いせてん~異世界演出部ですが、転生者がバカすぎて現地フォローしてきました~
いせてん~異世界演出部ですが、転生者がバカすぎて現地フォローしてきました~前書きはじめまして、または、いつもお読みいただきありがとうございます。
この作品を手に取ってくださり、本当にありがとうございます。
突然ですが、皆さんは異世界転生ものを読んでいて、こんなことを思ったことはありませんか?
「なんでこんなに都合よくイベントが起きるんだろう?」
「主人公、なんでそんなにモテるの?」
「この密室トリック、明らかに某有名ミステリーのオマージュなのに、誰も気づかないの?」
私はあります。
たくさんあります。
そして、ある日ふと思ったんです。
「もしかして、異世界の裏側に、これらのイベントを企画してる部署があるんじゃないか?」
そこから生まれたのが、この『いせてん』です。
異世界演出部という架空の会社で働く田村麻衣。彼女は10年のキャリアを持つベテラン企画担当です。日々、転生者のために物語を企画し、イベントを実行し、ドラマチックな展開を演出しています。
でも、彼女の仕事は順風満帆ではありません。
クライアントのゴブリンは嫌がらせばかりしてくるし、
女神は無茶振りばかりだし、何より転生者が予想外の行動ばかりするんです。
特に本編の綾辻あやと。
密室殺人事件の犯人は誰が見ても明らかなのに、「怨霊の仕業だ!」と言い張る始末。
しかも、『世界の可愛い女は全員オレに惚れる』というチートスキル持ちで、
田村を現地フォローに行かせたら、彼女自身がそのスキルに翻弄されてしまう......。
この作品は、そんな「異世界転生ものの裏側」を描いたコメディです。
いわゆる「裏方もの」「お仕事もの」が好きな方。
異世界転生ものをたくさん読んできた方。
ミステリーやラノベのお約束に詳しい方。
そして、何より「頑張る社会人」を応援したい方。
そんな皆さんに楽しんでいただけたら嬉しいです。
田村麻衣は完璧な社会人ではありません。理不尽な状況に左目をピクピクさせ、
無茶振りに「はぁ......」と溜息をつき、
それでも営業スマイルを崩さずに仕事をこなします。
たまには「わーーーー!」と叫びながら逃げ出すこともあります。
でも、彼女は諦めません。
自分が作った企画を、何としてでも成功させようとします。
そんな彼女の奮闘を、笑いながら、時には応援しながら、読んでいただけたら幸いです。
この作品は、既存の異世界転生ものへのリスペクトと、少しだけのツッコミを込めて書きました。
「あるある!」と思っていただける部分もあれば、「そういう見方もあるのか」と
新鮮に感じていただける部分もあるかもしれません。
各章は基本的に一話完結型になっていますので、お気軽にお読みいただけます。
ただ、田村麻衣の心境の変化は少しずつ描いていく予定ですので、順番に読んでいただけると、
より楽しめるかと思います。
それでは、異世界演出部・田村麻衣の日常へ、ようこそ。
彼女と一緒に、転生者たちの奮闘(?)を見守っていきましょう。
どうぞ、最後までお付き合いください。
第1章 異世界演出部・田村麻衣の憂鬱
パンッ!
何かが弾けるような音がした。
机の上の魔法クリスタルから紫色の煙がもくもくと立ち上っている。
硫黄のような刺激臭が鼻をつく。
「......あー、また爆発した」
ここで送信していた企画書のデータが全部消えたことに気付く。
異世界演出部の田村麻衣は深い溜息をついた。
「田村さーん、クライアント来てますよー」
受付の鈴木が声をかけてくる。
来客用の応接エリアを見ると、緑色の小さな人影がちょこんと椅子に座っていた。
ゴブリンだ。
湿った泥と腐った木の匂いが漂ってくる。
応接テーブルに向かう途中、ズリュリと粘つく感触が足に絡まった。
見下ろすと、ゴブリンが足元に唾液まみれの糸を張っている。
糸が靴に張り付いて、ペタペタと嫌な音を立てる。
「キシシシ、オンナ、アシ、ベタベタ」
乾いた枝が折れるような笑い声だった。
「お疲れ様です、本日はご足労いただき―――」
「キシシシ、ニンゲン、コロシタイ」
定型挨拶は完全に無視された。
「ありがとうございます。それでは今回のご要望を―――」
田村は魔法ペンを取り出し、ヒアリングシートを準備する。
その時、ペンの先端がチクリと指に刺さった。
小さな針が仕込まれている。
「キシシシ、イタイ?イタイ?」
「いえいえ、全然痛くないです」
田村は別のペンを取り出す。
