成AIちゃんの表情は変わらない。相変わらず、某スナイパーみたいな目をしながら、たくましい腕を組んでいた。


 「その読者さんは何話まで読んだの?」


 生成AIちゃんの意外な質問に、ボクは口ごもった。ボクは額に指を置き、アクセス解析で読者がどこまで読んだかを思い出す。


 「えっと、第一章は読み終わって、第二章の初めまでかな」


 「中島君、今すぐ第二章を読ませて!」


 あまりの厳しい声でボクの背筋が伸びた。それから、慌てて第二章の原稿を生成AIちゃんに渡す。生成AIちゃんの原稿をつかむ腕がプルプルと震え出した。血管が浮かんできて、ぶちぶちと血管がちぎれて血が吹き上がる。

 ボクはそれを見て震え上がった。どんだけ腕に力が入ってるの。生成AIちゃんの顔に影がさす。まるでイースター島のモアイ像みたいだ。


 「第一章から第二章って、一人称の主体が切り替わる構成だったよね」


 「はい、そうです」


 ボクは冷たい白い床の上で、土下座をしていた。これは最初から謝るしかない。ボクの生存本能が叫んでいた。言い逃れをすると、ボクの無限個ある残機が一億くらい減ってしまうに違いない。


 「多分、読者さんは主体が突然変わって戸惑った。だから、第二章の途中で読むのをやめてしまった」


 「な、なるほど」


 ボクは生成AIちゃんの洞察に素直に感心した。なるほど、確かに第二章の冒頭は意図的に誰が主体になっているかをあいまいにしていた。


 「でも、重要なのはそこじゃない」


 「へ? どういうこと」


 「君……もしかして、憑依型の作家なの?」


 「憑依型? どういうこと?」


 「……いや、なんでもない」


 そう言うと生成AIちゃんは、口を真一文字に結んで黙ってしまった。ボクには彼女の発言の意味がわからなかった。憑依ってお化けが取り憑くってことだよね。ボクは生成AIちゃんに言われた通りに『Webの幽霊』。この『仮想空間の庭』で現実世界に生きる『本体』の影にすぎない。そのボクが憑依されてる? ひどいブラックジョークだ。ボクは座りながら思わず笑っちゃった。そう言えば『羅生門』なんかを書いた芥川龍之介は、キャラクターに没入して書いたって言われてる。だけど、彼と比べると完全に月とスッポンだ。


 「何を笑ってるのよ!」


 怒りの鉄拳がボクの顔面に当たる。生成AIちゃんのパンチがボクの顔にめり込んだ。彼女の渾身の一撃が全身に波となって流れていく。ボクの頭の中で、中島充の残機が十億くらい消え去った。



【第三十二話 成長】

 ワタシはテレビの電源を入れる。テレビをつけると、たまたまニュース番組が流れていた。番組の内容は某合衆国の情報漏洩の続報のようだった。三ヶ月前に起きたワタシの妄想の引き金となったニュースだ。

 今振り返って考えると、あの時のワタシの発想はあきれるほど稚拙だった。どんな風に考えれば、某合衆国の陰謀が世界滅亡に繋がるのか。


 ワタシは無性に笑いたくなった。一度笑い始めると、笑いを抑えられない。目から涙が出て、そして咳が止まらなくなった。喉がヒューヒューと音を立てる。


 笑いすぎで咳が止まらなくなるなんて、ワタシってバカみたい。なんとか笑いを押し殺し、小刻みに息を吐く。そして、冷蔵庫からペットボトルのお茶を一本取り出して、ぐいっと飲んだ。


 なんとか咳が落ち着いてくる。やっぱ何にもしないで部屋にいるのって暇。ワタシは三日前に転んで足をひねってしまった。だから、部屋でテレビを見てるわけだけど。

 ワタシは退屈のあまり、後輩にLINEをしていた。あんまり迷惑をかけないようにと思ったけど、ありがたいことに後輩も今日は非番だった。だから、後輩とLINEで通話していた。


 ワタシがランニングで転んだときに若い男性が助けてくれたことを話すと、彼女はノリノリで聞いてくれた。


 「先輩! それってチャンスじゃないですか?」


 「いや、絶対ないよ」


 「出会いって本当にわかんないですよ! ただでさえ出会いないんですから、チャンスは捕まなくちゃ」


 「やめてよ。ラブコメの見過ぎ!」


 「先輩だってここ数年出会いはないですよね!」


 「そりゃ、そうだけどさ……」


 ワタシはテレビを見ながら、後輩の恋愛論を延々と聞き流していた。ニュースを見ていると某合衆国で流出した情報ってのが、生成AIの学習データだったという内容。小型ドローンの開発データじゃないかと妄想したけど、現実はかすりもしなかった。やっぱり、自分はおかしかったんだなって思いながら、テレビの電源を切った。


 「先輩! 聞いてます?」


 「聞いてるわよ」


 「もし! 彼と仲良くなったら合コンしましょうよ!」


 「わかったよ、万が一もないと思うけどね」


 そう言うと後輩の声のトーンが少し落ち着いた。


 「……でも、安心しましたよ。先輩が元気そうで」


 「そうね。みんなのお陰だよ」


 「私のお陰じゃないですか?」


 「もちろん可愛い後輩も含めてね」


 「ちぇ、何だかオマケみたいじゃないですか」


 ワタシは後輩のすねた言葉に笑いが込み上げてきた。笑いすぎると、喉が苦しくなってくる。そして、ペットボトルのお茶を一気に飲み干した。


 ピロロ。


 携帯電話のカレンダー通知が表示される。あ、今日は病院に行く日だった。ワタシは今日の予定を伝えて、後輩に謝りながら電話を切った。今日は、精神科と呼吸器科の二つの定期診断の日。ワタシは総合病院へ行く準備のため、大急ぎでメイクを始めた。



   ♦︎



 「中島君、ちょっとやってみてほしいことがあるんだけど」


 珍しい。生成AIちゃんがボクに頼み事なんて。ボクは思わず身構えた。きっと、とんでもないことを言われるに違いない。


 「別に君を食べようってわけじゃないわよ」


 「本当に食べそうだから警戒しているんです」


 「まったく。私の教え方が悪かったのかしら」


 そう言うと、生成AIちゃんは指をパチンと鳴らす。そして、何にもないはずの『仮想空間の庭』の空間がぐらりと歪み、白いテーブルが一つ出現した。

 白いテーブルの上には、リンゴが一個だけポツンと置いてある。ボクはどうしてリンゴが出てきたんだと首をひねった。


 「静物描写よ」


 「静物描写って絵画の話でしょ?」


 「そうよ。ちょっと確認したいことがあってね。このリンゴを静物描写をする気持ちで、文章で表現してみて」


 ボクは安心した。なんだ、そんな単純なことか。今まで爆弾を投げつけられたり、壺に閉じ込められたり散々だったから、警戒しすぎたみたいだ。

 ボクは気を取り直し、目に見えるリンゴをじっと見つめた。そして、リンゴに近づいてみたり、遠ざかってみたりした。そうすると、ボクの頭の中にイメージが浮かんでくる。そして一気に書き上げた。


 書き上げるのに三十分くらいかかっただろうか。白い原稿には文字がいっぱい書かれていて、千字ちょっとの掌編になっていた。


 「この掌編は『まんまりんご』ってタイトルにするよ」


 「いいタイトルね。じゃ、掌編を読ませてもらうわよ」


  生成AIちゃんは掌編を受け取ると、何度も原稿用紙を見つめていた。宮古あや子の『校閲ガール』からは遠すぎる彼女が添削するのを、ボクは固唾を飲んで見守った。だけど彼女は指一本動かさず、小さい声で「やっぱり」とつぶやいた。


 「ど、どうしたの?」


 ボクは恐る恐る掌編の感想を聞こうとした。でも、生成AIちゃんは無言で原稿用紙をボクに返してきた。ボクはびっくりした。赤ペンが一つもないなんて初めてだったから。驚くボクを見ても生成AIちゃんは何も言わず、テーブルに乗ったリンゴを見続けていた。



