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こいゆび、ひみつ  作者: 地熱スープ
募る思い
15/21

あの日の余韻『琴音』

六月の教室に湿った風が流れ込む。窓際のカーテンがゆらりと揺れ、机の上のプリントの端が波打った。


(梅雨って、体までじっとり重たくなる……)


琴音は鉛筆を転がしながら黒板を見つめていたが、先生の声は耳の奥でぼやけている。


窓の外では青いアジサイが雨上がりの光を浴び、葉の裏から滴り落ちる水の粒がガラス越しにきらりと光った。


「はい、進路希望調査のプリント配るぞ。ちゃんと家で書いて、来週までに出すように」


担任の声が教室に響き、生徒たちが一斉にざわめく。


「めんどくさいね」「また進路かぁ……」


プリントが前の席から順に回され、紙の擦れる音や小声のやりとりが耳に入る。


琴音のもとにも一枚のプリントが回ってきた。紙は少し湿気を帯びていて、端がふやけている。ぼんやりと名前を書く欄を見つめたまま、ふと窓の外へ視線を移した。


(陽太くん、今なにしてるんだろ……)


 ふいに、公衆浴場の湯気が脳裏に浮かぶ。乳白色の湯船から立ち上る蒸気の向こうで、陽太の肩甲骨がきゅっと引き締まった瞬間。彼が振り向いた時の、子供っぽい笑顔と大人びた目元のコントラスト。


思い出すだけで、鎖骨のあたりがじわりと熱を帯びる。息が浅くなり、唇が自然と湿り気を求めた。


「ねえ、三年上の先輩と付き合ってる子いるじゃん? あれってちょっとロリコンっぽくない?」


「でもさ、最近年の差婚って増えてるってテレビで見たよ。有名人とか、すごい年下の奥さんと結婚してるし」


「ほら、芸能人ってそういうの多いよね」


「でもさ、女が年上だとなんか変な目で見られる気がする。有名な女優さんが年下の旦那さんと結婚したとき、ネットで色々言われてたし」


「ほんとそれ。男が年上だと“お金目当て?”って言われるし、女が年上だと“ロリコンの逆?”みたいに言われるし」


「あと、アイドルとか若い子が好きって言ってる芸能人も多いよね。そういうの、ちょっと引く」


「芸能人なら許されるのかなぁ。普通の人だったら絶対変な目で見られるのに」


斜め後ろの席から聞こえてくる女子たちの会話が、琴音の耳にじわじわと染み込んでくる。気づけば、鉛筆を握る手に力が入っていた。


(なんで、こういう話だけはちゃんと聞こえちゃうんだろ……)


胸の奥がきゅっと締めつけられる。指先がじんわり湿って、ノートに小さな汗の跡がにじんだ。


(私、もうすぐ十八。陽太くんは、まだ十一。来年には私は高校卒業で、陽太くんは……まだ小学生なんだ)