でも指先から一滴の血がポタリと落ちた。
「キシシシ、アカイ、キレイ」
ゴブリンが血を見つめて恍惚とした表情を浮かべる。
「具体的にはどのような内容でしょうか?」
「キシシシ、オレ、イド、ドク、イレル。ミンナ、クルシンデ、シヌ、ミタイ」
田村はペンを止めた。
「それだけですか?」
「キシシシ、ソレダケ?」
その時、ゴブリンがズルズルと鼻をすすった。
緑色の鼻水が田村の書類にポタリと落ちる。
書類にじわりと染みが広がった。
田村の左眼がピクリと動く。
「毒でじわじわ苦しむのって、観客の感情移入が難しいんですよ」
田村は汚れた書類をさりげなく別の書類で隠す。
「それより爆発とか、一瞬で恐怖のどん底に叩き落とす方がドラマチックじゃないですか?」
「キシシシ、バクハツ!」
興奮のあまり、ゴブリンがバンバンと机を叩く。
その拍子にテーブルの上の水差しがガシャンと倒れた。
冷たい水が田村の資料に勢いよく広がっていく。
「あら」
田村の笑顔が氷のように固まった。
「キシシシ、ビチョビチョ、ツメタイ?」
「デモ、ドク、ナガク、クルシム。イタイイタイ、キモチイイ」
説明している間に、ゴブリンがベリベリと椅子の脚を齧り始めた。
木の繊維が裂ける音が耳障りに響く。
ガリガリ、ベリベリ、ミシミシ。
田村の左眼がピクピクと痙攣した。
「キシシシ, バクハツ、イッシュン、オワル。クルシム、ジカン、ミジカイ」
齧りかすがパラパラと田村の髪に降りかかる。
木の粉が頭皮にザラザラと触れて痒い。
「そこはですね、段階的爆破プランというのがありまして」
田村の声が少しだけ高くなっている。
「キシシシ、ダンカイテキ?」
ゴブリンが首をかしげた拍子に、さらに木くずがバラバラと舞い散った。
田村の右眼も痙攣し始める。
「最初に小さな爆発で恐怖を煽り、次に中規模で絶望感を演出、最後に大爆発でクライマックス」
「キシシシ、オオオ!」
ゴブリンが手を叩いて飛び跳ねる。
その勢いで田村のコーヒーカップもガチャンと倒れた。
茶色い液体が資料にジワジワと染み込んでいく。
コーヒーの苦い匂いが鼻につく。
田村の営業スマイルが石膏のように固まった。
感動のあまり、ゴブリンがズルズルと鼻をすすり、田村の袖でグイグイと鼻水を拭いた。
袖に粘つく感触が残る。
「キシシシ、オンナ、カオ、ピクピク」
ゴブリンが嬉しそうに田村の顔を見上げている。
「概算の御見積もりですが......」
田村は震える手で魔法計算機をパチパチと叩く。
ボタンを押す音が少し大きい。
「500ゴールドになります」
「キシシシ、ヤス!」
立ち上がった瞬間、ゴブリンが椅子からドスンと飛び降りて田村の足をグリグリと踏んだ。
わざとだった。
「っ......!」
田村が小さく声を漏らす。
「キシシシ、イタイ?イタイ?オンナ、カオ、アカイ」
転移ゲートに向かいながら、田村は髪に付いた木くずをパラパラと払った。
営業スマイルを崩すことなく。
でも握りこぶしがプルプルと微かに震えていた。
また誰かの物語が始まる。
今日もまた、長い一日になりそうだった。
第2章 密室と転生者とご都合スキル
「田村ちゃん♪」
甘ったるい声が水晶玉から響いてくる。
女神だった。
また始まった。
「最近この世界、平和すぎて退屈なのよねー」
「承知いたしました」
田村は魔法ペンを取り出す。
「暗殺3件、テロ2件、貴族の屋敷爆破1件でよろしいでしょうか」
「えー、もっと派手に♪」
また無茶振りだった。
「では国宝盗難と四天王の暗躍も追加いたします」
「いいわね!ワクワクしちゃう♪」
水晶玉の中で女神がクルクルと回っている。
田村は企画書のテンプレートを開いた。
カタカタと魔法文字盤を叩く。
『暗殺案件No.2847:大臣、毒殺、犯人は側近、動機は野心』
『テロ案件No.1523:港湾爆破、犯人は地下組織、目的は武器密輸の隠蔽』
『国宝盗難No.0891:王家の秘宝、犯人は怪盗、実は王族の隠し子』
淡々と入力していく。
もう何も感じなかった。
「四天王はどんな感じがいいかしら♪」
「氷の四天王が王都を襲撃、実は洗脳されていた、真の黒幕は宮廷魔術師で―――」
「完璧!さすが田村ちゃん!」
女神との定例会議が終わる。
いつものことだった。
田村は次々と企画書を作成していく。
一件あたり平均15分。
10年の経験が生み出す効率だった。
カタカタカタ。
貴族の屋敷爆破。
国宝盗難。
四天王の暗躍。
全部同じに見えてきた。
ピピピピピ!
