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こいゆび、ひみつ  作者: 地熱スープ
ひみつ
14/21

二人のこれから

琴音は自宅に戻り、自室のベッドに腰掛けると、柔らかな布団の感触が背中に伝わった。その瞬間、今日の出来事が一気に胸に押し寄せてきた。ドアを閉めたばかりなのに、胸の奥で鼓動が速くなる感覚は止まらず、高鳴り続けている。


「はぁ…」


深いため息が漏れる。琴音は目を閉じ、家族温泉での光景を思い出した。


湯煙越しに見えた陽太の姿。その肩のラインや腕の筋肉――思い出すだけで頬が熱くなっていく。


「陽太くん…意外と体つきしっかりしてたんだな…」


琴音は小さく呟いた。その声には驚きとも照れくささともつかない感情が滲んでいた。


しかし、不思議なことに琴音の頭に浮かんでくるのは陽太の体だけではなかった。それよりも――これまで陽太と一緒に過ごした何気ない時間。


笑い合った瞬間や言葉を交わした記憶。それらが次々と胸に押し寄せてきて、その全てが今まで以上に特別なものとして心に刻まれていった。


特に、ミケを通じて初めて話した時の記憶が鮮明によみがえった。


琴音がミケを撫でようと手を伸ばしたものの、猫が嫌がって身を引く様子にどうしていいかわからず戸惑っていた時のことだった。


不意に背後から陽太の声が聞こえてきた。


「おい、それじゃミケ嫌がるぞ。」


その声は少し低くて落ち着いていて、不思議と安心感を与えるものだった。


振り返ると、陽太は少し面倒くさそうに眉間に皺を寄せながらも、その目にはどこか優しさが滲んでいた。


彼はミケのそばにしゃがみ込み、「こうやって撫でるんだよ」と教えてくれた。その手つきは驚くほど優しくて繊細で、ミケも気持ち良さそうに目を細めながら喉を鳴らしていた。


その光景に琴音は思わず微笑んだ。


「陽太くんって…あんな一面もあるんだな。」


胸の奥でじわりと温かい感覚が広がり、その瞬間だけ時間がゆっくりと流れているように感じた。


そして、猫を撫でながら微笑む陽太の表情を思い出す。いつもの無愛想な態度とは打って変わって、陽太の目は優しく輝き、唇の端はわずかに上がっていた。


その意外な一面に、琴音は心臓が少し早く鼓動するのを感じたのを覚えている。


「陽太くんって…可愛いなぁ」


そう思った瞬間、琴音は自分の言葉に驚いた。


「え?私、今なんて…」


琴音は自分の思考に驚き、頭の中が真っ白になるのを感じた。混乱と戸惑いが押し寄せてくる。陽太のことを「可愛い」と思ったのは初めてだった。それも、お風呂で裸を見た後に。


「これって…どういう気持ちなんだろう」


琴音はゆっくりと深呼吸しながら、自分の胸にそっと手を当てた。布地越しに伝わる心臓の鼓動は、自分でも驚くほど速く感じられる。陽太のことを考えるたびに、そのドキドキはさらに高鳴っていった。


「私、陽太くんのこと…」


言葉が続かない。好きなのかもしれない。でも、この『好き』って何だろう?友達の弟として?それとも…もっと特別な意味で?


琴音は目を閉じながら、自分自身に問いかける。


しかし答えは見つからない。



***


一方、陽太も自宅に戻り、玄関で立ち止まった。「ただいま」とつぶやいたが、その声は静まり返った家の中に虚しく吸い込まれていくようだった。返事はない。胸の奥には、小さな孤独感が広がっていく。


玄関には整然と並べられた靴。その中に父親の作業靴がないことに気づき、いつものように自宅併設の定食屋「月村食堂」で忙しく働いている姿が頭に浮かんだ。


月村家は築20年ほどになる木造二階建て。外壁は少し色褪せているものの、どこか温かみを感じさせる佇まいだ。


1階にはリビングとキッチン、そして居住スペースとは別に店舗への扉があり、その奥には厨房と客席が広がっている。


陽太は幼い頃から、この独特な構造と日常風景に慣れ親しんできた。鍋や包丁が奏でる音、厨房から漂う出汁の香り――それらはこの家ならではの日常だった。


しかし今、その音も香りもなく、ただ静寂だけが広がっている。この静けさが陽太には妙に重く感じられた。


日曜日だというのに、休む暇もなく朝から晩まで働き詰めの父親の姿が目に浮かぶ。店の奥から聞こえてくる食器が触れ合う音や、時折漏れ聞こえる父親の声。それらは忙しさに追われる父親の日常そのものだった。


陽太は胸に小さな痛みを覚えながら玄関に置かれた靴を見る。父親の作業靴はなく、自宅併設の定食屋「月村食堂」で働いている姿が頭に浮かんだ。


母親を早くに亡くした月村家では、父親が昼夜問わず定食屋を切り盛りしながら、一人で陽太と葵を育ててきた。その背中には疲労と責任感が滲んでいて、それを見るたびに陽太は胸が締め付けられる思いだった。


葵の靴もなかった。朝、バイトの助っ人を頼まれたと言っていたが、まだ帰っていないようだ。理由は分からない。ただ、葵もまた自分なりに忙しい日々を過ごしているのだろうと陽太は思った。



静まり返った家の中で、小さなミケの鳴き声だけが響いていた。その音はどこか寂しげで、陽太は無意識に猫用フードを補充する手を急いだ。ミケが足元にすり寄ってくると、その柔らかな毛並みに手を伸ばし頭を軽く撫でる。小さな喉音が聞こえ、その瞬間だけ心が少し和らぐ。


陽太はふっと息をついて立ち上がり、自室へと向かった。


居住スペースへ向かう途中で足を止めた陽太は、店舗側へと視線を向けた。扉越しに聞こえる微かな食器の音や厨房から漂う香り。それらは忙しく働く父親の日常そのものだった。姿は見えないものの、その存在だけは確かに感じられる。


もう一度、いつもより少し長く「ただいま」と声に出してから、陽太は自室へ向かった。


部屋に入ると靴も脱ぎっぱなしでベッドへと倒れ込んだ。柔らかな布団が背中に触れるたびに、今日という特別な時間が胸に押し寄せてくる。


湯煙越しに朧げに見えた琴音の姿――白い肌、なめらかな肩のライン、首筋へ続く曲線。それらが次々と脳裏に浮かび上がる。


「くそっ…なんであんなことばかり思い出すんだ。」


陽太は顔を枕に埋めながら、自分でも抑えきれない胸元でざわつく感覚と向き合っていた。


琴音と初めて話した時から感じていた違和感。ミケを撫でながら笑う琴音。その優しい声や仕草。それらすべてが頭から離れない。


「琴音って…なんなんだ?」


陽太は再び天井を見上げた。琴音のことを考えるたびに、胸の奥でじんわりとした温かさが広がる。それは心地よいようでいて、どこか落ち着かない感覚だった。


「嫌いじゃない…むしろ…」


言葉が続かない。好き?でも、それがどんな「好き」なのか?


陽太は自分の気持ちに戸惑っていた。今まで女の子についてこんなふうに考えたことはなかった。でも――琴音は違う。特別な存在だと感じる。


「俺…琴音のこと…」


言葉にならない感情が、陽太の中でゆっくりと形を作り始めていた。


二人とも、この新しい感情が「好き」という言葉で表現できるものなのかどうか、まだ確信が持てずにいた。しかし、それぞれ胸中には確実に何かが芽生えていた。


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