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こいゆび、ひみつ  作者: 地熱スープ
プロローグ
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プロローグ

春の日差しが柔らかく差し込む窓辺で、来栖琴音は深呼吸した。

目の前には湯乃花町特有の静かな景色が広がっている。

都会では見慣れなかった山々が朝もやに包まれ、その輪郭はぼんやりとしている。


「これが新しい日常なんだ…」


窓ガラス越しに自分自身を見つめながら、小声でつぶやいた。

淡いピンク色のワンピースは、この田舎町にも不思議と馴染んでいる気がした。

それでも胸には、不安と期待が入り混じった感情が渦巻いている。


窓辺には、小さな鉢植えのパンジー。都会で最後の日に買ったものだ。

「元気に育つかな...」そんなことを考えながら、琴音はそっとその葉先に触れた。


***


階下から母・美佐子の声が聞こえてきた。


「琴音、荷物の整理は終わった?」


「うん、もう少しで!」


琴音は返事をしながら、中身が半分ほど残ったダンボール箱に目をやった。

引っ越し作業は昨日から続いており、まだ終わりそうにない。

しかし、それ以上に彼女の心には、新しい学校生活への不安が重くのしかかっていた。


鏡に映る自分の姿を見つめながら、囁くように話しかける。


「友達、できるかな...」


都会では友達と笑い合う時間が当たり前だった。でも、この小さな町ではどうだろう?自分だけ浮いてしまうんじゃないかという不安が胸を締め付けた。


「琴音、晩ご飯よ!」


再び母親の声が響き、彼女は我に返った。


「はーい、今行くー!」


階段を軽く駆け下りると木材がきしむ音が響き、リビングには父・隆の姿があった。

テレビでは湯乃花町名物の温泉饅頭や桜並木など観光情報が紹介されている。

その景色に琴音は少しだけ興味を引かれた。


隆は黙々と画面を見つめていたが、琴音に気づくとわずかに表情を和らげた。

そして低い声で一言呟く。


「温泉か...。」


その言葉には懐かしさとも取れる響きがあり、琴音は父親を見る。

その真剣な眼差しから何か特別な思い出でもあるようだと感じ取った。


琴音は父の反応に少し驚いた。普段無口な父が見せたわずかな興味。

それだけで、新しい環境への期待を共有しているように感じられた。


「ほんとだ…」


小さく呟きながらテーブルにつく。確かに温泉は魅力的だった。

でも今は、それどころじゃない。


「琴音、明日から新しい学校ね。がんばりなさいよ。」


美佐子が明るい声で話しかけてきた。


「うん…。」


曖昧に返事をしながらも、不安な気持ちは胸から離れない。


「大丈夫よ。琴音ならすぐ友達ができるわ。」


母親らしい優しい言葉。その一言で少しだけ勇気づけられる自分がいた。

それでも、不安は完全には消えないけれど。


ふと、美佐子の言葉に反応するように隆が箸を置いた。

そしてゆっくりと目線を娘へ向ける。

その目には静かな信頼と期待が宿っていた。


「ん…」


短い返事。でも、その仕草には言葉以上の重みがあった。


「ありがとう…」


琴音は小さく呟いた。両親の励ましは心強かった。

でも、都会で築いた人間関係を手放して、この町でゼロから始めることへの不安は消えない。


***


食事を終え、自室へ戻った。

窓越しに見える湯乃花町は夕暮れ時の静けさに包まれている。

夕日に染まる山々と、町中から立ち上る湯煙。

その景色には、この町ならではの魅力があった。


「温泉の町か…」


窓辺に立ち、その風景をじっと眺めながら呟く。確かに美しい。

でも琴音にはまだ、この静けさに馴染むことができない。


ベッドに腰掛け、明日着ていく制服を見つめた。制服も学校も友達も、全て未知の世界だった。

その「未知」に琴音は期待と不安を抱いている。


「大丈夫。絶対に上手くいく。」


自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。そう信じなきゃ始まらない。

この新しい環境で馴染むには時間がかかるかもしれない。

でもきっと、自分なら乗り越えられる。そう思いたかった。


夜が更けていく中、琴音はなかなか寝付けずにいた。窓の外では虫たちが囁き合うような音が響いている。それは都会では決して聞けなかった静寂だった。


「明日、どんな顔ぶれが待っているんだろう。どんな風に話しかければいいんだろう…」


布団の中でそんなことを考えながら、琴音はゆっくりと目を閉じた。

不安と期待が胸を交差する中、少しずつ眠りへと引き込まれていく。


新しい生活。それは琴音にとって、大きな挑戦だった。けれど、その挑戦の先には、新しい友達や温泉町ならではの日々が待っているかもしれない。そんな小さな希望を胸に抱いていた。


湯乃花町での日々。その先には、まだ見ぬ冒険が待っている。琴音にはそれがどんなものなのか、まだわからない。でも、それでもいい。新しい朝はもうすぐそこまで来ていた。


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