緊急通知の警告音が鳴り響いた。
田村の手が止まる。
赤い光が明滅している。
こんな警告は久しぶりだった。
『緊急:案件No.5234「お貴族さま密室殺人事件」進行不良』
『転生者の推理失敗率:100%』
『事件迷宮入りの可能性:95%』
『連動イベント崩壊危機:最大』
田村の表情が変わった。
「......あれが?」
あの事件だった。
3ヶ月かけて練りに練った企画。
密室殺人事件の解決をトリガーに、恋愛イベント、王宮陰謀編、魔法学院編へと連鎖する大型企画。
すべてが有機的に繋がる、完璧な設計。
田村の自信作だった。
慌てて監視用水晶玉を起動する。
現地の映像が映し出された。
貴族の屋敷。
密室の書斎。
死体は椅子に座ったまま、胸に12箇所の刺し傷。
そして転生者。
日本から来た高校生、綾辻あやと。
「うーん......」
転生者が首を傾げている。
「密室だし、ドアも窓も閉まってたし......」
そこまではいい。
「つまり自殺だな!」
「違うから!」
田村は思わず叫んだ。
「12箇所も刺して自殺とか無理でしょ―――」
「そう!そこに気づけ!」
でも転生者には聞こえない。
ただの監視映像だ。
「あ、でも待てよ。もしかして......怨霊?」
転生者が別の方向に行き始めた。
「そっちじゃない!」
田村は頭を抱えた。
水晶玉の中で執事のピエロが話しかける。
「綾辻様、しかし被害者は過去に誘拐事件で―――」
「うん、だから恨まれて怨霊に呪われたんでしょ」
「聞けよ!」
家庭教師のマリーが証言する。
「あの、刺し傷の深さがバラバラで―――」
「怨霊って力加減できるのかな」
「できるか!」
医師のコンスタンが診断書を見せる。
「まるで複数の人物が順番に―――」
「複数の怨霊?」
「違う!」
田村は水晶玉に向かって頭を掻きむしった。
「全員名前もじってあるし!」
ピエロ執事、マリー、コンスタン医師、ドラゴノフ公爵夫人、ブック氏、ヘクタさん。
「犯人の構図なんかモロそのまんまでしょうがあー!」
全員が少しずつ刺した。
みんなで犯人。
オリエント急行方式。
「あんたは、アガサ〇リスティーも綾辻〇人も読んだことないんかい!」
転生者は相変わらず「怨霊説」でメモを取っている。
「名前も似てるだろ、興味もて!」
綾辻あやと。
「動画で満足して、自分の頭で考えないから!」
田村の叫びは虚しく事務所に響く。
転生者は既に「怨霊退治の準備」を始めていた。
「......現地フォローに行くしかない」
田村は立ち上がった。
転移申請書を書く。
手が震えている。
10年間で初めてだった。
自分が作った企画が、こんなにも......
転移ゲートに向かう。
魔法陣が光り始める。
「絶対に成功させる」
光に包まれる。
次の瞬間、田村は貴族屋敷の廊下に立っていた。
大理石の冷たい感触。
壁に飾られた絵画の油の匂い。
遠くでメイドたちの足音。
田村はメイド風の服装に変装していた。
黒と白のクラシックなメイド服。
レースのエプロンとカチューシャ。
「よし、まずは転生者に証拠を―――」
その時だった。
「あれ?君、見ない顔だね」
振り返ると、転生者の綾辻あやとが立っていた。
「新しく雇われたメイドです」
田村は営業スマイルを浮かべる。
「へえ......」
転生者がじっと田村を見つめる。
その瞬間。
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
「......え?」
頬が熱くなる。
手のひらに汗がにじむ。
転生者の顔が妙に......輝いて見える。
違う。
これは違う。
「君、メイド服すごく似合うね。可愛いよ」
転生者が笑顔で近づいてくる。
ドクン、ドクン。
「い、いえ、そんなことは―――」
田村の声が上ずった。
スキルだった。
『世界の可愛い女は全員オレに惚れる』
資料で見たあのスキル。
「ちょ、ちょっと失礼します!」
田村は慌てて踵を返した。
「あ、待って―――」
逃げるように使用人用階段を駆け下りる。
