願いごとの短冊『陽太』
七月の初め、教室の窓からは湿った夏の風がふわりと流れ込んでくる。今日は小学校の七夕行事。黒板の脇には、青々とした笹が立てかけられ、教壇には色とりどりの短冊が山のように用意されている。
笹の葉が風に揺れて、かすかに葉擦れの音がした。教室の空気は、どこか浮き立つような高揚感に包まれていた。
「みんな、今日は七夕だな。短冊に願い事を書こう。何でもいいぞ、素直な気持ちでな」
担任の先生が笑顔で黒板の前に立つと、クラスメイトたちは一斉にカラフルな色ペンを手に取り、机を囲んで楽しそうに思い思いに願い事を書き始めた。
机の上にはペンのキャップがコロコロと転がり、紙のすれる音や、あちこちで弾ける笑い声が混じり合う。窓の外からは蝉の声も聞こえ、夏の始まりを感じさせる。
「サッカー選手になりたい!」「家族が元気でいますように」
机の上から、そんな声があちこちで飛び交い、短冊の鮮やかな色が教室をさらに明るくしていた。
陽太は手元の短冊をじっと見つめ、指先で紙の端をそっとなぞった。鉛筆を持つ手が、ほんの少し汗ばんでいる。
短冊の端を指先で何度もなぞりながら、ぼんやりと窓の外に目をやる。
「願い事か……何を書けばいいんだろう……」
ふと視線を外にやると、校庭にも大きな笹飾りが立てられていて、風に吹かれて短冊がカサカサと揺れている。
陽太の頬に、ほんのり湿った風が触れた。その風は、どこか甘い石鹸の香りも混じっていて、陽太は小さく息を吸い込む。
(みんな、どんな願い事を書いてるんだろう……)
陽太は短冊を手のひらで包み込み、胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じていた。
「月村くん、短冊には何を書くつもり?」
隣の席から、桜井結衣が身を乗り出してくる。
淡いピンクのヘアピンが髪にきらりと光り、瞳は好奇心でまっすぐ陽太を見つめている。結衣は机の上で短冊をくるくると回しながら、楽しそうに微笑んだ。
陽太は少し戸惑い、視線を下げたまま「まだ決めてない」と小さく答える。その声は、教室のざわめきにかき消されそうなほど控えめだった。手のひらに汗がじんわりとにじむ。
「私はね、『もっとピアノが上手くなりますように』って書いたよ。」
桜井は自分の短冊を陽太の前に差し出し、にっこりと笑った。短冊には丁寧な字で願い事が書かれていて、端には小さな音符のイラストが添えられている。彼女の指先が短冊の端をそっとなぞるたび、陽太の胸が少しだけざわついた。
「月村くんも、サッカーで大きな目標とかあるんじゃない?」
「まあね……」
陽太はそっけなく返事をしながらも、ゆっくりと鉛筆を走らせ、「もっとサッカーが上手くなりますように」と短冊に書き込む。鉛筆の芯が紙をかすめる音が、やけに大きく耳に響いた。
「なんて書いたの?」
その瞬間、桜井がさらに身を乗り出してくる。ふわりとした髪が陽太の肩先に触れそうになり、陽太は「なんだよ」と小さく呟き、ほんの少しだけ身体を引いた。
桜井は陽太の短冊を覗き込み、ぱっと表情を明るくする。
「私と性格、似てるのかもね!」
桜井が嬉しそうに微笑み、陽太の肩を軽くつつく。その無邪気な笑顔に、陽太は思わず少し照れて、頬がほんのり熱くなる。
「そうかな……」
ぼそりと返し、また窓の外へと視線を向ける。外の七夕飾りが、夏の風に揺れてきらきらと光っていた。
そのとき、先生が黒板の前に立ち、声のトーンを少し落として語り始めた。
「みんな、七夕の伝説って知ってるか?――
昔、天の神様には、織姫という機織りの上手な娘がいたんだ。織姫は毎日、天の川のほとりで美しい布を織っていた。
ある日、天の神様は、働き者の牛飼い・彦星を織姫に引き合わせた。二人はすぐに恋に落ちて結婚したけれど、幸せすぎて、織姫は機を織るのをやめ、彦星も牛の世話をしなくなってしまった。
