あの日の余韻『陽太』
蝉時雨が校庭を揺らす昼休み。
陽太は鉄棒にぶら下がり、ぼんやりと空を見上げていた。手のひらに伝わる鉄の熱が、あの日の公衆浴場の湯船の縁を思い出させる。
砂埃が舞うグラウンドでは、男子たちが円陣を組んで騒いでいる。友達の笑い声が遠くで響く。
隣にはカラフルなジャングルジムやブランコ、うんていが並び、低学年の子たちが「見て見て!」と順番を争っていた。
グラウンドの片隅では、同じクラスの女の子たちがゴム跳びに夢中だ。
陽太は鉄棒から手を離し、土の上に足をつけた。背中には遊び疲れた汗のシミがじんわりと広がっている。
(あの時も、こんな風に熱かったっけ……)
鉄棒の感触と蝉の声、夏の匂いが、遠い日の記憶と重なっていく。
(もうすぐ午後の授業か……)
***
「おい月村! こっち見ろよ!」
クラスメイトの男子が、表紙にグラビアアイドルが大きくプリントされた雑誌をひらひらと振っている。光沢紙の表紙には、日焼けした肌の女性が大胆な水着姿でポーズをとり、太陽の光を受けて不自然にテカっていた。雑誌の角は少し折れていて、「特大ピンナップ付き!」という赤い文字が隅でやけに目立っている。
「すげー、これ本物?」「マジで拾ったのかよ!」
男子たちは雑誌を囲み、肩を寄せ合ってページをめくるたびに「うわ、やべえ」「見ろよこれ!」と興奮した声を上げる。ページの間から折りたたまれたピンナップがちらりと覗き、誰かが「見せろよ」と慌てて手を伸ばした。
「この人、めっちゃ可愛い!」と一人が指差すと、他の男子も顔を赤らめて身を乗り出す。雑誌の中身が見えるたび、校庭の一角だけが妙な熱気とざわめきに包まれる。
陽太は少し離れた場所からその輪を見つめていた。手のひらにじっとりと汗がにじみ、視線をそらしながら喉の奥で唾を飲み込む。
(やっぱり、ああいうの気になる。でも、今は近づきたくない――なんでだろう。)
ふと、琴音の背中が脳裏に浮かんだ。公衆浴場で見た、湯気に包まれた白い肌。湯船から立ち上がるとき、水滴が肩から背中へと流れ落ち、濡れた髪がふわりと揺れる。ほのかにシャンプーの香りがした気がして、陽太の心臓がどくどくと高鳴る。
胸の奥がじわじわと熱を帯び、息が浅くなる。周囲の男子たちの笑い声が遠のき、耳の奥では自分の鼓動だけが響いていた。
「月村くんは見に行かないの?」
陽太は声に気づき、反射的に振り返った。跳ねるような動作に、鉄棒がぎしりと揺れる。白いシフォンのワンピースが風に舞い、陽に透けた裾がきらめいていた。
桜井結衣は、校庭の喧騒から切り離されたように、淡いピンクの日傘を傾けて立っている。レモングラスの香りがふわりと漂い、長いまつげに縁取られた大きな瞳が光を受けてきらきらと輝いていた。
結衣はまっすぐ陽太を見つめ、日傘の影がその表情を柔らかく包み込む。ほんの少し上目遣いで、陽太の返事を待っている。
陽太は一瞬、言葉に詰まった。
(桜井……なんでオレに話しかけてきたんだ?)
「……興味ない」
そう答えて鉄棒から離れ、足元の砂を軽く蹴る。手のひらには鉄の錆の匂いと、かすかな汗の感触が残っていた。
「そうなんだ。……月村くんって、そういうところ真面目だよね」
結衣の澄んだ声が、男子たちの騒ぎの中で静かに響いた。日傘の影が半分だけ彼女の表情を隠している。涼しげな微笑みが浮かび、その笑顔はどこか嬉しそうだった。陽太は視線を少し泳がせる。
(真面目……なのかな。どう返せばいいんだ、こういうとき)
「別に真面目とかじゃない」
小さくつぶやくと、胸の奥で鼓動が跳ねるのを感じた。
「その匂い……」
思わず問いかけていた。結衣からふわりと漂うレモングラスの香りが、夏の空気に溶け込んでいる。
「ああ、これ……お母さんがフランスのお土産にくれたの」
結衣は嬉しそうに、鞄のポケットから小さなくまの形をしたボトルを取り出した。「アルコールなしだから、学校でもつけていいって」
くまのボトルを陽の光にかざす。ガラス越しに淡い緑色がきらめき、結衣はどこか誇らしげに目を細めた。
陽太はその視線から逃れるように、グラウンドの端にあるクスノキの影へと歩き出した。足元で蝉の抜け殻がぱりっと潰れる感触が、なぜか琴音の指の温もりを思い出させる。
(なんで今、こんなことを……)
「月村くんは私と同じ班だよね。今日の放課後、班の発表会の打ち合わせを私の家でするの。来てくれる?」
結衣の声が背中を追いかけてくる。陽太は地面に転がった松ぼっくりをつま先で蹴り上げ、宙に弧を描く軌跡をぼんやりと見つめた。
「……うん」と小さく頷く。面倒だと思ったはずなのに、結衣の期待に満ちた瞳を見て、拒む言葉が喉に引っかかった。
今回の発表会は、SDGsの「食品ロス削減」がテーマ。班ごとに課題を調べ、実際にできることを考える。
「月村くんの家、飲食店やってるんだよね? お店で出る野菜の皮とか茎とか、どう活用してるの?」
「うちは……スープにしたりして自宅のおかずになるかな。父さんが『無駄にしないのがプロの仕事だ』って」
そう言いながら、厨房で野菜の皮を剥く父の背中がふと脳裏に浮かぶ。包丁のリズミカルな音と、スープの香り。
「へぇ、それって立派なリサイクルだね! 私も今度、家でやってみようかな」
結衣はノートに「家庭でできる食品ロス対策」「レシピ共有」と走り書きしながら、パッと顔を上げた。
「せっかくだから、みんなで実際に簡単な料理も作ってみようよ! 発表の時、写真やレシピも一緒に出せたら、きっとインパクトあるよね」
結衣が身を乗り出して提案する。陽太はその勢いに押されながらも、頷いた。
「じゃあ、放課後はうちに集合ね。月村くん、ちゃんと協力してね?」
チャイムが校舎に響き渡る。
グラウンドでは、男子たちがまだ雑誌を囲んで騒いでいる。
陽太は少し距離を置いてその輪を見つめ、胸の奥に小さなもやを抱えたまま、そっと息を吐いた。