厨房の横の小部屋に飛び込んで、ドアを閉めた。
「はあ、はあ......」
壁に背中を預けて深呼吸。
心臓がまだバクバクしている。
まずい。
このままじゃ事件どころじゃない。
でも企画は成功させなきゃいけない。
この事件が解決しないと、後続のイベントが全部崩壊する。
どうする。
どうすればいい。
「......直接会わずに誘導するしかない」
田村は震える手で魔法通信機を取り出した。
いや、待て。
通信機は使えない。
異世界演出部の介入がバレる。
「登場人物を使うしかない」
田村は深く息を吐いた。
営業スマイルを作る。
そうだ。
この人たちは自分が作ったキャラクター。
ならば彼らを動かせばいい。
ドアを開けて廊下を歩く。
メイド服のスカートが揺れる。
まずはピエロ執事を探さなければ。
「あら、新しいメイドさん?」
声をかけられた。
振り返ると、ドラゴノフ公爵夫人が立っていた。
「は、はい」
「まあ、そのメイド服とてもお似合いですわよ」
公爵夫人は優しい目で田村を見ている。
登場人物だった。
自分が作ったキャラクター。
「ありがとうございます」
田村は営業スマイルを浮かべた。
「公爵夫人、一つお願いがあるのですが」
「何かしら?」
「あの転生者様、推理が少し......個性的で」
公爵夫人がくすりと笑った。
「怨霊説のことね」
「はい。もし差し支えなければ、被害者の過去についてもう一度詳しく―――」
「お話しすればいいのね」
公爵夫人は理解してくれた。
「他の方々にも協力していただけますか?」
「もちろんですわ」
田村は少しだけ安心した。
営業スマイルから、少しだけ本物の笑顔になった。
作戦開始だ。
転生者には近づかない。
登場人物たちに情報を語らせる。
そして最後に、みんなで犯人だと気づかせる。
田村はメイド服の裾を翻して、次の部屋へと向かった。
自分が作った企画を、何としてでも成功させるために。
第3章 推理と誘導とメイドの奮闘
田村は使用人用の小部屋で深呼吸をしていた。
「よし......作戦を立てよう」
まず証拠品の配置。
ハンカチを目立つ場所に。
ボタンを拾いやすい位置に。
手紙の焼け残りを暖炉から少し引っ張り出す。
「それから、登場人物たちに質問させて......」
でも問題があった。
あやとに近づかなければならない。
あのスキル。
『世界の可愛い女は全員オレに惚れる』
田村は頬を両手で叩いた。
「大丈夫!プロよ、私は!10年のキャリアがあるんだから!」
営業スマイルを作る。
よし。
部屋を出て、書斎へと向かう。
「うーん、やっぱり怨霊だよなあ」
あやとが一人でブツブツ呟いている。
田村は壁に張り付くようにして様子を伺う。
今がチャンスだ。
スッと書斎に入る。
あやとは窓の外を見ている。
床に落ちているハンカチを拾い上げる。
これを机の上の目立つ場所に――――
「あ、メイドさん」
振り返るとあやとが立っていた。
至近距離。
ドクン。
「ひゃっ!」
田村は思わずハンカチを放り投げた。
「どうしたの?」
あやとが心配そうに近づいてくる。
ドクン、ドクン。
「わーーーーーーー!」
田村は叫びながら書斎を飛び出した。
廊下を全力疾走。
使用人用の階段を駆け下りる。
小部屋に飛び込んでドアを閉める。
「はぁ、はぁ、はぁ......」
壁に背中を預けて荒い息。
顔が熱い。
真っ赤になっている。
心臓が破裂しそう。
「ダメダメダメダメ!」
頬を両手で叩く。
「仕事!これは仕事なの!」
深呼吸。
一回。
二回。
三回。
「よし......もう一回」
営業スマイルを作る。
震える足で立ち上がる。
再び書斎へ。
あやとは相変わらず首を傾げている。
「怨霊......怨霊......」
田村は壁の影から様子を伺う。
ハンカチは床に落ちたまま。
机の上には置けなかった。
「......別の方法で」
田村はそっと書斎に入る。
あやとは窓の外を見ている。
床のハンカチを、あやとの足元にそっと蹴る。
ゴロゴロと転がっていく。
「ん?」
あやとが気づいた。
よし!