困った天の神様は、二人を天の川の両岸に引き離してしまったんだ。でも、二人が毎日まじめに働くなら、年に一度、七月七日の夜だけ会わせてあげよう――そう約束したんだよ。」
先生は窓の外の空を指さしながら続ける。
「今夜、晴れていれば、こと座のベガが織姫、わし座のアルタイルが彦星だ。二つの星の間には天の川が流れている。昔の人は、その星たちを見上げて、二人の再会を願ったんだ。そして、自分たちの願いも短冊に書いて、笹に結ぶようになったんだよ。」
教室には一瞬静寂が訪れ、窓の外から蝉の声と、笹飾りが風に揺れるかすかな音が混じる。
「ロマンチックだね!」
「でも、年に一度しか会えないなんて、寂しすぎるよ!」
「でも、そのぶん特別なんだよね」
女生徒たちがきらきらした目で口々に感想を言い合い、男子たちも「天の川って本当に見えるの?」とざわめき始める。
***
陽太は黒板の脇に置かれた笹に短冊を結びながら、先生の話を反芻していた。
(特別な人に、年に一度しか会えない……もし自分だったら、どんな気持ちになるんだろう)
ふと、琴音の姿が脳裏に浮かぶ。あのときの笑顔、優しい声――。
胸の奥が少しだけきゅっと締めつけられる。
笹の葉の揺れる音が、教室のざわめきに溶けていく。陽太は短冊を結んだ手をそっと離し、窓の外の青空を見上げた。
そのとき、すぐ隣に静かな気配を感じる。
振り向くと、桜井結衣が短冊を手に、陽太の隣へすっとやってきた。
結衣は短冊を指先で軽く揺らしながら、陽太のほうに身体を傾ける。ふわりとレモングラスの香りが漂い、結衣の髪が肩先でやわらかく揺れる。その横顔は、どこか期待に満ちているようだった。
「ねえ、月村くん。織姫と彦星って素敵だよね。年に一度しか会えないなんて切ないけど、それだけ特別ってことだよね」
結衣は目を輝かせてそう言い、自分の短冊を笹の枝に結びつける。結び終えた手がほんの少し震えているのに気づき、陽太は思わずその仕草を目で追ってしまう。
その瞳は、まるで夜空の星のように澄んでいた。
「月村くんも、誰か特別な人とかいるの?」
突然の問いに、陽太は思わず肩をすくめてしまう。
「そんなの、いないよ」とそっけなく答えながらも、心の奥では琴音のことがふっと浮かぶ。
(特別な人……琴音はどうなんだろう……)
陽太は短冊を結んだ笹の葉を見上げ、ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じていた。桜井はそんな陽太の横顔をじっと見つめ、短冊をそっと指先で揺らす。その仕草は、まるで自分の気持ちを風に乗せて伝えようとしているかのようだった。
しばらく陽太の反応を観察していた桜井は、少しだけ口を尖らせて不満げな表情を見せる。その唇の端が、ふっと揺れる。
けれど、すぐに明るい声で「じゃあ、いつか見つかるといいね!」と笑い返した。その笑顔は、窓から差し込む光を受けて、どこか儚げに見えた。
陽太はその横顔を横目で見ながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。
やがて桜井が席を離れると、教室のざわめきが少し遠のいたように感じられた。陽太は短冊を笹に結び終え、静かに息を吐く。指先には、紙の感触と、ほんのり汗ばんだぬくもりが残っていた。
ふと窓の外に目をやる。校庭の前に揺れる七夕飾りが、夕方の光にきらきらと輝いている。西日が教室の床に長い影を落とし、笹の葉の影が机の上で揺れていた。
陽太はその景色をじっと見つめながら、胸の奥に芽生えた気持ちを確かめる。
「琴音……今、何してるんだろう。また会えたなら――」
声には出せないけれど、心の中でそっとつぶやく。自分でも気づかないうちに、琴音への想いがどんどん膨らんでいくのを感じていた。短冊には書けなかったけれど、秘めた願いが、胸の奥で静かに光り続けている。
窓の外の七夕飾りが、風に揺れながら夕焼け色に染まっていく。陽太はその光景を目に焼き付けるように、しばらく動けずにいた。