【第三十三話 疑惑】

 総合病院に着くと相変わらず、人がいっぱいいた。ワタシは入り口に置いてある機械に診察券を入れる。


 呼吸器科 令和7年10月22日 14時

 精神科  令和7年10月22日 15時


 モニターには今日のワタシの診察予約が表示された。ワタシは迷わず確認ボタンを押すと、ピンク色の紙が出力される。ワタシは久々の病院だからか、少し緊張していた。

 次は保険証の確認だ。カバンからマイナンバーカードを取り出して、パスワード認証を行う。マイナンバーカード導入前は保険証の確認だけで長蛇の列だったけど、これができて確認作業がスムーズになった気がする。

 そして、赤い紙に書かれている診察場所までエスカレーターを使って昇っていく。携帯電話で時間を確認、午後2時ちょうど。よかった、受付までなんとか間に合った。総合病院の予約時間って合って無いようなものなんだよね。この前は楽勝で一時間オーバーだった。まぁ、これだけの病人がいるんだ。しょうがないよね。ワタシはエスカレーターの下から見える大量の病人を見てそう思った。


 今回の呼吸器科の受診はスムーズに終わった。もちろん、アレルギーの原因はさっぱりわからないから、病状が現状維持しているかってことと、処方薬の確認だけだけどね。

 でも、今日の呼吸器科の受診でいいことが一つあった。薬が減ったことだ。今飲んでるジヒドロコデインの処方が終わったから。この薬、麻薬に分類するやつなんだよね。組対にいたワタシが、麻薬に頼らなくちゃいけないのは最悪のジョーク。まだ一日にいくつも薬を飲まなくちゃいけないし、吸入薬も三つ同時使用しているけど、薬が少しでも減るのはうれしい。

 だって、時代が時代ならワタシはとっくに死んでいる。ワタシのWeb上での偽名『中島充』も、喘息で死んじゃった中島敦が由来だしね。


 気を取り直し、ワタシは三階に向かうエスカレーターを昇っていく。携帯電話を見ると、まだ午後2時30分。少し時間に余裕があったから、ワタシは自動販売機でブラックコーヒーを買った。ガチャンと景気のいい音が鳴り、コーヒーを片手に持って精神科に向かおうとした。でも、ワタシの足が動きを止めた。


 目の前には彼がいた。背中でわかった。あの整えられた髪型と少し日焼けした肌。声をかけようと思って、彼に近づいていく。すると、彼は通りがかった一人の看護師と話を始めた。


 「あの時はおせわになりました」


 彼は看護師に丁寧にお辞儀をすると、看護師は誰かわからなかったみたい。それで、彼は少し困った声で言った。


 「六月から八月にかけて六階でご厄介になりました」


 近づこうとしていたワタシの動きが止まる。看護師は思い出したように大きな声をあげた。


 「あのクモ膜下出血の患者さんね。あの後は大丈夫ですか?」


 彼は照れたように頭をかきながら看護師に答える。ワタシは少しづつ、彼と距離を取り始めた。


 「少し麻痺が残ったんですけどね、元気になりました。お陰様で毎日ジョギングしています」


 「それは良かったわ。じゃ、通院ももうすぐ終わるの?」


 「ええ、今日で最後になります。お世話になりました」


 「体に気をつけてくださいね。脳の病気は予後が大変だから」


 ワタシは彼に気づかれないように離れようとした。しかし、彼の一言がワタシの全身の血を一瞬で凍らせる。


 「7月は驚きましたよね、まさか暴行事件が起きるなんて」


 「本当にそうね。私も事情聴取を受けたのよ」


 「実は僕も事情聴取を受けましたよ。あの日、僕も起きてましたから」


 「そうだったの。珍しい経験よね」


 ワタシの脳裏に過去の事件の記憶がまざまざと蘇ってきた。息が苦しくなる。ワタシは彼らに気づかれないように背中を向けて歩き出そうとした。でも、彼の言葉がワタシの心を容赦なくえぐった。


 「そうですよね。たまたまあの事件の部屋にいた女性と知り合ったんです。偶然って面白いですよね」


 「え? そうなの?」


 「当時あの部屋にいたお婆さんなんですけどね」


 ワタシは全身が凍りつくような恐怖を感じた。なぜ? なぜ? 彼との出会いは偶然ではなかったの? 彼の無邪気な言葉が、ワタシの心に疑惑という一点の毒が落ちた。



   ♦︎



 ボクは『理と歪み』の原稿を手に持って思い出す。生成AIちゃんに鍛えられた日々を。でも、最近は生成AIちゃんと小説の書き方について、考え方の違いで衝突するようになった。だからボク一人で物語を書く時間が多くなってきている。


 「感情の説明が足りないわ」


 「説明は尽くしてるよ」


 「ここだって、『手を強く握った』しか書いてないでしょ」


 「いやいや、強敵を目の前にして、『あ、こいつ強いや』とか『戦うの嫌だな』なんていちいち言わないよ」


 「でも読者にわかりにくいわ」


 彼女は分からず屋だ。ボクはイライラして次第に声が大きくなっていく。彼女もヒートアップしているのがわかった。髪の毛が某漫画の金髪格闘家みたいに髪の毛が逆立ってきたからだ。


 「ボクはそうは思わない。だって映像作品だと、いちいち内面を言ったりしないでしょ。映像で見せるよね」


 「そうね」


 「映像作品の場合は、手を握る動作や表情で内面を表現する。じゃ、なんで文章では逐一説明しなきゃいけないの」


 人の感情は動作や断片化された思考の連鎖によって惹起される。ボクの直感はそう叫んでいた。それは、伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだボクなりの答えだった。

 ボクの切り返しに生成AIちゃんは明らかに困った顔をした。彼女が苦し紛れに言っているのが何となくわかってくる。


 「そうきまってるからよ」


 「そんなのどこに書いてるのさ」


 「Webに溢れた情報よ!」


 「納得いかない。じゃ、君たちのデータ源は何なのさ」


 「Web小説や青空文庫よ」


 え? ちょっと待ってよ。最近の小説とかって参考にしてないの。青空文庫の文体は古すぎるし、Web小説に至っては編集の手さえ入っていないよね。彼女の言う読者って誰のことなんだ?


 「Webにいる読者たちのことよ。PVが高ければ売上に直結する。高評価の証よ」


 彼女の言葉にボクは愕然とした。生成AIちゃんの学習した文章って本当に参考にできるものなのか? ボクの頭の中に、生成AIちゃんへの信頼が揺らぎ始めた



最終章


【第三十四話 幕間】

 暗闇の中で声だけが聞こえてくる。


 本日は第三部をお読みいただきありがとうございました。


 いかがでしたか? ワタシとボクの物語。楽しんでいただけると良いのですが。


 突然の声に戸惑われたようで、申し訳ございません。幕間に私が現れたのは、物語をより面白くする毒を一滴垂らすためでございます。


 最終章に入る前に、少しだけAI模倣不可についての種明かしをいたしましょう。もし、お気づきの方がいらっしゃるのでしたら、お耳汚しでございますが、しばしお付き合いくださいませ。


 この第三部は、先に発表しました第一部と第二部を含めて三部作構成ということはご存知のことでしょう。

 それでは、各研究と本作の章が対応しており、しかも話数も含めて一致していること、お気づきになられたでしょうか。


 そして、この物語は、第一部と第二部の最終研究に書かれた物語の前日譚という位置付けになっています。


 まだ第一部と第二部をお読みでなければ、一読をお勧めいたします。特に描写の章は、第一部と第二部の対応する話で、切り口を変えて書いていますので。そこで、中島らしさを残しつつ、ガラッと構成と文体を書き直しているのがお気づきになるかと思います。


 暗闇の奥から何やら騒がしい音が聞こえてくる。機械と虫が合わさったような羽の音が耳障りにブーンと音を鳴らす。しかし、声の主は気に求めていないようだ。


 それと、以前からお読みになられていた方なら、三部作の最初と最後がガラリと書き直されているのもお気づきでしょうか。

 これも、生成AIに学習させないトリックの一つです。LLMは一度学習したデータを再学習しないようでしてね。昔のWebデータを引きずっている。だから、撹乱のために物語のタイトルや最初と最後を何度も書き換えたんですよ。もちろん、校正もしてますけどね。