「あ、メイドさん。さっきはごめんね、驚かせちゃって」
あやとが振り返る。
笑顔だった。
優しい笑顔。
ドクン。
「う......」
田村の顔が真っ赤になる。
「大丈夫?顔赤いよ?」
あやとが心配そうに近づいてくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
「わーーーーーーー!!」
田村はまた叫びながら逃げ出した。
今度は反対方向の廊下へ。
メイド服のスカートを翻して全力疾走。
「はぁ、はぁ、はぁ......」
柱の影に隠れて息を整える。
顔が火照っている。
両手で頬を押さえる。
「何やってんの私......」
でもハンカチには気づいてもらった。
次はボタン。
田村は震える足で再び書斎へと向かう。
「これ、ハンカチか」
あやとがハンカチを拾っている。
よし、このタイミングで――――
「あの」
田村が声をかける。
「ん?」
あやとが振り向く。
ドクン。
「っ......!」
田村の心臓が跳ねる。
でも逃げない。
プロだから。
「そ、それ、被害者の......」
声が震えている。
「あ、そうだね。イニシャルが......」
あやとが確認している。
田村はボタンを床から拾い上げる。
手が震える。
「こ、これも......」
ボタンをあやとに見せる。
近づかなければならない。
一歩。
また一歩。
ドクン、ドクン、ドクン。
「ん?ボタン?」
あやとが顔を近づける。
至近距離。
あやとの息がかかりそう。
「ひゃああああああ!!」
田村はボタンを投げつけて逃げ出した。
「え、ちょ、待って!」
あやとの声が遠ざかる。
田村は厨房まで走り込んだ。
大きな樽の影に隠れる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ......」
全身から汗が噴き出している。
顔は真っ赤。
心臓はバクバク。
手足はガクガク。
「ダメダメダメダメダメ!」
頭を抱える。
「落ち着いて......落ち着くのよ、田村麻衣......」
深呼吸。
何度も何度も。
「次は......手紙の焼け残り」
田村は震える手で立ち上がった。
メイド服を整える。
営業スマイルを作る。
「絶対に......成功させる」
三度、書斎へ。
あやとはボタンを拾って眺めていた。
「誰のだろう......」
チャンスだ。
田村は暖炉に近づく。
あやとに背を向けたまま。
手紙の焼け残りを少し引っ張り出す。
「あ、メイドさん」
あやとの声。
田村の手が止まる。
振り返らない。
振り返ったら終わり。
「さっきのボタン、もしかして落とし物?」
「そ、そうです」
背を向けたまま答える。
声が上ずっている。
「誰の?」
「わ、わかりません」
田村は暖炉の作業を続ける。
手紙の焼け残りを、もう少し目立つ位置に。
「じゃあ、後で持ち主探そうか」
あやとの足音が近づいてくる。
「!」
田村は暖炉の前で固まった。
近づいてくる。
どんどん近づいてくる。
「一緒に――――」
「わーーーーーーー!!!」
田村は振り返りもせずに書斎を飛び出した。
全力疾走。
階段を駆け上がる。
上の階の空き部屋に飛び込む。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ......」
床に座り込んで荒い息。
顔は真っ赤。
汗でメイド服が張り付いている。
心臓が壊れそう。
「も、無理......」
涙目になりながら呟く。
でも。
「まだ......終わってない」
田村は立ち上がった。
ふらふらしながらも。
証拠は配置した。
あとは登場人物たちに任せるしかない。
田村は廊下をそっと歩く。
書斎の様子を遠くから見守る。
ピエロ執事が通りかかった。
「綾辻様、何かお探しで?」
「あ、はい。このボタンなんですけど」
田村は息を呑む。
ここからだ。
「それは......私のボタンですね」
「え?」
「いえ、正確には使用人服のボタンですから、皆が持っています」
あやとが首を傾げる。
「みんな?」
そこにマリーが通りかかる。
「あら、そのボタン」
「マリーさんも?」
「ええ、同じ服ですから」
あやとの表情が変わり始める。
コンスタン医師も来た。
「私も持っていますよ」
ヘクタさんも。
「僕も」
ドラゴノフ公爵夫人も。
「私も持っていますわ」
あやとが暖炉を見つめる。
「これ......手紙?」
手紙の焼け残りに気づいた。
「『みんなで......』『許さない』......」
田村は遠くから見守る。
拳を握りしめて。
あやとの表情が真剣になっていく。
考えている。
必死に考えている。
