お料理作戦
5月も後半に差し掛かり、木々が青々と茂り始める季節、琴音は陽太との距離が縮まらないことに胸の奥でじわじわと焦燥感を募らせていた。
前回、ミケの件で少し話す機会はあったものの、それ以来陽太は目を合わせず、必要最低限の言葉しか交わしてくれない。その素っ気ない態度は琴音にとって、まるで越えられない壁のように感じられていた。
葵の家に足を運ぶたび、陽太との会話を期待してしまう自分。それでも、その期待が空回りすることが増え、次第に限界を感じ始めていた。いつまでも葵頼みではいけない。琴音は新しい突破口を見つける必要性を痛感していた。
「このままじゃダメだ…」
湯船に浸かりながら、琴音は心の中でつぶやいた。浴室の静けさの中で、直接的なアプローチでは逆効果だと分かっている自分に気づく。
それならどうすればいい?どうすれば陽太が心を開いてくれる?湯気が立ち込める空間で、琴音はその答えを探し続けていた。
そんな中、琴音の頭に浮かんだのは、陽太の好みを知ることだった。好きなものをきっかけに話題が広がれば、距離も自然と縮まるかもしれない。その考えに胸が少し軽くなるような気がした。
「さりげなく聞いてみよう…」
琴音は心の中で自分に言い聞かせた。陽太への興味を悟られないよう細心の注意を払いながら、自然な会話で突破口となる情報を得る。それが今の琴音にとって最善策だと思えた。
何気ない様子で葵に相談する準備を整えながら、琴音は慎重に言葉選びについて考えていた。その小さな決意は、自分にとって新しい一歩になるかもしれない。
***
昼休みの教室。窓から吹き込む春風がカーテンを揺らし、生徒たちのおしゃべりや笑い声が飛び交う中、琴音は机を寄せて座っている葵にそっと声をかけた。
「ねえ、葵ちゃん。陽太くんって何が好きなの?」
葵はストローで飲んでいた紙パックジュースを置き、少し驚いたような顔で琴音を見つめた。
「えっ、琴音。そんなに気になるの?」
琴音は顔が熱くなるのを感じながらも、真剣な表情で頷いた。
「う…うん、少しでも仲良くなりたいんだ。」
葵は肩をすくめて軽く笑った。
「あいつ、何でも食べるけど、とり天には目がないんだよね。おばあちゃん家に行くと必ず出てくるからさ。ほら、おばあちゃん子だから。」
「とり天!」
琴音はその言葉に小さく頷きながら、心の中でメモを取るように聞き入った。葵との何気ない会話から得た情報。それが、小さな一歩になるかもしれないと思った。琴音の目が輝く。
「じゃあ、今度とり天を作って陽太くんにも食べてもらおう!」
その言葉に葵は驚いたように目を丸くし、ストローを口から外して言った。
「え、琴音、とり天作れるの?」
「あ、えっと…」
琴音は一瞬固まり、それまで自分一人の力で料理を完成させたことがないことを思い出した。焦りが顔に浮かび、視線が揺れる。
「うーん…正直、あんまり得意じゃないんだよね…」
葵はそんな琴音の様子に気づき、小さく笑って肩をすくめた。
「なるほどね。でも、そんなに熱心なら…」
少し考え込むような素振りを見せた後、「じゃあさ、うちで一緒に作ってみる?簡単だから教えてあげるよ」と軽く提案した。
「本当に?ありがとう!」
琴音は嬉しそうに頷き、その場で週末の約束を取り付けた。窓から吹き込む春風がカーテンを揺らし、生徒たちのおしゃべりや笑い声が教室内に響いている。その中で一人だけ、小さな挑戦への準備を始めていた。
***
週末、琴音は月村家を訪れた。
キッチンには新鮮な鶏肉、小麦粉、卵などが整然と並び、その隣には使い込まれたフライパンやボウルが置かれている。どこか温かみのあるその光景に、琴音は少し緊張しながらも期待を感じていた。