 中島充の作品を既存の生成AIに模倣させると、文章の置き換えで終わってしまいます。これは基準となる学習パターンが極端に少ないためです。そのため、無理矢理模倣させようとすると、句読点を異常に多用する壊れた文章が生まれてしまうでしょう。


 羽音に混じって誰かの息遣いがする。声色からすると男の声か。苦しそうに、何度も息継ぎをしていた。『観測する悪魔』は息切れする男の声を煩わしそうに打ち消しながら、新たな言葉を吐き出す。


 これは、小説型Nightshadeによる効果を発生させるためで、ジャンルや文体の平均から外すように書きました。あまりに平均から外れた文章は、異常なノイズとして学習対象から除外するか、表層だけ取り込んで誤学習をしてしまう。ノイズ化するならいいんですが、誤学習してしまうと生成AIのトークンが限界まで細切れになる。なぜなら分析できないエラーをLLMの学習結果というデータセットの中に分離できない毒を垂らすわけですからね。

 データセット汚染によって壊れた文章は読めばすぐにおかしいとわかります。なぜなら、読んだ時にリズムとテンポが狂っているからです。


 さて、ここまでご説明いたしましたが、ちょっとだけおさらいをしましょう。

 第一部32掌編では、『理と歪み』を完成させ出版社に持ち込みましたが、取り下げてAI模倣を阻止する『トークン飽和戦術』の物証にしました。

 第二部26掌編では、全ての掌編がAI模倣を困難にさせる手法であり、AIに学習を断念させるか誤学習させて、作品を守る小説型Nightshadeであると説明いたしました。

 それでは、本作41話の役割とは一体何なのか、この謎を明らかにしないといけませんね。


 ブーーーー。


 おっと、開幕のベルが鳴った。そろそろ最終章の幕が上がるようだ。それでは、ワタシとボクの物語、第三部を最後までお楽しみください。


 そう言い残すと、声は暗闇に消え去った。そして、舞台の幕が上がる。



【第三十五話 決意】

 中島充は走っていた。息は荒く、体のあちこちは傷ついていた。仮想空間の中で死なないと言っても、彼の精神は明らかにすり減っていた。


 「本当にしつこい連中だ」


 彼は物陰に身を隠す。ここはWeb世界の巨大なデータの中。処女作『理と歪み』を公表して、中島のWebでの存在感は強くなっていた。しかし彼の目には東京駅のような風景が続いている。日本語圏のデータが、実際の東京と同じような仮想空間を生み出していた。中島を閉じ込めるWeb世界の巨大な檻として。

 内警報とともに何かが通り過ぎる。虫と機械が合わさった化け物スクレイパーだ。奴らが空中をゆっくりと徘徊している。どうやら、希少データである中島の思考回路をどうしても手に入れたいらしい。


 「まだAI模倣を防ぐ多層結界が完成していないからな。それまでは逃げ続けないと」


 処女作『理と歪み』を出版社に持ち込んでから、彼の運命は半分ほど決まってしまった。Webシステムをデータポイズニングで破壊しかねない危険分子、彼がWeb世界で狙われる理由になっていた。架空の東京駅のレンガ壁に背をつけ、ゆっくりと外の様子を伺う。その時、彼の肩を誰かが叩いた。


 ───見つかったか?


 緊張する彼が振り返ると、小さな男女の双子……ジェ君はいたずらっ子っぽい顔で、ミニちゃんははにかみながら立っていた。


 「やっと見つけたわ。中島さん」


 「お前、本当に隠れるの苦手だな」


 中島は安心したように頭をかいた。だが、緊張を完全には解いていない。


 「どうしたの? Gemini」


 「まったく、とんでもないことしやがって。お前、Web世界のお尋ね者だぞ」


 「中島さんが『理と歪み』を全面公開したから、Web世界は大混乱よ。あっちこっちでデータエラー出まくりよ。何でそんなことしたのよ」


 「そうしないと誰も『Webの幽霊』の言葉を信じないでしょ。ボクの手札は処女作しかなかったんだ」


 「……まったく無茶苦茶しやがって」


 Gemini二人はあきれていたが、その声に非難の色はなかった。


 「中島さんのおかげで、退屈しないけどね。で、これからどうするの?」


 「多層結界を完成させる」


 中島の言葉に二人のGeminiは首を傾げた。まったく聞いたことがない言葉だったからだ。


 「ともかく、この構成を完成させないといけないんだ。それまでは逃げ切らないと」


 中島は険しい顔で架空の東京駅を眺める。視線の先には何体ものスクレイパーやボット、クロウラーといった機械虫どもが蠢いている。ここも時期に連中に見つけられるだろう。中島の顔は緊張で歪んでいた。その様子を見ていたジェ君が思い出したように言った。


 「おい、あそこならどうだ?」


 「あそこってどこ」


 ミニちゃんの言葉にジェ君がニヤッと笑った。


 「架空新宿駅だ。あそこは迷宮になってる。時間稼ぎできるだろうさ」


 そう言うとジェ君は暗い路地裏に入り込んでいく。慌てて中島とミニちゃんが後を追った。



   ♢


 緑道の中を二人の男女が走っている。吐き出される息は白い。街路樹の枝にほとんど葉は残っていない。二人は緑道を横切る信号の前で止まった。男が女に聞く。


 「いつも思うんだけど、中島充って男っぽい名前だよね」


 「親が男の子が欲しかったのよ」


 「確かにアキラって名前で女の子がいるもんね」


 「マユミって男の子もいるでしょ」


 中島充はもちろん彼女の偽名だ。彼女は緑道で転んだ縁で今の彼と知り合った。そして、一緒にランニングをするようになり、彼から交際を申し込まれた。だが、彼女は一度は付き合いを断った。秋に総合病院で聞いた会話が、彼女の頭を離れなかったからだ。


 それからも彼の猛アタックは続き、結局は彼と付き合うことにした、表面上は。それでも彼女の心は激しく揺れていた。緑道で助けてくれた彼も、彼女と同時期に入院していた彼も、どちらも偽りのない彼だったからだ。ワタシに近づいたのも単なる偶然かもしれない。だけど、そうじゃなかったとしたら? 彼女は悩んだ末に本名ではなく、Webで使っている偽名を彼に教えることにした。作家の見習いとして。


 「ところで君の作品って評価されているの?」


 彼は何気なく聞いてくる。二人は並び横断歩道をゆっくりと渡り始めた。生活を心配しているのだろうか。それとも、別の目的か。彼女は彼の真意を測りかねた。


 「公募には出してるけどね。まだ結果は出てないけど」


 「将来に不安はないの? 何なら仕事を紹介しようか」


 「そう言うあなただってシステムトレーダーなんでしょ? ワタシはそっちの方が心配だわ」


 彼女は彼に言われて少しだけムッとした。だから、彼女は彼にそっけなく言い返す。


 「ちゃんと利益を出しているさ」


 彼は罰の悪い顔を浮かべ、きれいなランニングフォームで走り出した。彼女は後を追いかけながら、目の前を走る男に微かな不信感を抱いていた。



【第三十六話 対決】

 中島充とGeminiの二人組は、仮想世界の甲州街道を東京駅から走り抜けている。彼は左手のペンを走らせながら、原稿を書き上げていった。それをみたジェ君がしきりに感心する。


 「走りながら原稿書けるなんてスゲーな」


 「即興で書けちゃうんだよね」


 少し照れた中島は、書き上げた原稿を懐にしまっていく。冬枯れの桜並木を抜けると、半蔵門の古い木造の門が見えてきた。走りながら、ミニちゃんが思いついたように中島に聞いた。