その現実が、急に胸に重くのしかかる。窓の外のアジサイが、さっきよりも遠く、ぼんやりと霞んで見えた。


「おいおい、みんな真面目に聞いてるのかー?」


教卓を叩く音が響き、教室の空気が一気に現実に引き戻される。進路指導のプリントが配られ、ざわめきが広がった。


「年の差の話から、進路の話か……なんだか現実的になりすぎて息苦しい」


琴音がため息をつこうとした瞬間、後ろから葵が身を乗り出し、肩をぽんと叩いた。その指先の温もりが、沈んだ気持ちを少し和らげる。


「琴音は進路、どうするの?」


葵は、いつもの淡々とした声で何気なく尋ねてくる。

琴音は少し考え、机の端をなぞりながら答えた。


「今、特にやりたいこともないし……。うーん、公務員になれる近くの短大とか、大学とか……かな」


口にした自分の将来像は、どこか他人事のようにぼやけていた。


「葵ちゃんはどうするの?」


葵はうーんと唸り、髪を指にくるくる巻きつけて天井を見上げる。――それは、彼女が何かを真剣に考えているときの癖だった。


「もしかして実家のお店、継ぐとか?」


琴音が尋ねる。葵の家は地元で有名な月村食堂だ。


「まさか。客商売は好きだけど、実家の店は継がないかなぁ……」


葵はプリントの余白に小さな花模様を描きながら答えた。指先が紙の上をすべるたび、淡い花が静かに咲いていく。


「ねえねえ、何盛り上がってんの?」


岡部透が突然、後ろからひょいと顔を覗かせた。葵の幼馴染で、クラスのお調子者。短く切った髪を無造作にかき上げ、落ち着きのない視線をきょろきょろと泳がせている。


「別に、アンタには関係ないし」


葵は即座に素っ気なく突き放す。


「冷たいなあ~。俺だって混ぜてよ」

岡部は肩をすくめて、堂々と琴音たちの机の隣に腰かけた。大げさな動きに、周りの何人かがちらりと視線を向けるが、本人はまったく気にしていない。


「わかった、進路の話だろ? 俺は断然、公務員。地方公務員を目指してんだ」


「だから聞いてないって」


葵は呆れたように返すが、口元がわずかにほころぶ。

琴音は思わず口元を手で押さえた。笑いをこらえきれず、喉の奥がくすぐったくなる。


(幼馴染って、こういう距離感なんだ……ちょっと羨ましいな)


「ところでさ、駅前に新しくできたカフェ知ってる? 『Cafe Annamirageアンナミラージュカフェ』ってやつ! 天井が全部ステンドグラスでさ、まるで教会みたいなんだよ!」


岡部は身振り手振りで熱弁する。葵は呆れたように頬杖をつき、ちらりと岡部を見上げた。


「岡部、モテもしないのに、よくそんな情報仕入れてくるよね」


「モテもしないは関係ないだろ、みんなで行こうぜ!」


「あんた一人で行ってきなよ」


葵はまた岡部に冷たく言い放つが、その視線はどこか楽しげだった。


岡部は気にする様子もなく、さらに畳みかける。


「たまには文化的な空間でお茶しようぜ!琴音ちゃんもそう思うだろ?」


琴音は無理に笑顔を作って頷いたが、頬の筋肉が少し引きつる。


(みんなで出かけるのも、たまにはいいかも……でも、やっぱりちょっと緊張する)


担任の先生がプリントを配り終えると、一瞬だけ紙の擦れる音が教室に残り、その後すぐにざわめきが広がった。


「はい、それじゃあ今日はこれで終わり。プリントは忘れずに持ち帰るように。気をつけて帰ってください」


先生の声が静かに響く。生徒たちは一斉に椅子を引き、机の中に荷物をしまい始めた。


琴音はプリントを鞄にしまいながら、小さく息を吐いた。

斜め前の葵が「じゃ、行ってみよっか」と声をかけ、イヤホンをしまいながら立ち上がる。


岡部は「よし、カフェ『Cafe Annamirage』に出発だ!」と大きな声で宣言し、机の上に鞄を放り投げる。


***


三人は教室を出て、廊下を並んで歩き始めた。

窓の外はすっかり夕方の色に染まり、廊下からは部活動に向かう生徒たちの足音や、放送委員のアナウンスがかすかに聞こえてくる。


琴音は一度だけ教室を振り返る。友達同士で「バイバイ」と手を振り合う姿や、プリントを鞄にしまいながら小さくため息をつく生徒が目に入る。

整然と並ぶ机と椅子、黒板の前に残されたチョークの粉、掲示板の時間割――それらが、静かに夕焼け色に染まっていた。


廊下から漏れる放送委員のアナウンスが、どこか遠い世界の出来事のように耳をかすめる。


西日が斜めに差し込み、床や机の上に細長い影を描いている。窓の外からは、部活動を終えた生徒たちの笑い声や、グラウンドでボールを蹴る音が微かに混じって聞こえてくる。


琴音は鞄の中からスマホをそっと取り出し、指先で画面をなぞった。待受には、あの日、陽太と待ち合わせた温泉街の風景写真。


(あの時の湯気、まだ指先に残ってるみたい……)


スマホの表面はひんやりしているのに、胸の奥に小さな火種が灯ったような感覚が広がる。


現実の夕焼けと、画面の中の思い出が静かに重なった。ほんの一瞬、時間が止まったような気がした。


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