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こいゆび、ひみつ  作者: 地熱スープ
来栖琴音の章
2/21

公衆浴場の出来事

湯乃花町に引っ越してから一週間。

日曜日の朝、琴音はゆっくりと目を覚ました。

カーテン越しに差し込む朝の光が部屋を淡いオレンジ色に染めている。

その柔らかな光に包まれながら、琴音は深呼吸して体を伸ばした。


新しい環境にも少しずつ慣れ始めてきた。

学校で数日過ごし、クラスメイトたちとも挨拶を交わすようになった。

町中を歩いてみれば、おぼろげながら道筋も頭に入ってきた。

それでも、この町にはまだ知らないことばかりで、毎日新しい発見に満ちていた。


***


「琴音、起きた?」


階下から母・美佐子の声が聞こえてきた。


「はーい」


琴音は返事をしながらゆっくりとベッドから起き上がる。

新しい環境に少しは適応してきているものの、不慣れな通学路や新しい学校生活には緊張感が伴い、体には疲れが溜まっている。休日だというのに完全にはリラックスできない自分に気づきながら、階段を降りていった。


キッチンでは、美佐子が眉間にしわを寄せながら電話を握っていた。

その顔を見るなり琴音は足を止める。


「あのね、琴音。お風呂が故障しちゃったみたいなの。」


「え?」


突然の知らせに琴音は目を丸くした。


「修理屋さんには頼んだけど、今日中には直らないみたい。それでね、近所の公衆温泉に行こうと思うんだけどどう?」


公衆温泉。それは琴音にとって未知の領域だった。

都会育ちの彼女には、人々と同じ空間で過ごすことになぜか抵抗感があった。


「公衆温泉…?」


「そうよ、『湯乃花温泉』っていうところ。この町では有名な場所なの。せっかくだから楽しんできたら?」


午後になり、美佐子は忙しい手続きを理由に琴音だけ先に行くよう促した。


***


少し冷たい春風を感じながら、一人で湯乃花温泉へ向かう道すがら、小さな花々が咲き始めていることに気づいた。


この町ならではの穏やかな空気だ。

でも、その穏やかさとは裏腹に胸には不安が渦巻いている。


一人で温泉へ向かうことへの戸惑い。

しかし、この町で新しい経験を積むことこそ、自分自身を変える一歩になるかもしれない。そう思いながら、琴音は足元を見る。

そして、一歩ずつ前へ進み始めた。


古びた木造建物が、温泉街の中心に堂々と佇んでいる。

黒ずんだ木目や軒先から漂う湯気。

そして暖簾には力強い筆文字で「湯乃花温泉」と書かれていた。

その佇まいから、この場所が長い歴史を持つことが伝わってくる。


近づくにつれ、硫黄の香りがふわりと鼻を刺激した。

少しツンとする匂いだが、その奥にはどこか懐かしいような温もりも感じられる。


「これが温泉の匂いなのかな…」


不思議な匂いだが、この町ならではの空気なのだろうと思うと少しだけ心が和らぐ。


緊張しながら建物に足を踏み入れると、中から漂う湿った熱気に包み込まれるようだった。受付で料金を支払い、脱衣所へ向かう。


そこでは地元らしい女性たちが談笑しており、その自然体な様子に琴音は少し圧倒された。自分だけ場違いな気がして、肩をすぼめながらそっと着替え始める。


浴場への扉を開けると、一瞬で視界いっぱいに白い湯気が広がった。

湿った熱気が肌にまとわりつき、琴音は思わず息を呑む。

岩で囲まれた大きな湯船。

その表面から立ち上る湯気は天井近くまで届き、この空間全体を包み込んでいるようだった。


都会で見慣れた銭湯とは全く違う非日常的な光景。

その圧倒的な雰囲気に琴音は立ち尽くした。


「すごい…」


琴音は思わずつぶやいた。


身体を洗い、おそるおそる湯船に浸かる。

瞬間、温かな湯が肌にまとわりつき、まるで重たい疲れが湯の中へ溶け込んでいくようだった。

琴音は思わず「あぁ...」と声を漏らす。その心地よさは都会では味わえなかったものだ。


「気持ちいい…」


目を閉じると、湿った空気が肌に優しく触れ、耳には湯船から立ち上るかすかな音だけが響いている。都会から離れた新しい環境で感じていた孤独や緊張。それらが湯の温もりとともに少しずつ薄れていく気がした。