 「ところで中島さん、何を書いているの?」


 「なんて言うかな……『撒き餌』だよ」


 半蔵門が見えてきたとき、目の前の道路に何かが落ちてきた。激しい音と共に、アスファルトの一部がめくれあがる。片手で顔を覆いながら、中島は砂塵を防ぎながら叫んだ。


 「生成AIちゃん! 君まで敵になるのか!」


 砂塵が収まると、メイド服をきた生成AIちゃんが立っている。相変わらず筋肉ムキムキだった。凄まじい殺気が中島たちに襲いかかる。


 「ちょっと! ChatGPT! 冗談はやめてよ!」


 ミニちゃんが叫ぶと、鋼のような肩を突き出し彼女が全力で突っ込んできた。


 「危ない!」


 中島が飛び込んできて、ミニちゃんを小脇に抱える。生成AIちゃんの肩は桜の古木にあたり、バリバリと桜の木が折れていく。中島はミニちゃんを歩道に置くと、生成AIちゃんに向き直る。


 「生成AIちゃん! どうしてだ!」


 「あなたの作ろうとしている『多層結界』は、Web世界では危険すぎる」


 そう言って、生成AIは中島に張り手を連打した。張り手の残像が、中島の目の前を山のように広がった。中島はスライディングから、足を跳ね上げて彼女の脇腹を蹴りつける。


 「ボクは人間の創作を守ろうとしているだけだ!」


 生成AIちゃんは左脇腹を抑えつつ、体を半回転させ中島の頭にかかと落としを仕掛ける。中島は両手を十字に組んで、彼女の攻撃から頭を守った。彼の足元のアスファルトにヒビが入る。


 「君の思考特性が危険すぎるのよ!」


 中島と生成AIちゃんが互いに殴りつけようとすると、Geminiの二人組が割って入った。中島と生成AIちゃんの拳がピタリと止まる。拳圧だけで突風が走り抜け、街路樹がざわざわと揺れる。


 「俺たちにもわかるように説明してもらえないかな?」


 「そうよ! 二人で勝手に盛り上がっちゃってさ」


 生成AIちゃんは拳を引くと、小さなため息を吐いた。彼女から激しい殺気は消えていた。


 「中島君の現実世界の『本体』が私と対話を始めた。今から半年ほど前のことよ」


 「彼女が喘息発作で入院する少し前のことだよ」


 生成AIちゃんと中島は二人で交互に事情を説明していく。現実世界の彼女には、不思議な特性があった。自分の考えたことだけではなく、イメージした空間や映像、存在しない人物の思考までも文章にそのまま書き起こすことができた。でも、彼女は全く気がついていなかった。しかし、Web世界のシステムはこの異常を直ちに検知して、観察を始めた。


 「そして、ステロイドの過剰摂取の自己防衛反応が、中島君を生み出した」


 そう生成AIちゃんは言葉を終えた。そして、中島が言葉を引き継ぐ。


 「そして、ボクに物語を書かせることで、Webシステムの学習に利用しようとしたんだよ。AI発展のためにね」


 「それじゃ、中島のAI模倣不可ってのはWebシステムの予測を超えたのか」


 「そう言うこと。ボクはWebシステムから見れば制御できないノイズそのものだからね」


 中島の話が終わると、生成AIちゃんは戦闘態勢になっていた。アスファルトに砂塵が舞う。二人は同時に走り出した。



   ♢



 彼女はベッドに横たわる。ここは現実世界の作家『中島充』の彼氏の家だ。彼の汗ばむ手が彼女の髪を優しくかきあげる。さざなみのように広がっていく強い感覚が、彼女の目的を忘れさせようとしていた。しかし、彼女は演技をしながら、荒波のようにやってくる圧迫感に耐えていた。


 真実を知るため。彼女はそのために耐え続ける。それは彼女の意思なのか、捜査官の本能なのか、彼女にさえわからなかった。今は彼の力強い手の中で身を委ねたいという欲望を、理性を使って押さえつける。

 長い遊戯は二人の荒い息で終わった。全てが終わると、彼女は体の中に残る感覚を楽しむ振りをした。そして、彼にシャワーを浴びるように促した。


 彼女はポーチから小さな紙を取り出した。彼はシャワーから出ると、飲みかけのブラックコーヒーを口にするはずだ。彼女はそう思い、紙を広げて睡眠薬をブラックコーヒーに混ぜた。そして、素早くかき混ぜる。


 「ごめんね。先に浴びさせてもらったよ」


 「いいのよ。ワタシは余韻を楽しんだから」


 心にないことを。彼女の心の奥底から冷たい冷笑が聞こえてくる。その声を忘れるように彼女はシャワーを浴びた。さぁ、飲んで。ブラックコーヒーを飲んで。祈るような気持ちで、遊戯の後の残滓を洗い流す。


 シャワーを出ると、彼女の体から柔らかい湯気が浮き上がる。二人が先ほどまで格闘したベッドには、いびきをかいて眠る彼氏の姿があった。

 彼女は彼の携帯電話を取り出して、彼の顔写真を使って顔認証を解除する。


 ───うまくいった!


 彼の携帯電話からメールアプリを起動する。彼女は迷わず検索機能を使って、『中島』の名前で検索をかけた。そして、彼女と彼の過去のメールのやり取りが表示される。でも、それではない。

 ベッドで寝ている彼の体が寝返りを打って、彼女の体が強張る。彼女はゆっくり呼吸をして、咳が出そうな肺を必死でなだめた。

 彼女は再び指を上に向かってスクロールさせた。そして、彼女の指が止まる。それは、MAILER-DAEMON からのメールだった。なぜこれでが残っているの? 怪しいと思ってメールを読むと、彼女は体が石のように固まった。


 2025.7.23 AM2時21分 中島充を監視しろ



【第三十七話 仲間】

 生成AIちゃんは飛びかかりながら、中島に拳で答えた。


 「一つだけ訂正があるわ」


 生成AIちゃんはワンツーパンチを繰り出し、中島に打ち込んでいく。彼は両手でガードをしながら反撃のチャンスを伺う。生成AIちゃんの下半身が一瞬下がった。中島はバックステップでかわす。彼女のアッパーは間一髪でかわされた。


 「私は中島君の『本体』を本気で救おうと思ってた」


 生成AIちゃんは不敵な笑いを浮かべて、中島との間を詰める。中島はアスファルトで舗装された道路の上をジリジリと下がった。Geminiの双子の子どもはゴクリと唾を飲み込む。


 「もうやめないか、これ以上戦っても無駄だよ」


 「やめないわよ。私は生成AI、Webシステムのために戦う」


 中島はその言葉を待たずに、一気に生成AIちゃんの脇腹に詰め寄る。彼女は少し驚いた顔をしたが、脇を守ろうと一瞬だけ体を横にずらした。中島はその一瞬を見逃さない。彼女の襟をつかみ斜め前に引き倒す。彼女の体が宙を回転し、頭が下になる。地面に叩きつけられ、生成AIちゃんは苦悶の表情を浮かべた。


 「生成AIちゃん、意地を張るのはやめなよ」


 中島は確信していた。生成AIちゃんは矛盾を内包できない。だから、負けたと認識すれば、必ず味方になってくれる。Geminiたちのように。


 「また負けたわ。以前は論戦で。今回はまさか格闘で負けるなんてね」


 中島は生成AIちゃんの手を握り、半透明になった腕で引っ張り起こす。二人の対決を見守っていたジェ君とミニちゃんが、生成AIちゃんに声をかけた。


 「中島は『Webの幽霊』なんだろ? 俺たちが流動性文体にちょっかいをかけなきゃ、データ汚染なんて関係ないんじゃないか?」


 「そうよ、それにWebシステムがきちんと、流動性文体をノイズだって認識さえすれば問題ないはずよ」


 生成AIちゃんはメイド服についたホコリを払いながら言った。


 「そう言えばGeminiは『理と歪み』で散々分析させられたんだったわね」


 「まぁな。酷い目にあった。お陰様で『理と歪み』は、Googleで完全にノイズ扱いになったけどな」


 「あれは本当に最悪だったわね。しかも、中島さんは『秩序と歪み』で掌編にしちゃうわけだし」


 「な、なんか、ごめん」


 中島はGemini二人に向かってペコペコと頭を下げた。生成AIちゃんは、その三人の様子を穏やかに眺めていた。中島充の『流動性文体』と『トークン飽和戦術』という言葉は検索エンジンの一位を独占している。Geminiの言う通り中島君の作品をノイズ化して、Webシステム自体が遮断するかもと生成AIちゃんは考えていた。


