仲良くなりたい
リビングに戻った後も、琴音の心はどこか上の空のままだった。結局、葵と長く話すこともなく、早々に家へ帰ることにした。
しかしその夜、琴音の頭から陽太のことが離れなかった。廊下で偶然鉢合わせしたあの瞬間が、鮮明に心に焼き付いていた。
トイレへ向かおうと廊下を歩いていたあの時、玄関から帰ってきた陽太と鉢合わせした瞬間が、琴音の脳裏に鮮明に蘇る。狭い廊下で突然出くわした二人は、お互い驚いて足を止め、その場で固まってしまった。
汗だくの陽太はシャツを脱ぎかけていた。その肌は汗で濡れ、薄暗い廊下の中で微かに光を帯びていた。
引き締まった体つきが目に飛び込み、シャツを掴んだ腕の動きが止まったことで、その筋肉の輪郭だけが際立って見えた。眉間にはわずかな皺が寄り、戸惑いを隠せない瞳がこちらをじっと見つめていた。
その一瞬の光景。まるで切り取られた映像のように鮮烈な記憶が、琴音の胸をざわつかせ続けている。
廊下の木目から漂う古びた香り、陽太が外から持ち込んだ汗の匂い。そして、自分でも驚くほど激しく響いていた胸元の鼓動。
その全てが記憶となり、生々しく蘇るたびに琴音の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
***
それからというもの、琴音は月村家へ足を運ぶための理由を探して、常にアンテナを張り巡らせていた。
葵に「一人じゃやる気にならないから一緒に勉強しない?」と誘われるたびに、琴音は「うん、行く!」と即答し、勉強会と称して葵の家を訪れた。
それ以外にも、「美味しいお菓子があるよ」「葵ちゃんに似合いそうなコスメを見つけたよ」など、様々な口実を作って葵の家を訪れていた。
表向きにはどれも納得できる理由だったけれど、本当は陽太に会いたい気持ちがほとんどだった。どんな些細な理由でも陽太に会える可能性があるなら、琴音はその機会を逃すまいとしていた。
しかし、陽太はいつも冷たい態度だった。
琴音が「こんにちは」と声をかけても、軽く頷くだけでまともに返事もしない。
リビングを通り過ぎるときも、「あ、お邪魔してます」と挨拶する琴音に対して、ちらりとも視線を向けず、そのまま自室へ引っ込んでしまう。
「なんで無視するんだろう…」
琴音は何度もそう思った。頭の中では、「嫌われているのかな」「何か失礼なことをした?」といった様々な可能性が次々と浮かんでは消えていく。
「あの日の鉢合わせのせいなのかな…」
廊下で陽太と鉢合わせした場面が蘇る。汗だくでシャツを脱ぎかけていた陽太。
その姿を見てしまった自分の反応が、不快な印象を与えてしまったのだろうか。
そして、最も不安になる考えが琴音の心をざわつかせた。
「まさか…私の気持ちを見透かされてる?」
その考えは琴音の胸を激しく高鳴らせた。自分が陽太のことを特別に意識していること、会いたいと思っていること。それらが伝わってしまったせいで煙たがれているのではないか。そう思うと顔が熱くなるのを感じた。
「だから避けられてるの?」
自問自答すればするほど、不安だけが膨らんでいく。琴音はテーブルに肘をつきながら、小さくため息をついた。その視線は宙に彷徨い、自分でも整理できない感情にただ翻弄され続けていた。
***
ある日、勉強会の帰り際に琴音は思い切って葵に聞いてみた。
「あの…陽太くんって、普段もあんな感じなのかな?」
葵は少し考えた後、笑いながら答えた。
「あいつね、私の友達相手だとそんな感じなのよ。なんか気を遣ってるか知らないけど、ぎこちないというか。」
琴音は少し驚いた様子で聞き返した。
「え?じゃあ、普段は違うの?」
「学校じゃ違うみたい。気さくで、誰とも仲良くして、クラスの人気者で…、でも私の友達には妙に警戒心強くてね。」
葵は肩をすくめて続けた。
「まあ、そのうち慣れるって。深く考えなくていいよ。」
その言葉に少し安心したものの、琴音にはまだ引っかかるものがあった。本当にただの人見知りなのかな。それとも、自分には特別距離を置いているんだろうか。
琴音はこの新しい情報に戸惑いつつも、どこか安堵した。陽太の態度が自分だけに向けられたものではないと知り、少し肩の荷が下りた気がした。
***
次の日曜日、琴音はまた月村家を訪れた。
陽太に会えるかもしれないという期待感を胸に抱きながら。
そして葵とリビングで勉強している最中も、陽太のことが気になって集中できない。
「今日はリビングには来るかな」と密かに期待していたが、陽太は結局顔を見せず、その期待は静かに消えていった。
帰り際、玄関先で靴を履きながらふと顔を上げた。その時、誰かに見られているような気配を感じて振り向くと、階段の上から陽太がこちらをじっと見ていた。
一瞬目が合ったように感じた。しかし、その瞳はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように自分の部屋へ戻っていった。
「やっぱり避けられてるのかな…」
琴音は小さくため息をついた。
それでも、なぜか仲良くなりたい気持ちは変わらなかった。むしろ、「どうして避けられるんだろう」と考えるほど陽太への興味は募っていく自分に気づいていた。
どうして私、こんなにも陽太くんのことが気になるんだろう?
避けられていることは明らかだった。それなのに、不思議と落胆するどころか、もっと知りたいという気持ちが強くなるばかりだった。
「普通なら、こんな風に避けられたら諦めるものなのに...」
琴音は自分の心の中で渦巻く、この不思議な感情に戸惑いを覚えた。理屈では説明できない。でも確かに存在する陽太への興味。それは避けられれば避けられるほど逆に強まっていくようだった。
「私、やっぱりおかしいのかな...」
そう思いながらも、その思いは日に日に大きく膨らんでいった。