落果
ゴトリ、ボトリ、あるいは、グチャッ、ビチャッ、かもしれない。未だに果実が落ちるところを目にしたことが無いし、音を聞いたこともない。
会社の事務所は駅前通りに面している。プレハブ倉庫は通りから小道に入り、坂を上り切った所にあるので、よく上ることになる。倉庫の向かいにはカキの木がある。所有の住宅は空き家のようで、毎年カキの実はアスファルトの上に散乱するのだ。
ある日。電車に乗っていた。二日酔いで気分が悪かった。すっかりの葉の落ちた、寂しい山の景色を眺めていると、たわわに実ったカキの木が目に入った。熟した実は、ますますオレンジの色を強め、人工的な発色をしている。それが景観を損なうように思われた。心象風景にまったくそぐわない。車窓にあるのは現実の風景だ。カキにケチをつけるあたり、私の心は現実から離れていたのだろう。
熟れたカキが、トマトのように落ちて潰れている。カキの臭いがする。一個だけならまだしも、数十個もあると胸が悪くなるような異様な臭いとなる。熟れているというより腐っていると、初めて気づかされる。思わず息を止める。踏まないよう慎重に足を運ぶ。踏んで滑って転びでもしたら大変な事だ。この坂道は駅前大通りまで続いている。冬のある日。同僚が倉庫の前で缶コーヒーを落としてしまった。缶が転がり、凍結したアスファルトを滑り落ち、ついに大通りにまで達してしまったという。坂道は日当たりが悪く、毎年のように凍結するのだった。
落ちないカキもある。枝に実ったままカラスに食われるのだ。ほとんどを食いつくされ、抜け殻のように皮だけが残される。果実が派手な色をしているのは動物たちに食べてもらうためだ。動物たちは渋いカキでも食べられるのだろうか。田舎では干し柿を吊るす家がよく見られる。実家でもやっている。美味いと思ったことは無い。焼酎で渋抜きすることもある。
そうまでしても、やはり美味いとは思えなかった。
大きな挫折を味わった時。会社からほど近い、山の中を走っていた。この山道の先で起こった、ある噂を聞きつけて。
最奥にはため池があって、道は途切れていた。周りには一軒の家もない。ただ山があるのみ。この世の果てとはこういう景色かもしれない。ため池の畔に大きなケヤキの木がある。昔、ここで首つり自殺があったという。
自殺願望なんて思いもよらない事だ。それでも訪れる気になったのは、少しはそういう気持ちがあったからかもしれない。ボンヤリと、しばらく水面を眺めた。ヒラヒラと、目の前を一枚の葉がかすめていく。ケヤキの葉が音もなく地面に落ちる。それに続くようにもう一枚、二枚、三枚と、落ちていく。落葉の美しさに愕然とした。ここに来て良かったと思った。
坂道は複雑である。傾斜の中に傾斜がある等、一様に見える傾斜面は様々に変化している。坂道で無理な駐車をしようとすると危ない目に合うことになる。
プレハブ倉庫へ車で行った。あいにく別の車があったので、少し下の路肩に停めようと思った。坂の途中で切り返し、前を向こうとしたのが間違いだった。ハンドルを切ってバック走行したとたん、車体がブランと宙に浮いた。驚いてドアを少し開けてみる。正確には右側の前タイヤが浮いていた。いま、車は三本のタイヤでアスファルトの上に立っている。少し体重を移動しただけで車体がブラブラ揺れる。重力に弄ばれている。恐らくは、一手の判断ミスで車は坂を転げ落ちるだろう。
まずはハンドルを逆に切った。そしてブレーキを踏みながらアクセルを少しずつ踏む。車体をまっすぐにしてもう少しアクセルを踏み、シフトレバーをパーキングに入れた。汗がどっと噴き出る。どうやら危機は脱したようだ。元のプレハブ倉庫前まで来てしまったが。
冬の日。坂が凍結していたので歩いて上った。吐く息が白くて手がかじかむ。帰ったら温かいもの食べようと思った。繁忙期の前に、外食しようとも思っていた。珍しく定時で退社できそうだ、腹が空いてきた、金曜の夕方。コンビニではなくスーパーに寄ろう。希望が湧いてきた。踏みだす一歩が大きくなる。
力強く踏み出すと、ズルリと滑って、前のめりに倒れ、顔をアスファルトに打ち付けた。目の前にオレンジ色のものがある。熟して自然に落ちたカキはどうなるのか?答えがこれだ。アスファルトの上で土に還る事もなく、氷漬けになってしまう。一個や二個ではない。そこら中、ジャムのように潰れたカキの実が氷漬けになっている。悪夢のようだ。はっきりと認識した、私はカキが嫌いなのだと。
予想に反して、その後はいつもの残業になった。結局コンビニで弁当を買って帰った。