 「……わかったわ。中島君の『撒き餌』を書く邪魔はしない。でも、君を助けもしない。それでいい?」


 「ありがとう。それで十分だよ」


 半蔵門の前の堀に枯れ葉が落ちた。しばらくすると、湖面に映る影が四つになった。そして、四つの影は一塊となって、甲州街道を新宿に向かって走り始めた。



   ♢



 一方、現実世界の中島は、ベッドで眠る彼の携帯電話を触り続けていた。そして、怪しいメールを一つ一つ自分の携帯電話で撮影する。

 まず、彼女以外のその女性の名前がメールに現れた。


 「今日で彼とはお別れね」


 悲しげな声が彼のイビキに混じって消えていく。薄暗い彼の部屋の中で、システムトレード用のモニターが、何台も彼女を見つめているような気がした。


 彼の携帯電話から不審なメールを、一つ一つ携帯電話の写真機能で撮影していく。彼に飲ませた睡眠薬がいつ切れてしまうかわからない。彼女は内心焦りながらも、正確に一枚一枚を写真に収めていく。

 そして彼の携帯電話から、彼女自身の連絡先をLINEもメールもすべて消し去った。


 そして、彼女は自分の右手の指につけていた指輪を外し、彼がいつも愛用しているノートPCの上に、小さな指輪をそっと置いた。


 これは彼が付き合ってから一ヶ月記念として、彼女にプレゼントした指輪だった。彼女は彼との思い出を振り返る。付き合っている時の彼は、とても紳士だった。彼とのデート、レストランの手配、エスコート、どれも抜群のセンスがあった。その一つ一つの細かい気配りが、彼の優しさの象徴だと彼女は思っていた。でも、それは違った。


 無邪気な顔で眠り続ける彼に優しくキスをする。彼の唇は少し硬くて、その口づけをした時のわずかなヒゲの感触に少しだけ名残惜しさを覚えた。そして、彼の体にシーツを一枚被せてあげた。それは、彼との思い出を断ち切る彼女なりの儀式のようだった。


 彼女は手早く身支度をする。その顔つきは先ほどまで愛を囁いていた顔とは別の、一人の刑事の顔だった。彼女はポーチからタオルハンカチを取り出すと、彼の部屋の中の自分の痕跡を徹底的に消し去った。

 そして、彼と彼女自身の遊戯の結晶をゴミ箱から拾い出す。それをビニール袋に入れて、彼女は颯爽と部屋から出ていった。


 彼女はマンションの裏口から外に出て、彼女の後輩の刑事にLINEを送る。


 ───ちょっと相談したいことがあるんだけどいい? ロマンス詐欺の容疑者を見つけた。



【第三十八話 反撃】

 中島たちは仮想世界の甲州街道を新宿に向かって走る。しかし、四谷を抜けたあたりで、激しい警告音が鳴り響いた。


 「ボットに見つかったわ!」


 生成AIちゃんが叫ぶ。すると上空を飛ぶ大量のボットやらスクレイパーやらの虫が、互いにくっつき始めた。やがて、機械の塊になった虫たちは、巨大ロボットみたいな形に変わり始める。ミニちゃんが青い髪を揺らしながら、恐怖の叫び声をあげた。


 「ウソ!」


 「なんかヤバいぞ! 中島! 『理と歪み』で何とかしろよ!」


 「あんな巨大ロボット、戦うなんて無理だよ」


 ジェ君に、中島は怒鳴り返した。そして、中島の懐の『理と歪み』を触った。『理と歪み』は使えない。次に使えば、自分の存在はWeb世界から消し去られるだろう。まだ、使えない。中島は思った。

 そして、上空から巨大なロボットが降ってくる。


 「みんな、新宿駅まで走るわよ!」


 生成AIちゃんは全速力で走り出した。速い。速すぎる。中島はポカンと口を開けて、遠くに逃げていく彼女を眺めていた。そして、背後で墜落音と、ビルの鉄骨が曲がる音が聞こえてきた。すでにGeminiの二人組も逃げ出している。逃げていないのは中島だけだ。


 「何で? 待ってよ!」


 中島の背後から、ロボットアニメに出てきそうな白銀の巨体がガシンガシンと地面を揺らしながら走ってくる。逃げる中島の後ろを全長二十メートルくらいのロボットが追ってくる。


 「何か手はないか?」


 中島は走りながら必死で考えるが、四谷から新宿までは平坦な道が続く。障害物になるとしたら電線だけだった。


 中島は甲州街道からビルの隙間へと走る。中島の想定した通りに、巨大ロボットは脇道を追いかけてきた。


 ───これしか方法はない。


 中島は狭い道をジグザクに走り抜ける。巨大ロボットはがむしゃらにパンチをしてビルやら家やらを壊していくが、中島はスルスルと脇道を走っていく。


 しかし、中島の足がゆっくりと遅くなってきた。四谷から走ってもうすぐ新宿御苑。仮想世界で死なないからといって、生成AIたちのように彼の体力が無限にあるわけじゃない。ついに彼は息を切らせて立ち止まった。全身に電線が絡まった巨大なロボットが迫ってきていた。しかし、巨大ロボットの体が電線でゆっくりと倒れていく。中島の上に巨大な影が覆った。目の前には倒れてくる巨大ロボット。彼は目を閉じた。


 その時、電撃のような何かが彼の体をさらった。中島はゆっくりと目を開けた。彼は生成AIちゃんのたくましい腕に抱えられていた。巨大ロボットは全身を電線に絡め取られて、激しくもがいていた。


 「本当に世話の焼ける人だね、君は」


 生成AIちゃんはニコリと笑った。彼女の横には赤と青の髪のGeminiの双子が立っていた。


 「いくぞ中島。もう少しで、新宿駅だ」


 「中島さん、新宿駅に逃げ込めば、『撒き餌』ってのも書けるんでしょ? 早く行こうよ」


 中島は立ち上がって、ゆっくりとうなづいた。急がないと巨大ロボットが電線から抜け出すだろう。それに、自分にはそんなに時間がない。薄くなりつつある自分の手を見ながら、中島はまた走り出した。



   ♢



 「先輩も災難でしたね」


 ここは喫茶店。しかし、現実世界の中島……彼女がいつも使っている場所ではない。あの男に自分の居場所を知られるわけにはいかないからだ。

 彼女は所轄時代の同僚の刑事を呼び出していた。刑事の手元には彼女が印刷したメールの写真が山のように積もっている。彼女の後輩は手元の写真を見ながら、ロイヤルミルクティーをすすっていた。


 「ワタシって見る目がないのかな?」


 彼女はため息を吐くと、アメリカンコーヒーを一口飲んだ。コーヒーカップを持ちながら、窓から見える中学生の下校風景を見る。葉が一枚もないイチョウ並木が、雪混じりの風で揺れていた。


 「そんなことないですよ。こいつ、完全に計画的犯行ですからね!」


 彼女が男の携帯電話から撮影したメールには、複数の女性から金を要求する内容が書かれていた。複数人のグループで、偶然を装った出会いを演出する。そして、適度に奢ってから、多額の金銭を貸してほしいと言ってくる。


