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それからさらに数日後、琴音は再び月村家を訪れた。玄関のチャイムを押すと、足音が近づく気配がした。ドアが開くと、そこには陽太が立っていた。
一瞬目を見開き、驚いたような表情で琴音を見つめる。その顔には戸惑いの色が浮かんでいたものの、その奥には微かな嬉しさも滲んでいるようだった。
「あ、琴音…」
陽太は少しぎこちない声で言った。
「こんにちは、陽太くん。突然来ちゃってごめんね。」
琴音は柔らかな笑顔で挨拶した。その表情に陽太は一瞬言葉に詰まりながらも、「ああ、葵は今いないけど…何か用事?」と早口で尋ねた。
「それなら、葵ちゃんが帰ってくるまでここで待たせてもらってもいい?」
琴音は控えめに頼んだ。その声はわずかに上ずり、視線も落ち着かない様子だった。
陽太は少し考え込むような表情を浮かべた。琴音はその間を待ちながら、「それなら、陽太くんの部屋で待たせてもらおうかな」と控えめに提案した。
その言葉に陽太は一瞬目を見開き、予想外すぎる提案に戸惑った様子だった。
しかし、胸の奥でざわつく感覚をごまかすように、「あ、ああ…いいよ」と答えた。その声はわずかに震えていて、言い終えた後、陽太は思わず視線を床に落とした。
***
陽太の部屋に入ると、琴音は周囲を見渡した。開きっぱなしになった教科書や床に転がったコントローラー。
机には未開封のお菓子袋まで置かれており、その生活感あふれる空間に琴音はどこか親しみやすさを感じた。
壁には地元サッカーチーム『湯乃花ブレイズ』のポスターが堂々と貼られ、その周囲には試合の日程表や選手名簿まで細かく書き込まれていた。
棚にはチームカラーのマフラーやミニチュアユニフォームが飾られており、陽太のサッカーへの熱意がひしひしと伝わってくる。
「陽太くんの部屋って意外と普通だね。でもサッカー好きなのはすごく伝わってくるよ。」
琴音は柔らかな笑顔でそう言った。その言葉に陽太は眉をひそめ、「普通ってどういう意味だよ?」と小さく反論した。その声にはどこか拗ねたような響きが混じっていた。
ぶっきらぼうに返事をしたものの、陽太の声には照れくささが滲んでいた。琴音の視線を感じるたびに胸がざわつき、自分でもどうしていいかわからず、落ち着かない気持ちを抱えていた。
琴音はベッドの端に腰掛け、部屋を見渡しながら静かに陽太へ視線を向けた。その穏やかな眼差しが、陽太には妙に居心地悪く感じられる。
陽太は机の椅子に座り、膝の上で手を組んだり解いたりしていた。その手元には湯乃花ブレイズのマスコットキャラクターのぬいぐるみが握られていて、無意識にそれを握ったり緩めたりしている。
その動作にはどこかぎこちなさがあり、琴音には彼が落ち着いていない様子がありありと伝わった。
「最近どう?」
琴音が優しく声をかけると、陽太は一瞬視線をそらした。
そして、「ど、どうもこうもあるか!」と声を荒げながら答えたものの、その言葉には隠しきれない照れくささが滲んでいた。
琴音はその様子に気づきながらも、「そっか。でも元気そうで良かった」と柔らかな笑顔で返した。その笑顔に陽太はさらに居心地悪くなり、視線を泳がせてしまった。
短い沈黙が二人の間に広がり、その間に時計の針が刻む音だけが耳元で響いていた。琴音はふと何か思いついたように目を輝かせ、軽く息を吸い込んで口を開いた。
「ねえ、私の…見てみたい?」
その曖昧な言葉に、陽太は目を見開き、「はっ!?何言ってんだよ!」と声を上げた。
胸の奥で何かが強く跳ねる感覚に戸惑いながらも、顔が熱くなり耳まで赤く染まっていることに気づいてしまう。
琴音は頬を赤らめながらも真剣な表情で続けた。
「陽太くんのことをもっと知りたいし…私のことも知ってほしいなって。」
その言葉に陽太は口をパクパクさせながら何も言えず、その場で固まってしまった。
「バカ!」
陽太はそう言い捨てたものの、その声にはどこか迷いが混ざっていた。そして視線を床へ落とし、再び言葉を失ってしまった。
琴音は陽太の様子を見て、急に自分の言動を恥ずかしく感じた。
「なんであんなこと言っちゃったんだろう…」と心の中でつぶやきながら、胸にはじわじわと自己嫌悪が広がっていく。
顔は熱くなり、胸の奥で鼓動が速くなる。まるで自分の心臓の音が部屋中に響いているような気さえした。
「私、何考えてたんだろう。陽太くんを困らせちゃった…」
琴音は自分の軽率さを悔やんだ。陽太との距離を縮めたいという気持ちが強すぎて、自分でも抑えきれなくなっていた。
