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こいゆび、ひみつ  作者: 地熱スープ
募る思い
18/21

観戦への誘い

六月中旬から下旬、梅雨の合間の晴れ間が続くある日の放課後。琴音は葵と肩を並べて、学校からの帰り道を歩いていた。


湿った空気の中、二人はゆるやかに会話を交わしながら、気づけば公衆浴場の前に差しかかっていた。

ガラス戸の向こうに見える白いタイル、微かに漂う湯気と石鹸の匂いが、琴音の胸に陽太との記憶を鮮やかに蘇らせる。


「そういえば、あの約束まだ果たせてなかったね」


突然、葵が立ち止まり、くるりと振り返る。その横顔はどこか悪戯っぽい。


「あの約束……?」


琴音は首を傾げ、記憶を手繰る。


(なんだっけ……?)


「ほら、前に言ってたじゃん。『男の子の裸みたい』って」


「えっ……!」


琴音は思わず立ち止まり、頬に熱が集まる。耳の奥までじんじんと熱くなり、心臓が跳ねる。


――ここに引っ越してきてすぐのこと。公衆浴場を利用したら小学生高学年くらいの男の子が入ってきて、思わず目をそらせなかった。

その後、葵に全部打ち明けたことまで、頭の中に鮮やかによみがえる。


(でもそんな言い方……本当にしてたっけ?)


葵はにやりと笑いながら、琴音の反応を楽しんでいる。琴音は頬に手を当て、視線を泳がせた。


「今度の日曜日、陽太のサッカーの試合あるんだけど、観に行かない?」


「えっ?」


琴音は一瞬驚いたが、その提案に胸がふわりと弾むのを感じた。


「陽太のチーム、星見ユナイテッドって、去年ベスト4だったんだよ。今年も強いんだって」


葵が得意げに続ける。


「あいつ、最近フォワードに抜擢されたしさ」


「しかもさ、汗かくとユニフォームの上を脱いだりするから、陽太の裸を見るチャンスだよ?」


その無邪気な笑顔に、琴音もつられて笑ってしまう。


「ひまだから…行ってみてもいいかも」


わざとそっけなく言いながら、心の中では期待が膨らんでいく。


(陽太くんと一緒に家族風呂に入ってからは、顔を合わせてもほんの一瞬だけ。直接会う勇気はまだ出ないけど、遠くからなら――それくらいの距離が今の私にはちょうどいい気がする。)


でも、心の奥でまたあの女の子――桜井結衣も来ているかもしれない、という不安がじわりと広がる。


(もし来てたら……私、どうすればいいんだろう)


それでも、やっぱり会いたい。


葵は表向きは軽い誘いのように振る舞っていたが、実は陽太の保護者として試合の手伝いに参加する予定で、同年代の話し相手がほしいという本音を隠していた。


琴音は、葵の横顔をちらりと見やりながら、自分の胸の奥に再び陽太と向き合う日への淡い期待が、静かに芽生えていくのを感じていた。


(大丈夫、遠くからなら……きっと平気)


***


日曜日の朝。琴音は、目覚ましが鳴る前にぱちりと目を覚ました。窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。


カーテン越しの光が部屋をやわらかく照らす。胸の奥がそわそわと落ち着かない。


「バレないかな……」


鏡の前で小さくつぶやきながら、昨日の夜こっそり作った手作りの応援タオルを鞄にしまう。指先にはまだ布用ボンドの感触が残っていて、ほんのり甘い香りが鼻をかすめた。


タオルの端をそっと撫でながら、琴音は自分の頬がほんのり熱くなっているのに気づく。


(陽太くん、気づいちゃうかな……)