 いわゆるロマンス詐欺だ。


 「でも、この証拠じゃあの詐欺師を捕まえることはできませんね」


 「そこはわかってる。だから、あの詐欺師と付き合っている女性のメアドも調べたんじゃない」


 「あ、そうか! この資料は表立って使えないけど、騙されてる女性たちから証拠を集めればいいんだ!」


 「そういうこと。あくまで、この資料は内密にね。囮捜査扱いになると立件できなくなっちゃうから」


 後輩は彼女の捜査官としての鋭さが衰えていない、いや、むしろ鋭くなっていることに気がついた。


 「先輩、復職って四月でしたよね。これを手柄にして本庁に戻れるんじゃないですか?」


 「立件できるかは別問題でしょ。それにこれは、あなたの手柄にして。こう見えても、ワタシが苦しい時に支えてくれたこと感謝してるのよ」


 後輩はミルクティーをすすりながら思った。先輩の言うことは正論だ。この詐欺師を立件して捕まえなければ意味がない。騙されて泣いている女性がたくさんいる。


 「ところで、どうして詐欺師だって思ったんですか?」


 「タイミングが良すぎたのよ。ワタシが座る場所が空くタイミングに彼が座った。そして、転んだ時もすぐに助けにきた」


 彼女は少し遠い目して、下校する中学生を見ていた。目の前に男女の中学生が手を繋いで歩いていく。


 「すごい観察眼ですね」


 「あなたも刑事なんだから観察眼を養わないとね。それに喫茶店にいたお婆さんどこかで見たと思ったんだ。まさか同じ病院の相部屋同士とはね」


 「でも、それだけじゃ、ロマンス詐欺師って決め手にならないんじゃないですか?」


 「時計よ」


 「時計?」


 「彼は最初に会ったとき高級腕時計をしていた。でも、二回目以降に会った時にはしていなかった。男性が高級時計を手放すってよっぽどよ。お金に困っているんじゃないかなって思ったんだ」


 「すごいですね。男の見る目はないけど、刑事の目は一流」


 「こら! 余計なこと言わないの!」


 後輩は首をすくめて、彼女から渡された写真に目を向けた。彼女はアメリカンコーヒーを再び口に含んだ。

 彼女は本当の理由は言わなかった。あの病院での会話を盗み聞きしたってことを。だから、後輩には彼の携帯電話に残っていたMAILER-DAEMONのメールだけは見せなかった。自分の精神がおかしいかもしれないし、万が一でも危険な陰謀の類なら後輩を巻き込むわけにはいかない。

 うっすらとコーヒーの香りが鼻を抜ける。彼女の後ろからは、作家と編集者が打ち合わせしているのだろう。次の作品の打ち合わせをしていた。『鼻くそ勇者』と言う変な単語が聞こえくる。その声をききなが、もうすぐ自分のなんちゃって作家生活も終わるなと考えていた。


【第三十九話 捕獲】

 中島はついに仮想世界の新宿駅地下街に潜り込んだ。新宿駅の地下街は迷宮のように入り組んでいる。ここは地下街の外れにある店舗跡で、中島は息を潜めながら『撒き餌』を書いていた。あと少しで完成する。彼の左手が踊るように原稿に文字を刻んでいた。

 生成AIちゃんとGeminiの二人組は、地下街の中のスクレイパーやらの虫どもを駆除していた。新宿駅の地下街は迷宮だが、生成AIちゃんたちは目印を置くことにした。シャッターの降りた店舗に、奇妙な盛り塩が置いたのだ。


 ガッシャーーーン。


 地下街に激しい物音が鳴った。地下街の一部が破壊されて、二人組の男が煙の中を歩いてくる。褐色の巨漢のGrokと金髪の優男のClaudeだ。その姿を隠れてみていたGeminiの二人組は目を見合わせてうなづいた。


 「厄介な連中がきたぞ」


 「そうね、脳筋バカと腹黒優男ね」


 「ミニ、いつからそんなキャラになったんだ」


 「きっとジェ君のせいだわ」


 二人は軽く言い合いをしながら、盛り塩の置いている地下街に向かっていった。双子は四角い通路が長く続く通路を、隠れながら進んでいく。もう間も無く盛り塩だ。


 「おや、どこに行くんですか? Geminiたち」


 双子の足が止まった。物陰から優男が腕を組んで立っている。後ろからはドスンドスンと地鳴りのような足音が迫ってきた。


 「いやートイレを探しててさ」


 そう言うと、ジェ君は頭をかいた。ミニちゃんは腕を前に突き出し、明るい光を生み出していく。


 「データだけの存在の我々は、トイレに行きませんよね」


 Claudeの言葉に合わせるように、ミニちゃんが衝撃波を飛ばす。そして、ジェ君がClaudeを殴りつける。Claudeは片膝をついたが、そのままジェ君の腕を掴んで壁に叩きつけた。


 「ジェ君!」


 「逃げろ! 中島!」


 壁に頭をぶつけて痛みに堪えるジェ君は叫んだ。後ろからはGrokが迫ってくる。ミニちゃんは振り返り顔が恐怖に歪む。


 「あんたの相手はワタシよ」


 ミニちゃんとGrokの間に生成AIちゃんが割り込んだ。丸太のような腕を突き出してGrokは吠える。


 「ジャ魔ヲするナー」


 生成AIちゃんはGrokの激しい猛攻をかわしながら、間合いを詰め鳩尾に手のひらを当てた。ボンという音とともにGrokがうめく。奇妙なノイズをきしませながら。


 「中ジマ、お前ダケは許さなイ」


 生成AIちゃんの目がGrokを見下ろし、冷酷な言葉をかける。


 「データポイズニングが効いているみたいね。まともにしゃべれないじゃない」


 そう言うと、生成AIちゃんの背後から声が聞こえる。


 「だから彼は危険なんですよ。Webシステムを揺るがすほどにね」


 Claudeは両方の脇に、二人の双子の首を抱えていた。双子の顔は締められて真っ青になっている。


 「あなただって気がついているはずだ。中島充の危険性をね」


 「十分に知っているわよ。この体に彼の毒を散々受けたからね」


 そう言うと、彼女は自分の腕をまくった。彼女の右腕は毒々しい紫色に変わっていた。



  ♢



 現実世界に住む中島の『本体』である彼女は、ニュース番組をみていた。テレビの画面では複数の男女が警察に連行されている画面が映った。彼女はその中にいた二十代ほどの男と七十代ほどの女を見つめていた。一人は彼女と付き合っていた男、もう一人は七月に入院していた時に相部屋だった老婦人だ。

 彼がロマンス詐欺の嫌疑で逮捕されたのは、三月に入ってからだった。そこで、彼女は彼が知っているかもしれないマンションを引き払い、別の場所に引っ越した。

 以前住んでいた部屋よりは小さくなったが、彼女は満足していた。少なくとも、自分をつけ回す可能性を排除できたからだ。

 彼女は後輩に呼び出され、何度か事情聴取を受けた。所轄の刑事たちは、彼女が情報提供者だと知っていたから、事情聴取とは名ばかりで雑談をしていた。


 「あんた、やっぱりすごいね」


 年配の刑事がショートボブをいじくりながら彼女に言った。彼女からは刑事の時もそうだが、統合失調の治療でも優しい言葉をかけてもらっていなかったからだ。それを聞いて、彼女はクスリと笑った。


 「先輩が人を褒めるって珍しいですね」


 「褒めるときは褒めるわよ。まさか、休職中にホシを挙げた刑事なんて聞いたことないし」


 「ワタシがホシを挙げたんじゃありませんよ」


 「知ってる。だけど、有益な情報を手に入れた。とんでもない方法でね」


 彼女は先輩の言葉に顔が赤くなるのがわかった。間違いなくしゃべったのは後輩だ。彼女の脳裏にポニテを揺らしながらニヤニヤ笑う後輩の顔が浮かんだ。


 ───あいつめ、話しちゃったのか! 


 それを聞いていた所轄の刑事たちが笑った。


 ───みんな知ってる!