「ハンカチは被害者の......」
「ボタンはみんなが持ってる......」
「手紙には『みんなで』......」
あやとが登場人物たちを見渡す。
「皆さんのアリバイ、もう一度教えてもらえますか?」
登場人物たちが答える。
完璧なアリバイ。
全員が。
「完璧すぎる......」
あやとが呟く。
「普通、誰かは曖昧になるはず......」
「でも全員が完璧......」
あやとの目が見開かれる。
「まさか......」
田村の心臓が早鐘を打つ。
「全員が......犯人?」
言った。
田村は壁に寄りかかった。
力が抜ける。
成功した。
「正解ですわ」
公爵夫人が優雅に頷く。
後は自動的に進む。
全員が犯人だと認める。
動機を語る。
復讐の物語を。
あやとは真剣に聞いている。
そして。
沈黙の後。
「僕は......この事件を、なかったことにします」
田村は目を見開いた。
誰も言わなかった。
誰も誘導しなかった。
あやとが、自分で選んだ。
「怨霊の仕業だったと報告します」
ピロリン♪
魔法通信機が鳴る。
『事件解決確認。連動イベント起動開始』
田村は壁にもたれたまま、小さく微笑んだ。
「自分で......選んだんだ」
真っ赤な顔のまま。
汗だくのまま。
心臓バクバクのまま。
でも、温かい気持ちだった。
「彼なりに......前進したんだ」
田村はそっとその場を離れた。
転移ゲートへ。
メイド服のまま。
誰にも気づかれずに。
事務所に戻る。
椅子に座って、大きく息を吐いた。
「疲れた......」
でも、悪い気分じゃなかった。
誘導されても。
用意された舞台でも。
最後に選ぶのは、自分。
「......そういうこと、か」
田村は小さく微笑んだ。
まだ答えは見つかっていない。
でも、何かの入り口に立った気がした。
第4章 悪役令嬢は転生しない
「原因を調査しろだって?」
田村は溜息をつきながらメイド服に着替えた。
『案件No.7821「悪役令嬢転生イベント」重大エラー』
『転生対象:日本人女性・佐々木花子』
『予定転生先:公爵令嬢エリザベート』
『実際の転生先:不明』
「また現地か......」
転移ゲートに向かう。
魔法陣が光り始める。
次の瞬間、田村は学園の廊下に立っていた。
「よし、まずエリザベート嬢の様子を―――」
その瞬間。
ピロリン♪
魔法文字が空中に浮かび上がった。
『エラー:悪役令嬢枠・空席検出』
『緊急対応:最寄りの女性を自動割り当て』
『対象:あなた』
「え?」
『異世界登録完了』
『あなたの名前:レディ・クラリス=ド=モンブラン』
『役職:悪役令嬢』
「ちょっと待て!私、調査に来ただけなのに!」
でも魔法文字は容赦なく消えた。
「......」
田村はメイド服の裾を見下ろす。
悪役令嬢なのに、メイド服。
「システムエラーにエラーが重なってるじゃない......」
とりあえず調査だ。
転生先を特定しなければ。
「記録室を探さないと......」
その時。
「あら」
声がした。
振り返ると、茶色い髪の少女が立っていた。
主人公のリリアだ。
「あの......道、お分かりですか?」
リリアが心配そうに声をかけてくる。
「ありがとうございます。記録室を探していて」
「記録室なら、この先を右ですよ」
リリアが優しく教えてくれる。
遠くから第一王子が見ていた。
「平民の少女と、分け隔てなく話している......」
何か感心している様子。
でも田村は気にせず記録室へ。
カタカタと資料を調べる。
80年前の転生記録。
『転生先:不明』
『エラーコード:#7821』
「やっぱり......」
手がかりがない。
別の方法を考えなければ。
「乙女ゲームのイベントフラグが鍵ね」
求婚イベント。
特定の場所で、特定のセリフ。
「噴水の前で、『あなたの笑顔が、この国の宝です』......」
もし花子がこの世界にいるなら、このセリフを知っているはず。
田村は学園中で聞き込み調査を始めた。
その過程で。
貴族の兄弟が記録室で。
「メイドさんも調べ物?勉強熱心なんですね」
野党の親分が食堂で。
「仕事熱心だ。俺は好きだぜ、そういうの」
冒険者ギルド長が廊下で。
「参考になるかもしれない。詳しく聞いてもいいかな?」
宿屋の若主人が庭で。
「真面目なんだな」
みんな妙に親切だ。
でも田村は調査に集中していた。
そして、3日目。
学園裏の古い庭園。
噴水の前で、田村は大きな声で呟いた。
「『あなたの笑顔が、この国の宝です』か......ベタなセリフよね」
その瞬間。
茂みの向こうで、何かが動いた。
「......!」
そこには老婆が立っていた。