遠くからでも陽太の姿を探せることに、胸がどきどきと跳ねる。

けれど同時に、もし桜井結衣がそばにいたら――そんな落ち着かない気持ちが、心の奥でひそかに波紋を広げていた。


市民グラウンドは、すでにサッカー少年たちと保護者の熱気で賑わっていた。


芝生のフィールドは広々としていて、端には白線がくっきりと引かれている。簡易ベンチやテントが並び、遠くには小さなスコアボードや給水用の蛇口も見えた。

グラウンドの周囲には桜の木が並び、春には花びらが舞うのだろう――そんな光景を想像する。


***


琴音がグラウンドに到着すると、葵が少し照れくさそうに手を振った。

昨夜、葵から電話がかかってきて、陽太のチームの手伝いを一緒にしてほしいと頼まれていた。


「ほんとごめん琴音。騙し討ちみたいなことしちゃって」


「え、そんなこと気にしなくていいよ。私も何か役に立てるなら嬉しいし」


琴音が笑いながら答えると、葵はほっとしたように息をついた。


「本当?よかった……。こういうの、私と同年代の子なんていないからさ……ちょっと心強いんだよね」


葵は少しだけ声を落として、素直な気持ちを打ち明ける。その横顔を見て、琴音は思わず微笑んだ。


受付で陽太のチームの手伝いを頼まれた。ビブスを畳む手がぎこちなく、給水ボトルを並べるたびに指先が少し震える。それでも、琴音はできるだけ丁寧に作業をこなした。


葵は慣れた手つきでボトルを並べつつ、時おり「大丈夫?」と小声で気遣ってくれる。そのたびに琴音は「うん」と小さく頷き、葵に向かってそっと微笑み返す。


陽太とニアミスするかと思われたが、琴音には彼がどこにいるのかわからなかった。選手たちは皆同じユニフォームを着ていて、遠くからでは見分けがつかない。


「お疲れ、琴音。こっち、もう終わったから観客席で休憩しようよ」


葵が明るく手を振る。その指先には、作業でほんのり赤くなった跡が残っていた。


「うん……ありがとう」


琴音は観客席の端に腰を下ろし、膝の上で応援タオルを指先で撫でる。胸の奥がじんわりと熱くなった。


「こちらこそ、今日ありがと」


葵はにっこり笑い、チームのために用意してあったスポーツドリンクを琴音に手渡す。


「これ、冷えてるから飲んで。今日は暑いし、無理しないでね」


「ありがとう、葵ちゃん……」


ピッチの向こう側で、陽太がチームメイトと並んでいる。ユニフォーム姿の陽太は、普段よりもずっと大人びて見えた。逞しい腕や日焼けした首筋に、琴音の視線が自然と引き寄せられる。思わず息を飲み、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


「いよいよ始まるみたいね」


葵は隣でタオルで首筋の汗を拭き、ごくりとスポーツドリンクを飲んでいる。その横顔は、どこか誇らしげだ。


「……そうだね」


琴音は応援タオルをぎゅっと握りしめる手が微かに震えた。鼓動が耳の奥で高鳴る。


試合が始まると、陽太はピッチの上で誰よりも大きな声を出し、仲間に指示を飛ばしていた。


「右!もっと前に!」


声は澄み渡る空に響き、仲間たちの動きにも力がこもる。


ボールを追いかけ、相手と激しく競り合う陽太の姿は、普段の無邪気な少年とは違う、頼もしさと真剣さに満ちていた。ユニフォームはすぐに泥だらけになり、額を伝う汗がまぶたに滲む。


(絶対に負けたくない――)


陽太は奥歯を噛み締めながら、ピッチを駆け抜ける。


ゴール前での激しい攻防。陽太が無意識にシャツの裾をまくり上げると、引き締まった腹筋がちらりと覗いた。

太陽の光が汗に反射して、彼の肌をきらりと輝かせる。


「……陽太くん」


琴音は思わず小さく呟いた。頬が熱を帯び、指先がじんわり震える。応援タオルを膝の上でぎゅっと握りしめ、視線は陽太の一挙手一投足を追い続ける。


「お、琴音、ちゃんと見てた? あいつ、ああいう時だけはカッコつけるんだから」


葵が茶化すように笑いかける。その声に琴音ははっとして、慌ててタオルで顔を半分隠した。


「や、やめてよ……」


声が少し震え、耳の奥で自分の心臓の音が響く。


ピッチの中で、陽太はチームメイトと声を掛け合い、真剣な表情で走り続けている。泥だらけの膝、日焼けした腕、額から流れる汗――どれも琴音の今までで知っている陽太とは少し違って見えた。


(こんな姿の陽太くん、初めてかも……)


ボールを蹴るたび、陽太の汗が夕陽にきらめいて弧を描く。その動き一つ一つが、まるでスローモーションのように琴音の目に焼き付いていく。


「こうやって応援するの、すごく楽しい……」


琴音はぽつりと呟いた。今まで見たことのない陽太の姿に、新鮮さと誇らしさが胸を満たす。けれど、その奥にほんの少しだけ、手の届かない距離への切なさも混じっていた。


(陽太くん……みんなに必要とされてるんだ)


タオルを握る手にじんわりと汗が滲む。その温もりの中で、陽太への想いが静かに膨らんでいくのを、琴音ははっきりと感じていた。



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