満たされた帰り道
試合が終わると、グラウンドには夕方の風が吹き始めていた。
西の空は茜色に染まり、芝生の上には長い影が伸びている。
両チームの選手たちは汗だくのまま控え室に戻り、帰り支度を始めていた。陽太のチームは惜しくも引き分けだったが、みんなが肩を組み、泥だらけの顔で笑い合っている。その達成感に満ちた声が、グラウンドに心地よく響いていた。
観客席も少しずつ人が減り、琴音はベンチに座ったまま、まだ余韻に浸っていた。
(陽太くん……本当に一生懸命だったな)
「琴音、これから私たちファミレスだけど、みんなで集まって打ち上げするけど、一緒にどう?」
葵がタオルで首筋を拭いながら、明るい声で誘ってくる。髪の毛の先からも汗が滴っていて、今日一日を全力で過ごしたことが伝わってくる。
「……ううん、今日はこのまま帰るね」
琴音は小さく首を振り、視線をグラウンドに残したまま答えた。指先でタオルの端をいじる。
「そっか、用事でもあるの?」
「ううん、特にないけど……今日は、なんだかこのままがいいの」
「ふーん、まあ今日も良いもの見れて満足したのかな」
葵は冗談ぽく笑い、琴音の肩を軽く小突く。
「葵ちゃんはすぐそういうことを言う」
琴音は唇を尖らせて言い返すが、その頬はほんのり赤い。
「まあ私も琴音との約束果たせて良かったよ。で、どうだった?陽太の裸は」
「もう……」
琴音はさらに膨れっ面になり、タオルで頬を隠す。
でも本当は、陽太の裸ではなく、ピッチで輝いていた彼の姿を見られたことが、何より嬉しかった。
葵はニヤニヤしながら手を振る。
「じゃあ気をつけて帰ってね!」
「うん、ありがとう」
夕暮れのひんやりとした風が、汗ばんだ琴音の首筋を優しくなでていく。グラウンドの向こうで、陽太の笑い声がまだ微かに聞こえている。
琴音は胸の奥に小さな灯りを抱えながら、ゆっくりと帰り道に歩き出した。
***
市民グラウンドを離れ、住宅街の静かな道をひとり歩く。夕焼け空が西の空を茜色に染め、アスファルトの上に伸びた自分の影が、ゆらゆらと揺れていた。蝉の声が遠くで響き、どこかの家からカレーの匂いが流れてくる。
(あの笑顔だけで、十分――)
琴音はふと立ち止まり、そっと空を見上げる。頬に夕風が触れ、汗ばんだ肌がひんやりと冷えていく。
陽太がゴールを決めた瞬間、仲間たちと肩を組んで見せたあの笑顔。
汗と泥にまみれた顔が、今までで一番まぶしくて、胸の奥に小さな灯りがともるような温かさが広がる。
今日、陽太に話しかけたわけでも、特別な出来事があったわけでもない。それでも、ピッチで全力で走る陽太の姿や、仲間と笑い合う無邪気な表情を、遠くから見守ることができた――そのことだけで、胸がいっぱいになるほど幸せだった。
「好きな人を応援できて、その笑顔を見られるだけで、こんなに満たされるんだ……」
小さくつぶやきながら、鞄の中の応援タオルをそっと撫でる。指先に残る布の感触と、昨夜の自分の頑張りが重なって、自然と頬がゆるむ。
「好きな人……」
自分の声が思いのほか大きく響いて、琴音ははっとして立ち止まる。
でも、胸の奥にぽっと小さな灯りがともるような、静かな幸せが広がっていく。
家までの帰り道、琴音は何度も夕焼け空を振り返った。オレンジ色の光が髪や制服をやわらかく染め、影が長く伸びていく。
胸にあふれる幸福感を抱えながら、静かな足取りで歩き続ける。けれど、心の中はどこか軽やかだった。