第177話 匂い
「鷺沼さん、仮定の話なんですけど」
「仮定の質問にはお答えできません――キリッ」
「なんじゃそりゃ?」
「いやー、未来の首相がそういうセリフを言うような気がしてね」
(あとで柊に聞いて答え合わせしておくか……いゃ、もし当たっていたら怖いな……)
デルタファイブのオフィスで、景隆は鷺沼を捕まえて相談を持ちかけていた。
「んで、なにさ?」
「とある企業で、サーバーやPCをリースで調達しているとします」
「買ってしまうと固定資産税がかかるから、コスト意識が高い企業はそういうところあるね」
この時代にクラウドコンピューティングは一般的ではないため、システムを必要とする企業はオンプレミス ※1 が主流だ。
鷺沼が言ったように固定資産税を回避するために、リースによって調達されるケースは少なからずあった。
「そのリース事業者が倒産したり、契約が更新できなくなって、使っていたサーバーが急に使えなかったと仮定します」
「うむ、やたら具体的な仮定の話だねぇ」
鷺沼は景隆の目を覗き込みながら微笑んだ。
景隆はいろんな理由で心拍数が上がってきた。
「そのシステムを別のリース事業者から調達したサーバーに移行する場合、どんな方法が手っ取り早いですか?」
「その会社は石動くんのところみたいに、デプロイの仕組みを持っていないんだよね?」
「え、えぇ、俺も詳しく知ら――じゃなくて、持っていないという前提でお願いします」
デプロイとはシステムをサーバー上に配置・展開し、利用可能な状態にする一連の作業を指す。
システムを手作業によって構築するのではなく、自動的に構築できる仕組みだ。
この時代ではデプロイの仕組みは一般的ではないが、翔動では例によって柊が未来で使われている仕組みをもとに実運用されている。
鷺沼は翔動の仕事を手伝った経緯から、翔動の運用を知っている。
「んー……同じハードウェアなら、システムバックアップを取っておいて、リストアすればいいんじゃないかなぁ」
「やはりそうですか。違うハードウェアやアーキテクチャを使っているならどうでしょう?」
「それこそ、君らがやっている仕組みを使えばいいんじゃない?」
鷺沼の答えは景隆の想定どおりだった。
景隆にとって新しい知見を得られなかった失望はなく、むしろ自分の考えが間違っていないことに裏付けられたことに満足した。
「柊さんなら、同じことを言うんじゃないかね?」
「そうですね。やつはちょっと出ずっぱりで……」
オペレーションイージスの最中に柊とは基本的に別行動になっている。
「ふむ、クンクン」
「な、なんですか、急に」
鷺沼は景隆の体に近寄って匂いを嗅ぎ始めた。
「面白そうなことが起こりそうな匂いがする」
「え、物理?」
鷺沼はニュータイプなのではないかというほど勘が良い。
景隆はその勘が彼女のロジカルな思考から生まれているものだと思っていたが、実物から五感を使って得ているとは夢にも思わなかった。
「クンクンクン」
「え? まだやるの?」
景隆の心臓はニューヨーク証券取引所のオープニングベルのように『カンカンカンカン』と鳴っていた。
加えて、鷺沼からもいい匂いが漂ってきて頭がクラクラしてきた。
「うむ、お金の匂いもするぞ。200億円くらい?」
「エスパー?」
※1 自社でサーバーやソフトウェアなどの情報システムを保有・運用する形態