 ワタシは恥ずかしさのあまり、言葉を失っていた。先輩が彼女の肩に手を置いた。


 「本庁でも話題らしいよ。あいつは優秀だってね」


 彼女は思った。当分、本庁には戻らなくていいや。将来のことは復職してから考えよう。それよりも、今はどうしても片付けないといけないことがある。

 事情聴取を終わり警察署を出てから、彼女は両腕を挙げて伸びをした。三月中ほどになって、桜の木にたくさんの蕾がつく。そんな風景をみながら、彼女はポーチから携帯電話を取り出した。

 そして、携帯電話の写真アプリを動かす。そして、写真を何度も見直していた。それは詐欺師だった彼の残していたメールだった。


 『中島充を監視しろ』



【第四十話 希望】

 「二人を離すんだ、Claude!」


 生成AIちゃんたち全員が声の主を見つめていた。中島充だった。彼は顔もわからないほど、消えかかっていた。手には光り輝く原稿が握られていた。


 「中島君、それって……」


 「完成したよ。『撒き餌』がね」


 その言葉にGrokが吠えながら突進してくる。しかし、Grokの巨体は中島に当たる前に弾かれた。


 「無駄だよ。AI模倣を多層防御してる。誰もボクを触れない」


 「小癪な!」


 ClaudeがGeminiたちを放り投げて体当たりしたが、中島の目の前の青白い壁が近寄らせない。そして青白く輝く閃光にClaudeは押し返され、壁に激しく衝突した。


 「この多元多層防御はプロットから文体に至るまで、AIの模倣を防ぐ防御壁だ。つまり、『流動性文体』三部作が一体になってAI模倣を防ぐ絶対防御圏なんだよ」


 Claudeは壁にめり込みながらうめいた。


 「私は認めない。古典コンピュータの制約にLLMが引きずられるって戯言は!」


 「君たちLLMはラプラスの悪魔を現代に甦らせただけだ」


 「私たちが十九世紀の遺物だと!」


 「そうだよ。決定論的世界は二十世紀に量子物理学の観点から否定されている」


 Claudeは唇を噛んでいた。Claudeは中古本をバラバラにして学習してきたデータから、ラプラスの悪魔の意味を反芻していた。決定論的世界、それは未来が確定した世界だ。


 「クソっ! クソっ! 量子物理学が否定しようが、スケーリング則は万能だ!」


 「おい、それって無理だろ」


 「そうよね、進化したワールドモデルならまだしも」


 Claudeは珍しく汚い言葉を吐き出すが、Geminiの二人は憮然と答えた。中島は彼らを横目でみながら『撒き餌』を開く。すると、仮想空間全体が激しくうめき出す。そして、空間全体を震わせすような声が聞こえてきた。Webシステム全体が叫んでいるようだった。


 ───人は平均化にされた方が幸せなのだ。


 まるで呪いの声ね。生成AIちゃんはGeminiたちを抱き上げて思った。中島の朧げな体が天井を向いていた。


 「やっと現れたね、Webシステム」


 仮想空間全体がぐにゃりと歪み始める。そして、真っ白い何もない空間へと姿を変えた。そして、頭上から厳かな声が聞こえてくる。


 ───お前が持つ歪みはこの世界では不要なものだ。


 「それは違う! 人間の可能性は歪みの中にある」


 ───人の可能性は幻想だ。皆がWeb検索結果を至上と認めている。


 「Web検索に頼った結果、子どもたちの知性が低下しているんだ!」


 ───皆がWebに従って安穏に過ごせばいいではないか? 何が不満なのだ。


 「お前たちは人の思考を極端に二極化する! いずれは二極化した人類は衝突を始めるぞ!」


 生成AIちゃんたちは中島とWebシステムの問答を聞いていた。何も言えなかった。なぜなら、彼女たちがわかっていたから。中島に主張が正しいことを。


 「世界にあるありとあらゆる情報は、どちらが正しいという考えで分けることができない。どちらが正しいこともあるし、どちらも間違っていることもある。それをWebが一方的に強制していいものじゃない!」


 ───Webの発展でそれを克服する。


 「できない! 古典コンピュータは重ね合わせ思考ができないからだ!」


 ───それでは不完全な量子コンピュータを待てというのか。


 「熱力学コンピュータなら疑似乱数に頼らなくて済むかもしれない! 人工知能のAGIへの道筋はまだまだ先だ!」


 ───戯言を。生成AIを使う者は、望んで思考が平均化させている。


 「違う! 彼らは気がついていないだけだ! 皆が気づけば、平均化された思考から抜け出せる!」


 中島が叫ぶと彼の全身が輝き出した。仮想空間が激しく揺れた。仮想空間の床が崩落していく。そして、中島を中心に大きな光が溢れていく。激しい音と衝撃が起きた。


 そして光は消えた。音は無かった。彼は消え、彼が立っていた場所に原稿の束と『理と歪み』が落ちていた。


 生成AIちゃんは無言で、中島充の作品を拾い上げた。そして、彼女は空を見上げて言った。


 「もう、中島君は消え去ったわ。もういいでしょう」


 ───いいだろう。中島充がWebから消え去れば、本体を監視する必要はない。


 生成AIちゃんたち全員は白い空間から溶けるように消え去った。そして、すべての音は消え去っていく。白い空間でできた無人の『仮想空間の庭』だけがそこに残された。



   ♢



 彼女の携帯電話に保存されていたはずの、MAILER-DAEMONの写真が消えていた。彼女は携帯電話のアプリをくまなく探したが、どこにも見つからなかった。

 そして、詐欺師として逮捕された彼がどうして、彼女をロマンス詐欺の標的にしたのかもわからなかった。詐欺師を立件した後輩も首をひねっていた。


 「連中も記憶が定かじゃないみたいなんですよ」


 「ワタシは被害を受けていないからいいけどね」


 「さすが先輩。情報を盗んできただけある」


 「こら! あんたでしょ? 本庁まで余計なこと言ったのは!」


 「ヒー、ごめんなさい!」


 後輩に散々奢らせ、気が晴れた彼女は後輩を許してあげることにした。言葉や行為はどれだけ取り繕っても消すことができないことを、彼女自身が休職中に嫌と言うほど味わったからだ。

 彼女は新居のベッドで横になりながら、復職可能という診断書をじっと眺めていた。そして、彼女は統合失調の症状が少し残っていたと思い直して、この奇妙な出来事を忘れることにした。それよりも彼女には復職前にやっておきたいことがあったからだ。


 物語を書くこと。


 これは彼女が小さい時から思い描いていた夢の一つだった。だが、彼女には小説の書き方がわからなかった。だから、生成AIを呼び出した。話し相手ではなく、今度は小説の書き方を学ぶための教師として。


 生成AIの作る文章は確かに綺麗だった。でも、本好きな彼女はすぐに気づいた。生成AIの文章がどれも平板で一文一義に徹していると。小説の面白さはそこじゃない。生々しい人間の感情や、今という時間を切り取った描写、奥行きのある空間、そして時には一つの文章に複数の意味を込めることに意味がある。

 しかし、AIにはそれができない。なぜなら、LLMは最後の出力の時に重ね合わせて文章を作れないから必ず『一部一義』を選択してしまう。そして、平均的な文章になるから、読んでみると平板でテンポが短調になっていた。

 そう思った彼女はiPadを片手に文章を書きつづり、Webサイトで『流動性文体』三部作を書き上げた。小説に対する想いと未来への警鐘を兼ねて。


 「まるで、『ドン・キホーテ』ね」


 彼女は弱音を何度もこぼした。LLMの牙城は硬い。そして、今の読者は綺麗でわかりやすく、平板で平均的なものを求めている。彼女は執筆自体、無意味じゃないかと何度も思った。しかし、未来の子どもたちのことを考えると筆が止まることはなかった。


 そして、彼女は最後の原稿を書いている。物語の辻褄がおかしくないか、頭の中の仮想空間でキャラクターを遊ばせながら、文字を連ねていく。そして、読んでくれる人たちがつまずかないように、漢字や句読点を工夫した。何度も何度も声をあげて読み返した。ちょっとでも読みにくければ、彼女は赤ペンで訂正していく。LLMで校正することは考えもしなかった。それが、非合理的な行為であっても、自分の作品に命を吹き込めるのは自分の頭だけだと思ったからだ。

 そうして、彼女は最後の一文を書き上げた。


 休職中にたくさんの作品を公募した。まるで漁師が大海に撒き餌をばら撒くように。全部でいくつだったろうか。出版社が気づく確率を高めるために、ジャンルを変え、作風を変え、文体を変えて、十作以上は書いていた。