背中は丸まり、杖をついている。
「......あんた、今のセリフ」
しわがれた声。
「乙女ゲームの、求婚イベント......」
田村は息を呑んだ。
老婆が魔法文字を浮かび上がらせた。
『異世界名:マーサ』
「......佐々木花子さんですか?」
老婆は頷いた。
「80年前に転生してきた」
「どうして......エリザベートに転生できなかったんですか?」
「年代が合わなかったのよ」
花子が自嘲する。
「乙女ゲームの舞台は『今』でしょ?でも私が転生したのは80年前」
「......」
「イベントのフラグなんて、一つも立たなかった」
花子が噴水を見つめる。
「乙女ゲームだって知ってたのに、何も起きなかった」
「やり直しませんか?」
田村が真剣な顔で言う。
「もう一度、転生を。今度こそちゃんと」
花子は首を横に振った。
「80年生きたの。子供も独立して、孫もいる」
「それなら―――」
「後悔はないわ」
花子が微笑む。
「でも、孫たちの行く末も見守りたいし、この世界も気に入ってる」
「じゃあ......」
「悪役令嬢役、引き継いでもいいわよ」
田村は安堵した。
「ありがとうございます。それじゃあ、私は―――」
ピロリン♪
魔法通信機が鳴った。
転生部門からだ。
「田村か?イベント進行状況を確認した」
「はい」
「既に舞踏会イベントが開始されている。お前が完遂しろ」
「え?舞踏会ですか。踊って、挨拶して、終わりですね」
「ああ、頼んだぞ」
通信が切れた。
「よかった、これで―――」
花子がクスクス笑っている。
「何ですか?」
「舞踏会、楽しんできなさい」
「?」
舞踏会当日。
田村はメイド服のまま会場にいた。
豪華な装飾。
音楽が流れる。
王子、貴族の兄弟、野党の親分、ギルド長、宿屋の若主人が集まっている。
「あれ?なんでこのメンバー......?」
そして音楽が止まる。
王子が片膝をつく。
「クラリス様、僕と結婚してください」
「......え?」
ピロリン♪
『王子求婚ルート選択が可能になりました』
「ええええええ!?」
貴族の兄が前に出る。
「待ってください、王子!クラリス様の真の価値を理解しているのは、この私です!」
ピロリン♪
『貴族長男求婚ルート選択が可能になりました』
「いやいや、兄上。クラリス様の優しさに気づいたのは私の方が先だ!」
ピロリン♪
『貴族次男求婚ルート選択が可能になりました』
野党の親分が大股で歩いてくる。
「姐さん!俺と一緒に来てくだせえ!」
ピロリン♪
『野党親分求婚ルート選択が可能になりました』
「クラリス様、冒険者の世界にこそ、あなたの居場所が!」
ピロリン♪
『ギルド長求婚ルート選択が可能になりました』
「クラリスさん!俺と一緒に宿屋を!幸せにします!」
ピロリン♪
『宿屋若主人求婚ルート選択が可能になりました』
田村の頭上で魔法文字が乱舞している。
「ちょっと待って――」
五人が同時に田村を褒め称え始める。
「その知性!」
「その美貌!」
「その心根!」
「その行動力!」
「その全てが素晴らしい!」
田村は真っ赤になって立ち尽くしている。
会場の隅で、マーサ(花子)がワイングラスを片手に笑っている。
完全に楽しんでいる。
「マーサさん!」
田村が助けを求める目で見る。
花子は笑顔で手を振った。
「頑張って、クラリス様♪」
「他人事じゃないでしょう!?」
その時。
ピロロロロン♪
『異世界効果発動:私なんかしちゃいました!?』
『対象:クラリス+求婚者全員』
『効果:超ドキドキバフ付与』
田村の視界がキラキラし始めた。
王子を見る。
「王子様も......見た目よりずっと大人で、頼りがいがあるし......」
貴族の兄を見る。
「お兄様も、あんなに教養があって、優しくて......」
弟も見る。
「弟様も、明るくて、一緒にいたら楽しそう......」
親分を見る。
「親分さんも、あれだけの人を率いて、きっと守ってくれる......」
ギルド長を見る。
「ギルド長も、あんなにたくさんの冒険者をまとめて、頼りがいもあるし......」
若主人を見る。
「若主人も、真面目で一途で、幸せな家庭が築けそう......」
田村の思考がグルグル回り始めた。
「でも王子様は......」
「いや、貴族様も......」
「でも親分さんは......」
「ギルド長も......」
「若主人も......」
「選べない......!」
ピピピピピ!
『警告:選択無限ループ検出』
『警告:システム過負荷』
『エラー:複数ルート同時選択不可』
『エラー:超ドキドキバフ過剰発動』
『緊急停止します』
バチン!
