第249話 コードネーム
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「0.0.86α」
「マイナーバージョンすら上がってねぇ!」
雫石が将棋AIを操ってインターネット将棋で無双する前、景隆はこの将棋AIの名前を知らないことに気づいた。
そして、新田に名前を聞いてみた返答がこれだった。
新田の示した数値はセマンティックバージョニングというソフトウェアのバージョニング方法の一つだ。
『.』で区切った3つの非負整数で表され、前から順にメジャーバージョン、マイナーバージョン、パッチバージョンと呼ばれる。
末尾の『α』はアルファ版であることを示しており、開発初期において性能や使い勝手などを評価するためのテスターや開発者向けの段階を表している。
つまり、新田にとってはまだまだ開発途上ということなのだろう。
しかし、86という数値からは数多くのバージョンアップを重ねていることがうかがえる。
「いかにも新田さんらしいですね」
下山は苦笑いを浮かべながら、納得していた。
景隆の使ってみた感触ではかなり高い完成度であり、棋力ではプロ棋士に匹敵しているように思われた。
ここまで急速に開発が進んだのは新田と鷺沼の力も大きかったが、下山のマネジメントが素晴らしかった。
これは景隆だけの主観ではなく、鷺沼も下山のことを絶賛していた。
(こりゃ、下山さんにスカウトがいっぱい来ちゃうだろうな……)
景隆の懸念はすでに現実となっており、下山は数多くの企業からのオファーをすべて断っていることを景隆は知らない。
「公開時には正式な名前をつけるとして、せめてコードネームはつけておきたいよな……ここはプロジェクトリーダーである下山さんに名前をつけてもらいたいのですが」
「えっ! 僕ですか? 途中から入ったので恐れ多いですよ……」
下山は控えめな性格で、景隆から託された命名権をあっさりと放棄した。
***
「ハチロクアルファ? なにそれ?」
雫石が将棋AIの名前を聞いたときの第一声がそれだった。
「名前じゃなくて、バージョンな」
「ということは、まだこの子は名無しなのね」
「そういうことだ」
雫石はかなりこのAIに入れ込んでいる。
『この子』と呼ぶのは鷹山を彷彿とさせた。
「じゃ、私がつけてあげる!」
「お前、全然遠慮がないなぁ……」
「だって、名前がないと困るでしょ?」
「うっ……」
図星を指された景隆は言葉に詰まった。
下山が命名権を辞退した以上、景隆が名前をつけるしかない状況だった。
仮に柊に聞いても「好きにしろ」と言われるのが関の山だろう。
雫石は自分が名付け親になることを決めたらしく、うなりながら考えていた。
「決めた! 『カストル』にしよう」
雫石は年相応の無邪気な笑顔で言い切った。
この表情だけを切り取ると、何でも言うことを聞いてあげたくなるほどの可愛らしさだ。
(なるほど、こうやってCMで稼いでいるのか……)
「なにそれ?」
「私の星座!」
「なになに……双子座か」
天体に詳しくない景隆は、検索エンジンに頼った。
「アルファだからちょうどいいでしょ?」
カストルは二等星で、ふたご座α星――バイエル符号ではα星とされている。
「いゃ、アルファって名前の意味じゃ……ま、いっか」
かくして、将棋AIのコードネームは雫石によって名付けられた。
そして、これがネット将棋のアカウント名になり、将棋界では伝説の存在となった。