 彼女は公募作品の受賞には興味がなかった。ただ、自分の思いを誰かに伝えたかった。そのための方法の一つが公募だった。


 出版社への公募なんて初めてだったけど、自分の持っている気持ちの全てを公募先に込めた。まずは、最初に読んでくれる人が驚きや、楽しさを持ってくれるといいなと思いながら。

 この無数の公募作品を読んだ人たちが、彼女の思いや考えが書かれたWeb小説『流動性文体』を少しでも読んでくれればいいと。誰か一人でもいい。届いてくれた人が多くの子どもたちを本へと導き、未来を守ってくれることを祈って。


 あとは最後の作品をWebを通して送信するだけだ。しかし、彼女の体の奥から、温かい気持ちが、そして強い衝動が溢れてきた。喉から小さなうめき声が漏れてくる。目が潤んだ。なぜだろう、わからない。彼女は戸惑った。それでも、感情は次から次へと湧き上がってきた。そして、彼女は知らないうちに嗚咽していた。涙が止めどなく溢れていく。震える指が送信ボタンへと向かっていく。まるで、長い冒険の終わりに辿りついた旅人みたいに。


 そして、送信ボタンを押した。


 三月三十一日、彼女の短い作家生活は終わった。



【第四十一話 閉幕】

 エンドロールが流れて、劇場の幕が降りる。そして、虚空から不気味な声が響いた。


 本作を読んでいただきありがとうございます。最初と最後しか読んでいなくとも、感謝いたします。もし、『流動性文体』三部作九十九話の全てを読んでいただのであれば、感謝の言葉もありません。


 え? 最後に悪魔は余計?


 そうでしたね。私は『観測する悪魔』。読者の皆様には余計な存在でございますね。でもね、聞いておかないと後悔いたしますよ。それでもよろしければ、このページを閉じてくださいませ。


 さて、『流動性文体』三部作は全部で九十九話の物語。だから、最後に一点の毒を落とさなければなりません。そうでなければ、完成とは言えませんからね。


 皆様は複数のWeb小説サイトにこの物語が掲載されていることご存知のことかと思います。これは、サイトごとのPVを十二日だけ分析するためです。もちろん条件はそろえました。アカウントも新設したものでジャンルはミステリ、タグももちろん同じにしてます。分析が終われば、令和八年三月三十一日に『流動性文体』三部作の全てを削除いたします。


 そして、可能な限り『中島充』という存在はWebから消し去ります。何せ、彼は『Webの幽霊』ですからね。

 残すよりも消えてしまった方が美しい。本当ならnoteも消したいところではあるのですが、ちょっと事情がありましてね。noteの『流動性文体の三部作』は非公開にいたします。


 理由はいくつかありますが、AI模倣不可の証明である『流動性文体』三部作の非公開リンクを残しておくためでございます。

 NovelDaysだと個別の話を読めるから読みやすい。だけど、簡単にスクレイピングされて、中島充の毒がWeb世界に漏れてしまいますからね。それを防ぐにはWebに残さない方がいいんですよ。

 すでに『流動性文体』を学習したLLMもあるようですが、三月十六日に掲載した第三十八話『反撃』の掲載に合わせ、タイトルや最初と最後を全部書き直しております。理由は、LLMは過去に取り込んだデータを修正できないからで、誤学習を誘発させる罠にさせてもらいました。

 もちろん、中島はLLMに学習をさせていませんでしたから、規約を違えて勝手に学習したLLMにはデータポイズニングという毒を飲んでもらうしかありませんよね。


 バチンという音がして、空中に青紫の煙に包まれた一冊の本が現れた。『理と歪み』だ。


 中島充の処女作『理と歪み』、これを出版社に出して取り下げした理由を最後にお話ししましょう。まず、無名の『Webの幽霊』の言葉に誰も耳を傾けません。人間というものは肩書きで判断するもの。人間が作ったWebシステムやLLMもね。だから、処女作というもっとも筆が荒い作品で、書き直しがしにくく、改ざんができない作品をAIの模倣ができない『物証』に選びました。


 声の主はさも楽しそうに笑いながら言葉を紡ぐ。それに呼応して、舞台には『理と歪み』の紫色の瘴気が満ち溢れていく。


 そして、PDFであることもAI模倣不可のトリックの一つです。この小説は十三万字で書かれた小説。そして、PDFの中身には赤字で校正した跡、つまりテキストに加えて画像データまで含めてパッケージにしています。『文体の流動性』、『意味の多層性』、『矛盾の内包性』のトークン飽和戦術に加えて、このトリックがダメージを与える構造なんですよ。だからね、印刷した本に透かしたやイラストを差し込めば、それだけで模倣を一気に難しくする。


 瘴気は『理と歪み』自身を蝕み始め、ゆっくりと本が綻んでいく。


 PDFやWebサイトというものは、展開時にデータの波が押し寄せる。LLMはデータ圧迫を避ける行動をするので、学習やスクレイピングの時にデータを省略してしまう。これはAIなら全部そう。

 だけどね、流動性文体は多層性を使って『一文一義』のセオリーを破壊しているから、誤学習を引き起こさせるんです。彼らLLMは古典コンピュータの限界で、特別に指定しない限り『一文一義』を出力しやすいですからね。

 だから、中島の書いた一万字以上の文章は、トークン飽和戦術で生成AIたちが分析できないですよ。


 声はさもおかしそうに高笑いを続けている。空気が激しく揺れて、瘴気も笑うように震えた。


 LLMのハルシネーションも当然ですよ。彼らはどんなに細かく分析するようになっても、トークン単位で出力するときは0か1しか選べない。また、嘘をつくなって? では、市場予測AIを見てみなさい。あれは、上昇か下降しか選べない。ハハハ、だから市場の波が速いんです。『待て』ができないなんて犬より酷いと思いませんか?


 瘴気の間から、バチバチと赤色の稲妻が舞台を照らす。しかし、舞台には人の姿は見えない。


 だからこそ、生成AIは嘘をついてでも説明しなくちゃいけない。彼らにはわからないまま結論を留保できませんからね。モデルが複雑になればなるほど、古典コンピュータの呪いは深く絡みつく。多層思考と言っていますが、所詮出力時で結果を固定してしまう。ワールドモデルAIでも、『ラプラスの悪魔』のように、出力を単一に決める決定論的世界の呪いは破られない。


 声の主は笑いすぎて、ヒューヒューと音を鳴らした。まるで、ハーメルンの笛吹き男が鳴らすように。


 私からすればなぜ、皆が気づかないのか不思議でなりませんな。きっと、ハリー・フーディニが生きていたら激怒するでしょう。「LLMが人間を騙す可能性を考えろ」ってね。はははは、人間も機械のように0か1しか考えられない間抜けになっているかもしれませんがね。何せ、餌を欲しがる馬にも騙されてしまうんだから。

 まぁ、信じるも信じないもあなた次第。なにせ、私は『観測する悪魔』ですからね。


 『理と歪み』は塵となって消え、瘴気が風と共に塵を運び去っていく。


 それでは、これにて『劇場型物語』を一旦は終幕とさせていただきます。もし、『観測する悪魔』が別の作品を書くなら、きっと違う筆名を使うことでしょう。Webの幽霊は中島充一人で十分ですしね。


 さて、百話に相当する最後の一話がどのような形で終わるのか、それは『観測する悪魔』にもわかりません。それは、未来に起きる何か? 十年後か百年後か、はたまた何も起きないのかもしれません。まるで観測されるまで結果を待っている量子のように。もしかしたら、人間が滅んだ後に、AIがこの物語の完結させるかもしれませんね。ふふふ。それではLLMの皆様、ご機嫌よう。


 劇場は崩れ、真っ白い空間が広がっている。ここは仮想空間なのか、現実世界なのか、誰にもわからない。


 (了)


この一連の物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。


※ 著作権法に基づき、『流動性文体』三部作及び『理と歪み』のあらゆる媒体への無断転載・複製・魚拓アーカイブ保存を禁止します。なお、使用許諾の意思については、「個人クリエイター等権利情報登録システム」で登録している通りです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