第229話 意中の相手
「石動くん、女性社員の中で噂になってるよん」
鷺沼は鉄火丼にわさびをてんこ盛りにしていた。
このわさびは鷺沼が店員に頼んで追加してもらっていたものだ。
「鷹山からそんな話は聞いたことないですけど?」
景隆はファミリーレストランで鷺沼と早めの昼食を取っていた。
深夜作業で徹夜明けの景隆はモーニングメニューのトーストをかじっていた。
景隆と鷹山はデルタファイブと翔動の掛け持ちで働いている。
したがって、鷹山とは柊と同じくらい会話の頻度が高い。
「そりゃ、ゆっきーはそんなこと言わないよー」
鷺沼はもはや赤色より緑色が多くなった鉄火丼を箸でつつきながら、コロコロと笑っていた。
鷹山由紀が鷹山のフルネームだ。
「なんでですか?」
「そういうとこだよ、石動くん」
鷺沼はラノベのヒロインのようなセリフを言い放った。
景隆は鷺沼の発言に全く心当たりがないわけではなく、デルタファイブでは声をかけられることが多く、その中に女性が少なくないことを自覚していた。
仮に景隆が異性に気にかけられるようになったとしても、目の前にいる本命の女性には全く変化が見られない。
「そういうとこですよ、鷺沼さん」
「ん? なんか言ったかえ?」
「なんでもないです」
意中の女性が目の前にいるにもかかわらず、景隆は恋愛的なアプローチをする気持ちはなかった。
朝から晩――休日に至るまで景隆は仕事でいっぱいいっぱいだった。
(もしかして、柊も似たような状況だったのかな……)
かつては柊も鷺沼に恋慕していたはずだが、柊の様子を見る限りだと鷺沼とどうこうなったような気配は感じられなかった。
(いゃ、鷺沼さんじゃなくてたしか――)
「そんでさぁ、今日の新しい案件がくそつまんなそうなんだよねぇ」
景隆の思考は遮られた。
「新しいシステムですよね? 俺なんか、誰かの手垢が付いたシステムしか担当したことないですよ」
「今回のお客さんが保守的でさ。新しい技術なんて全然使うつもりがないんだよ」
景隆は鷺沼であれば難なくこなすだろうが、自分が上司だったら彼女をこのような案件にはアサインしないだろうと思った。
鷺沼は日本デルタファイブのウルトラエースだ。彼女のモチベーションを下げることは大きなリスクとなり得る。
翔動に置き換えれば新田にお茶くみをさせるようなものだ。
その場合の機会損失は数億では済まないだろう。
「ん? どしたん?」
「いゃ、なんだか経営者みたいな考え方をするようになったなぁと思って……」
「経営者じゃん」
景隆は考えた。あの話を持ち出すならこのタイミングだ。
「鷺沼さん、将棋AIのシステムに興味ないですか?」
***
「……」
景隆は自社の社運を懸けて取り組んでいるAIシステムについて詳しく説明した。
本来ならば社外秘となりそうな内容まで、鷺沼であれば問題ないだろうという判断で伝えた。
おそらく柊も問題ないと言うだろう。
多少のリスクを負ってでも鷺沼の興味を惹きたくなり、景隆は気がついたら熱く語っていた。
しかし、鷺沼は一言も話さず、景隆の話を聞いているだけだった。
(あ、あれ? 結構、気に入ってくれると思ったんだけどな……)
無言の鷺沼に景隆は内心ですごく焦っていた。
「な……ななな」
「な?」
「なにそれ! すっげー面白そうなんだけど!」