魔法文字が全部消えた。
超ドキドキバフも解除。
「......は?」
求婚者たちも正気に戻っていた。
「あれ?僕、何を......」
花子が笑い転げている。
「あはは、若いって素敵ね!」
「笑ってる場合じゃないでしょう!?」
「システムエラーでイベント終了なら、私の出番ね」
花子が立ち上がる。
「悪役令嬢、引き継ぎますよ」
田村は力なく頷いた。
転移魔法を発動させる。
事務所に戻った瞬間。
「わあ!」
後輩の田中美咲が驚いた声を上げた。
「田村先輩、そのドレス!」
見下ろすと、豪華なパーティドレスのままだった。
しかも顔は真っ赤。
「はぁ、はぁ......」
「先輩、顔真っ赤ですよ?もしかして告白でもされました?」
美咲がニヤニヤしている。
「ち、違います!システムエラーです!」
山田が魔法文字盤から顔を上げた。
「田村らしいな」
「どういう意味ですか......」
田村は椅子に座り込んだ。
パーティドレスがふわりと広がる。
「疲れた......」
一週間後。
田村は監視用水晶玉を覗いていた。
画面には城下町の広場。
公爵令嬢エリザベート(中身は花子)が、マーサの孫たちにお菓子を配っている。
ピロリン♪
『好感度イベント発生:悪役令嬢の意外な一面』
子供たちが嬉しそうに笑っている。
花子も優しく微笑んでいる。
「良かった」
田村も小さく微笑んだ。
山田が声をかけてきた。
「田村、次の案件」
「はい」
田村は新しい企画書を開いた。
また誰かの物語が始まる。
あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?田村麻衣の奮闘ぶりを楽しんでいただけたでしょうか?
この作品を書いていて一番楽しかったのは、「異世界転生ものあるある」を盛り込むことでした。
第1章のゴブリンとのやり取りは、「理不尚なクライアント対応」という、
多くの社会人が経験する苦労を、ファンタジー世界に置き換えたものです。
鼻水を書類に垂らされたり、コーヒーをこぼされたり......田村さん、本当にお疲れ様です。
第2章・第3章の密室殺人事件は、某有名ミステリー作家たちへのオマージュです。
登場人物の名前、気づいていただけましたでしょうか?ピエロ執事、マリー、コンスタン、ドラゴノフ、ブック、ヘクタ......そして主人公の名前が「綾辻あやと」。
でも彼は全く気づかない。
「動画で満足して、自分の頭で考えないから!」という田村のツッコミは、実は私自身への自戒も込めています。
便利な時代になったからこそ、自分で考えることの大切さを忘れがちですよね。
第3章の「わーーーー!」連発は、書いていて笑ってしまいました。
真面目で有能な田村が、恋愛スキルに翻弄されて逃げ回る姿。
彼女のプロ意識と、抗えないスキル効果の板挟み。何度も「わーーーー!」と叫ばせてしまい、田村さんには申し訳ないことをしました。
第4章の悪役令嬢ものは、最近特に人気のジャンルですよね。
でも、「もし転生のタイミングがズレていたら?」という発想から生まれました。
80年前に転生してしまった花子さん。
乙女ゲームの知識を持っていても、時代が違えば何の役にも立たない。
でも彼女は腐らず、その世界で人生を全うした。
そんな彼女の達観が、田村に何かを伝えられたらいいなと思いました。
そして求婚ラッシュ。書きながら「これはやりすぎかな......」と思いつつ、でも楽しくて止められませんでした。王子、貴族兄弟、野党の親分、ギルド長、宿屋の若主人......ピロリン♪の嵐。システムエラーで助かった田村に、「システムエラーも時には味方」という教訓を(笑)。
執筆の裏話をすると、当初は田村がもっとクールなキャラクターでした。どんな状況でも冷静に対処する、完璧な社会人。
でも、それだとどうにも面白くない。
だから、左目がピクピクしたり、「わーーーー!」と叫んだり、パーティドレスを着たまま事務所に戻って後輩に「告白されました?」と言われたり......そういう「完璧じゃない部分」を入れました。
プロとしての矜持と、人間としての弱さ。その両方があるから、田村は魅力的なキャラクターになったんじゃないかな、と自分では思っています(自画自賛ですみません)。
今後も、田村の現地フォローは続きます。
勇者パーティーの内紛調停だったり、聖女の浄化能力が暴走したり、
悪の組織が予想外に有能で計画が狂ったり......異世界演出部には、まだまだトラブルが山積みです。
そして、田村自身の物語も。
10年のキャリアの中で、彼女は何を感じ、どう変わっていくのか。
異世界演出部という仕事に、彼女はどんな意味を見出すのか。
そして、あの「世界の可愛い女は全員オレに惚れる」スキル持ちの綾辻あやととは、今後どうなるのか......?
まだまだ書きたいエピソードがたくさんあります。
もし「続きが読みたい!」と思っていただけたら、ぜひ感想をお聞かせください。
「こんなトラブルを見てみたい」
「こういう転生者が出てきたら面白そう」
「田村にこんな展開を!」
そんなリクエストも大歓迎です。
皆様からの感想が、何よりの励みになります。
改めまして、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
また、異世界演出部でお会いしましょう。
田村麻衣の奮闘は、まだまだ続きます。
【お願い】
この作品を楽しんでいただけましたら、ぜひ感想をお寄せください。
「面白かった」「このキャラが好き」「ここが良かった」など、どんなことでも構いません。
皆様の感想が、次の執筆の原動力になります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。