エプロン姿の葵は軽快な手つきで鶏肉に下味をつけ、小麦粉をボウルに移していた。その動きには無駄がなく、料理に慣れていることが一目で分かる。
一方、その隣では琴音がエプロンの紐を結び直しながら、ぎこちない手つきでボウルを持っていた。
胸の奥で鼓動が速くなるのを感じながらも、失敗しないよう一生懸命作業を進めている。その真剣な表情からは、不器用ながらも陽太への想いが伝わってくるようだった。
「まず鶏肉に下味をつけて、それから衣をつけるのよ。」
葵が説明すると、琴音は真剣な表情で頷き、小麦粉を鶏肉に丁寧にまぶしていった。
「よし、次は天ぷら粉を溶くよ。」
葵に促され、琴音は慎重にボウルに粉を入れ始めた。
「ゆっくりかき混ぜてね。」
葵のアドバイスに従いながら、琴音は箸を使って粉と水を混ぜ始めた。しかし、不慣れな手つきで力加減を間違えた瞬間――
「あっ!」
琴音の驚きの声と同時に、ボウルから白い粉と水が勢いよく飛び散った。空中には小さな水滴と粉の霧が広がり、その一部が琴音の制服のブラウスに直撃する。
「わっ、わっ!」
琴音は慌てて汚れたブラウスを手で押さえたが、その手にも粉がついており、かえって染みを広げてしまう。
葵はその様子に苦笑しながらも冷静に言った。
「あー、そのままだと染みになるよ。天ぷら粉って油っぽいからね。お風呂場で急いで洗えば大丈夫だと思う。」
琴音は自分の服を見下ろし、胸元から腹部にかけて広がる白い染みに焦りながら、「うん、そうする!」と言って急いで浴室へ向かった。
***
一方その頃、陽太は汗で濡れたTシャツを脱ぎながら、何も考えずに浴室のドアを開けた。
その瞬間――時間が止まったように感じた。
目の前には風呂から上がったばかりの琴音が立っていた。
彼女の肌は湯気に包まれ、ほんのり赤みを帯びている。その湿った空気が彼女の髪を首筋に張り付けていた。
琴音は驚きで目を見開き、慌ててバスタオルを胸元でぎゅっと押さえた。その動作で肩から背中へと続く滑らかな曲線が、一瞬だけ湯気越しに浮かび上がる。
陽太は息を飲み、頭の中が真っ白になる。動くべきかどうかすら判断できず、その場で立ち尽くしてしまった。
「きゃっ!」
琴音の驚きの声が静寂を破る。
「わっ!」
陽太も思わず声を上げ、目を見開いた。
二人の視線が交差した瞬間、止まっていた空気が再び動き出した。胸の鼓動だけが耳元で響き、周囲の音は遠ざかっていく。
琴音は自分でもわかるほど頬が熱くなるのを感じた。羞恥心と驚きでどうしていいかわからず、とっさに左手でタオルをぎゅっと握りしめ、右手を陽太に向けて振りながら、「ご、ごめんなさい!」と裏返った声で叫んだ。
陽太はハッと我に返り、「あ、いや…俺こそ…」と言いかけたものの、その言葉は途中で途切れた。目の前の光景に頭が真っ白になり、視線をどこに向ければいいかわからないまま立ち尽くしていた。
その間にも琴音は身を翻し、浴室へ逃げ込もうとした。その慌てた動きで、一瞬だけ肩から背中へ続く滑らかな曲線が湯気越しに浮かび上がる。
「バタン!」
浴室のドアが勢いよく閉まる音が響き渡り、その瞬間二人の間には浴室という名の壁ができた。
琴音が浴室へ戻り、扉を閉める音が響いた後も、陽太はその場で立ち尽くしていた。
耳元まで真っ赤になり、心臓は激しく鼓動している。頭の中は真っ白で、今起きた出来事をどう処理すればいいのかまったくわからない。
ただ一つ確かなこと――琴音の姿が鮮明に記憶へ焼き付いていることだった。
彼女の白い肌。湯気で湿った髪。その慌てた仕草。それらすべてが一瞬で網膜に焼き付き、胸の奥で得体の知れない感覚を呼び起こしている。
「なんだこれ…」
陽太は小さくつぶやきながら、自分自身に戸惑う。この胸のざわつき。それが何なのか彼にはまだわからない。ただ、その感覚だけは消えることなく胸に残り続けていた。