第244話 指し手
「将棋モバイルはすこぶる好評だぞい」
長麦は小気味よい手つきで銀を動かした。
「それはよかったです」
景隆は安堵しながらも、すっと歩を動かした。
(俺、こんな高待遇受けていいのかな……?)
長麦の自宅で、景隆は長麦と将棋を指していた。
長麦邸は純和風の趣きを感じさせる邸宅だった。
畳敷きの広間が中心で、季節の花が生けられており、掛け軸には「無尽」の文字が力強く書かれていた。
これは書道も嗜む長麦自身が書いたものと思われる。
『将棋モバイル』とは将棋連盟の公式モバイルアプリケーションの名称だ。
開発や運用は翔動が行っており、現在はベータ版がリリースされている。
棋戦の棋譜中継が主な機能であるが、AIによる候補手が表示されるのが特徴だ。
この時代の将棋AIはアマチュアレベルであり、ユーザーの期待値は元から高くなかった。
しかし、いざ蓋を開けてみると、プロもうなるほどの手を示すことがあり、一気に話題を呼ぶことになった。
このことから、将棋ファンだけでなく、将棋連盟に所属する棋士や女流棋士も使うようになった。
長麦はアプリケーションの出来にご満悦で、景隆を自宅に招待していた。
将棋連盟会長としては、新たな金づ――スポンサーとなった景隆のことは邪険にできないだろう。
そして、特に長麦が気に入ったのは大河原の声と、大河原そのものだった。
景隆はモバイルアプリケーションの説明を将棋連盟にしたときに、大河原を連れて行った。
長麦は自分の孫のように大河原を可愛がり、そのまま目の中に入れてしまうのではないかと思うほどだった。
「しかし、こんなに早く作れるもんかね?」
長麦は感心したように歩を進めた。
二枚落ちで対局しているが、長麦は一切の手心を加える余地もないらしく、景隆は攻めあぐねていた。
長麦はITに関して理解があるほうで、ベータ版と言え、あっという間にシステムができあがったことに驚いていた。
「実は赤字覚悟でして」
景隆はこのアプリケーションを早期に作り上げるために、MoGeに開発の一部を委託していた。
最終目標は自社が開発した将棋AIによるトッププロとの対局で、将棋モバイルはそのマイルストーンだ。
景隆としてはこの過程をできるだけ短縮したかった。
そして、長麦を認めせるには本気でやらないと足元を掬われると、柊から忠告を受けていた。
「そんなんで、大丈夫なのか?」
長麦は容赦ない手を次々と繰り出していた。
(じぃさん、も少し手加減してくれてもいいんじゃないか……)
「はい、なんとか……まだ儲かるかどうかわからないこのアプリに、出資してくれる企業がいるんですよ」
景隆は飛車を大きく移動させて、戦況を打開しようと試みたが、長麦にとっては想定内のようだ。
(このままやられてしまうのも癪だな……)
景隆は本丸に踏み込む前に、ジャブを打ってみることにした。
「ところで会長」
景隆は玉を安全なところに動かしながら言った。
「なんだね?」
長麦は攻撃の手を緩めることなく、銀を進めていく。
「生稲さんより強い指し手がいると言ったら、どうですか?」
これまでノータイムで軽快に指していた長麦の手が、ピタリと止まった。