時間が経ち、浴場はほぼ空になった。静寂に包まれる中、大きな湯船から立ち上る白い湯気は天井近くまで届き、この空間全体を包み込んでいるようだった。

琴音はその中でゆったりとした時間を過ごし、自分自身と向き合うひとときを楽しんだ。


そのとき、不意に浴場の静寂を破るような音が響いた。

ドアが勢いよく開く音だ。琴音は驚いて目を開けた。


湯気越しに見えたのは、小学校高学年くらいの男の子だった。

彼は浴場内に立ち尽くし、琴音と目が合うなり一瞬驚いたような表情を浮かべた。

戸惑いと幼さが混じったその顔。

それでも何も言わず、彼はそのまま中へ入ってきた。


琴音は声を出すことができなかった。「ここ女湯だよ!?」と言いたい気持ちが胸に込み上げる。

しかし、その言葉は喉元で止まり、唇は固く閉ざされたままだった。

代わりに心臓だけが激しく鼓動している。


男の子は頭から湯をかけて髪を洗い始めた。

その仕草にはどこかぎこちなさがあり、泡だらけになったタオルで背中を拭う手つきには幼さが感じられる。


琴音は湯船に身を沈めながら、その様子をそっと見つめていた。

立ち込める湯気越しにぼんやりと浮かび上がる細い腕や背中。

その動きは静かな空間に溶け込むようだった。

浴場にはほぼ誰もおらず、その時間だけがゆっくりと流れている


「なんでこんな風に見ちゃうんだろう…」


琴音は心臓が激しく鼓動しているのを感じた。

視線を逸らそうとしても、ふとまたその姿へ戻ってしまう。まるで磁石に引き寄せられるようだった。


初めて見る異性の体。

それは小さい頃お父さんの姿をちらりと見た記憶とは全く違っていた。

胸の奥では得体の知れない感情が渦巻き、それが驚きなのか好奇心なのか、自分でもわからなかった。


男の子は体を洗い終えると湯船へ向かった。その瞬間、琴音は湯船から飛び出すように立ち上がった。自分でも何をしているのかわからない。ただ、この場から早く離れたいという気持ちだけが彼女を突き動かしていた。


慌ててタオルで体を拭きながら、脱衣所へ向かう足取りは自然と速くなっていた。その足音だけが静かな浴場に響き渡り、琴音の鼓動と共鳴するようだった。


鏡の前に立つと、自分の顔が赤く染まっているのがわかった。琴音はその姿をじっと見つめながら、胸の高鳴りがまだ収まらないことに気づいた。


「どうして…こんな気持ちになるんだろう...」


鏡越しに映る自分の瞳には微かな揺らぎが宿っている。その瞳には戸惑いと興奮が入り混じり、自分自身でも理解できない新しい感覚が胸を締め付けていた。


初めて感じるこの胸のざわつき。それはただの日常とは違う、未知なる世界への扉が静かに開かれるような瞬間だった。


「どうしよう…」


琴音は家へ帰る道すがら、さっきの出来事を思い返していた。

頬の熱さを隠すように顔を伏せながら足早に歩き続ける。

その道中、心臓のドキドキだけが耳元で響いていた。


***


玄関のドアを開けると、美佐子の声が聞こえてきた。


「お帰り、琴音。ごめんね、結局合流できなくて。」


「ただいま…」


琴音は小さな声で返事をしながら靴を脱ぐ。その手は微かに震えていて、自分の心がまだ乱れていることに気づいた。


リビングに入ると、美佐子が笑顔で迎えてくれる。


「温泉、どうだった?楽しかった?」


その問いかけに胸が締め付けられるような感覚がした。鼓動は早まり、言葉は喉元で止まってしまう。琴音は母親と目を合わせることができず、視線を床へ落としたまま小さく答えた。


「う、うん...良かったよ。」


本当のことなんて言えない。あの出来事も、この胸のざわつきも、自分でも説明できない。ただ頬が熱くなる感覚だけが残り、それ以上何も言えなかった。


「そう、良かった。」


美佐子は安心したように言ったが、琴音の様子を不思議そうに見つめていた。


「顔が赤いけど、大丈夫?湯あたりしてないわよね?」


「え?あ、大丈夫…ちょっと歩いて暑くなっただけ。」


琴音は慌てて答えた。視線を逸らしながら言葉を繕う。本当の理由なんて言えるはずもない。


「じゃあ、ちょっと休んでくるね。」


母親から視線を避けるように立ち上がり、そそくさと部屋へ向かった。

階段を駆け上がる途中でも、胸の高鳴りは止まらない。


その夜、薄暗い部屋でベッドに横たわった琴音は天井を見つめていた。

頭にはさっきの出来事が何度も浮かび上がり、そのたびに頬が熱くなる。


「なんで…あんな風に感じちゃったんだろう...」


枕に顔を埋め、自分自身でも理解できない気持ちと向き合う。その胸のざわつき。それはただ戸惑いだけではなく、どこか心地よさすら伴っていた。


異性への意識。それは琴音にとって、新しい扉が開かれる瞬間だった。

しかし同時に、その感覚は琴音を混乱させた。この新しい感覚にどう向き合えばいいのか。

答えは見つからず、そのたびに胸がざわついていた。


窓の外では虫たちが囁き合うような音が響き、その静けさが琴音の心に染み込んでいく。この町で始まった新しい生活。そして、自分でもまだ理解できない、新しい感情。それは戸惑いと興味が入り混じった、不思議なものだった。


これからの日々。未来への期待と未知への戸惑いが交差する中で、琴音は静かに目を閉じた。


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