16:気づきは何よりも
「…」
「鳩羽、大丈夫…?」
頭を悩ませ、現実から目を逸らすために思考の海を泳ぐ鳩羽に、私の言葉は聞こえない。
今、一番聞こえなければいけない声に意識を逸らしてしまう。
本当に、残念な”人”
「…」
鳩羽がこういう状態になるのは珍しくは無い。
考え事をしている時は、どう声をかけても…無反応を貫く。
こういう時、彼女の制限を離れて…仕事に行くのは簡単だ。
鳩羽が力強く押しつけて引き留めた理由を探りに行くのも、容易な事。
だって鳩羽は私が抜け出したことに、戻るまで気がつかないから。
だけど、私は一度もそうしたことがない。
「…」
「逃げろ」と命じられていないから?
逃げ出したら鳩羽から存在価値がない者として糾弾されるだろうから?
そんなことは、ないと思う。
熱心に考え事を続けている鳩羽を眺めるのは、私の楽しみ。
考え事をしすぎて、口の力が緩んで…口からよだれが零れ出る。
それをささっとハンカチで拭い、顎を軽く上に。
鳩羽は勿論、私だって…何事もなかったかのように振る舞う。
触れられても、よだれを垂らしても…鳩羽の意識は帰ってこない。
いつだって鳩羽の庇護から抜け出せる。
私がそうしない理由はやっぱりわからない。
これはきっと。入口が簡単に開けられる鳥籠の中で飼われた鳥の気持ち。
いつでも自由を得られるけれど、自由よりも欲しいものが近くにあるから…側を離れない。
答えはただ、それだけ。
「鳩羽」
「…」
「考え事をしている間は、本当に何をしても無反応」
「…」
「そういうの、危ないわよ」
「…」
彼女の性質はこれからも変わることはないだろう。
残り一年で帰られるようなものでもない。
「ああ…」
そうか。後一年なんだ。
後一年で、この人はどこにもいなくなる。
これまでの恩寵を受けし者と同じように、色鳥に権能を返上する為…この世から旅立つ。
死んでしまう。この世からいなくなってしまう。
頬に触れる。
考え事をしている彼女は無抵抗なまま。
何度撫でても、くすぐったさを感じている様子も無い。
今は熱を帯びているそれも、来年にはもう凍てついている。
喋ることも無い。
特徴的な紫色の瞳を拝むことも、安心感と親しみを覚える声でさえも…もう聞くことは叶わない。
姿だってもう見えなくなるだろう。
なんせ彼女は、土の下で眠ることになるのだろうから。
来年には、もうこの時間が失われる。
「…」
鳩羽の隣にそっと寄り添って、考え事をしている彼女の肩に頭を乗せる。
重さがかかっても、反応が無いのが逆に怖ささえ感じてきてしまう。
ねえ、鳩羽。
私は貴方が大事な存在よ。
九年間、家族みたいに過ごしてくれた大事な人。
貴方だからこそ、私はちゃんと使われたい。
貴方の籠守としての存在価値を「命令」という形でつけてほしい。
貴方の役に、立ちたい。
貴方の為に出来ることをしたい。
「大事にしている貴方に、胸を張った生き方を、したかったのよ」
鳩羽が出かける前に、言ってしまった一言。
もう取り返しのつかないことをした。
大事な貴方を傷つける真似をした私が、貴方に存在を認められるなんて事はもうないだろう。
九年間築いた信頼関係は、私の欲であっさりパー。
もう何も残せない。
何も成せない。
私の存在のように、無価値な時間にしてしまったのは…それこそ私の落ち度だ。
こんな失敗、今までしたことなかったのに。
失敗したら、酷い目に遭うから。
今も犬を見る度に震えが止まらないし、浴槽に浸かるどころか、顔を洗うのだって毎日怖いったらありゃしない。
他にも、色々。思い出すだけで震えが止まらなくなる。
それがバレないように、必死に取り繕うのも…疲れたけれど。
それでも私は、優等生を演じる必要があった。
一つでも欠点を見せたら、打たれるから。
そうしなければ、命の危機を感じることをされるから。
…でも、一度だけ抵抗をしたことがあるわね。
たった一度だけ。
お姉ちゃんに会いたい。菖蒲頑張ったもん。お姉ちゃんに会わせて貰えるって言うから頑張ったもん!
成果を出して、報酬をねだっていたあの子の叫びは、毎回聞き届けられなかった。
その日はあまりにも菖蒲の叫びが酷くって、聞いているこっちが辛くなってきて…両親に一度だけ、菖蒲に会わせてほしいと刃向かったことがある。
結果は…全裸で野犬に追われる羽目になったと言えばお察しだろう。
こんな場所で成長したあの子に会うとは思わなかった。
本音を言えば会いたかった。
お互いに、あの環境から解放されたのだから。
無事でいられているのだから。
再会を喜びたかった。無事で良かったと抱き合いたかった。
だけど、私の身体が…彼女との接触を拒んだ。
菖蒲に同情さえしなければ、私は無事でいられたのにと心のどこかで感じていたのだろう。
あの子を見た瞬間、私の身体は全く動かなくなった。
それ以降も、様子を見ようと何度か部屋に行こうとしたけれど…足取りは重く、辿り着けないままとなった。
まあ、今更姉面するなとか言われてもおかしくはないし…会わない方がいいのかしら。
お互いにもう二十歳を迎えている。
家族や姉妹という枠組みから出るには、いいきっかけの時期。
断ち切るのにもちょうどいい。
だけど、本当にそれでいいのかしら。
菖蒲———鴉羽も恩寵を受けし者の一人だ。
来年には、あの子も…鳩羽と同じ。
来年の今頃には、どこにも…。
「どこにも、いなくなる」
二人はまだ存在価値がある。
私みたいなダメな存在じゃ無い。この世に必要とされる存在だ。
どうして、彼女達が消えてしまわなければならないのだろう。
どうして私だけ、取り残されるのだろう。
「…鳩羽、私は」
「…それでも、僕はね、白藤」
「貴方がいなくなるのだけは、嫌なのよ」
「一番大事な君だけは、失いたくないんだ」
思考の海から帰ってきていたらしい。
ぼんやりと呟かれたその一言と共に、私は目を閉じる。
自分の欲と、貴方の願い。
私は貴方が大事で、貴方の大事は私。
それはずっと前から、当たり前の事だった。
九年かけて、当たり前にしてくれたものだったらこそ、気付くのが遅れてしまった。
ずっと側にあったからこそ、気がつけなかった。
ああ、どうして今なのだろう。
その大事な存在が消えようとしている最中に、私は———。
「ああ、白藤。どうしたんだい?僕の顔をじっと見て。何かついている?」
「…いいえ。また、考えていたようだったから」
「またかぁ…」
貴方が与えてくれていた唯一無二の価値に、気がついてしまった。
もう後戻りは出来ない。
どうせ気がつくのなら…貴方が死んだ後がよかった。
そうしたら、私は欲深い人間にならなくて済んだのに。
貴方の死を悼みながら、貴方の死に悲しんで。
同時に自分を大事にしてくれている存在の喪失に気がついて、本当の無価値になれたのに。
今、貴方が側にいてくれることが、何よりも幸せであることに…気がつかずに済んだのに。