そしてその結果、相手の気持ちを考える余裕すら失っていたことに気づいた。
同時に、陽太の反応にも戸惑いを感じていた。
「嫌がってるのかな…それとも…」俯いた陽太の表情には、ただ嫌がっているだけではない何かが隠されているように感じた。
その曖昧さに琴音は胸の奥でざわつきを覚えながらも、自分自身の気持ちがますます揺れていくのを感じていた。
***
二人の間には言葉が見つからないまま、時間だけがじりじりと過ぎていった。琴音は視線をさまよわせ、何か言おうと唇を開きかけては閉じる。
そのたびに胸の奥で焦りと後悔が渦巻き、考えがまとまらず、ただ指先をぎゅっと握りしめるしかなかった。
「謝ったほうがいいのかな…でも、本当はこの気持ち、伝えたかったんだ…」
琴音は自分自身に問いかけながら、後悔と素直な気持ちが交錯していることに気づいた。その答えは見つからないまま、胸にはじわじわと自己嫌悪だけが広がっていく。
重い沈黙を破るように、琴音は意を決したように立ち上がった。
「ごめんね…今日はもう帰るね。」
俯きながら小さな声で呟いたその言葉には、不安と後悔が隠しきれずに滲んでいた。ベッドの端から鞄を掴む手元は微かに震えていて、指先に力が入らない。
その仕草には、自分の気持ちを伝えられなかった悔しさと、陽太を困らせてしまったという思いが入り混じっていた。
部屋のドアに手をかけた瞬間――背後から布地を掴むような微かな音が聞こえた。それは陽太が何か言おうとしているような気配だった。
「……待てよ」
陽太の声は小さいながらも、その一言には迷いを振り払うような力強さが込められていた。
琴音が振り向くと、陽太は震える指先で彼女の薄いピンク色のカーディガンの裾をそっと摘んでいた。その仕草には幼い子供が親にすがるような頼りなさも感じられたが、彼自身の表情は真剣そのものだった。
琴音は思わず息を呑んだ。陽太から伝わる熱が、カーディガン越しにも感じられる。その熱さに胸元まで意識が集中し、自分でも気づかなかった鼓動が早まっていることに気づく。
今日陽太に会うために選んだ淡いブルーのワンピースと薄いピンク色のカーディガン。それらが今、この瞬間だけ妙に重たく感じられた。
陽太は顔を真っ赤に染めながら、額には薄っすらと汗が浮かんでいた。その目は琴音を見ることなく肩あたりに留まり、視線を合わせようとしているようで、それでもできない戸惑いが伝わってくる。
その曖昧な視線から、彼自身もどうしていいかわからない様子がありありと感じられた。
陽太の視線を意識するたび、琴音は自分でも気づかなかった鎖骨付近が微かに震えていることに気づいた。その震えは胸元へと広がり、静かな部屋には二人だけの緊張感が漂っていた。
***
二人の間には重い静寂が広がり、その空気は次第に熱を帯びているようだった。琴音は自分の心臓が胸を叩く音が耳まで響いてくるように感じる。
陽太が次に何を言うのか、その一言で全てが変わる気がして、息をすることさえ忘れそうだった。
陽太は口を開きかけては閉じ、視線を床へ落としたまま何度も唇を噛んでいた。その仕草には迷いと決意が入り混じっているようだった。
そしてしばらく沈黙した後、彼はかすれた声で呟いた。
「…明日、葵がバイトで助っ人頼まれたらしい。夕方5時から遅くなるって…」
その言葉に琴音は息を止めかけた。胸の奥で鼓動が雷鳴のように響き渡る。
「…うん、わかった。」
琴音は小さく頷きながら、その声には震えそうな緊張感が滲んでいた。
ドアノブに触れた瞬間、陽太の声が背後から追いかけた。
「…約束なんてするなよ。急に気が変わったりしたら…」
その言葉は一見脅すようにも聞こえた。しかし、その指先は微かに震えていて、不安や本音を隠しきれず曝け出しているようだった。
琴音は息を呑みながら振り返った。
「私、ちゃんと来るから。約束する。」
彼女は柔らかな笑顔で答えた。その笑顔には、自分でも抑えきれない決意と期待が滲んでいた。
階段を下りながら、琴音は自分が何を提案してしまったのかようやく実感した。膝には力が入らずガクガクと震え、手すりにしっかり掴まなければ前へ進むことさえ難しいほどだった。
でも同時に――初めて陽太の本心に触れたような気がしていた。胸の奥ではじんわりとした温かさが広がり、それが期待なのか不安なのか、自分でもわからない。
正午過ぎの陽射しを浴びながら家路につく琴音。その暖かな光は彼女の頬を包むようでありながらも、胸の奥で燃えるような感覚だけは消えることなく残っていた。