4:鳩羽の私室
鳩羽の私室には、ほとんど物がない。
浮浪児時代から住居を点々としていた彼女は、もしもの事があった時、全てを置いて逃げても問題ないような暮らしをしていた。
唯一、最後まで手元にあった仕事道具の売れる情報がびっしり書かれた手帳とゴミダメから拾い、修理して使い続ける万年筆だけが、彼女がここに来るまでに持ち合わせていた私物とも言える。
後は鳥籠に来てから支給された衣服や生活用品のみ。
趣味の道具は、一切なかった。
恩寵を受けし者には、一年の間に自由に使える金が毎年支給されている。
一年で、普通の労働者の給与十年分。
潤沢に用意されたそれを使い切れるのは、毎日の様におもちゃを欲しがる朱鷺や医療費で金がかかる瑠璃、オークションに出入りして変な物を買い漁る翡翠ぐらい。
他の恩寵を受けし者達は大体貯金することになるそうだが…その中でも貯金額が異様なことになっているのが鳩羽。
急に自由を与えられても、彼女にはその使い道が分からなかった。
最低限の支出は存在するが、彼女の中には派手に使うという発想すらなかった。
他の恩寵を受けし者は、少なからず昔欲しかった高額商品を買ってみたりしているのに…彼女だけは、何も変わらなかった。
おかげで白藤が「今年も恩寵予算が大幅に余ったから貯金。ほくほくね」と、笑ってくれるような生活を営めている。
しかしその生活は鳩羽にとって非常に窮屈。
自分で何もしなくていい生活も、籠守に世話される生活も違和感であり…できる限り自分で行いたいと考えている。
洗濯は許されなかったが、調理は「こだわりがある」と説得し続けたら渋々許されたので、時折厨房に出入りしている鳩羽の姿が目撃されるとか。
「さて、白藤。部屋に到着したよ」
「…」
「お腹が空いたかな。何か食べたいものはある?作ってくるよ」
「…」
「君は煮魚が好きだったね。特に白身魚。今日、市場にいい魚が入ったと聞いたんだ。君と一緒でなくても、籠守と一緒なら外出ができる。そうだ、浅葱当たりに頼んで一緒に買いに行こうか。作ったら…食べてくれるかい?」
返事はない。けれど、鳩羽は言葉を投げかけ続ける。
いつか、白藤が反応をしてくれると信じて。
「僕は、君の好みの味付けだって把握しているからね。美味しく作るよ」
「そうだ。お米も炊こう。厨房にいい釜があってね。それでご飯を焚くと、ふっくらになるんだ。白藤にも食べてほしいなぁ。従来の炊き方では、少々べたつきがあったからね」
「…」
「そうだ、白藤。ふりかけには興味ないかい?知らない?ご飯を美味しく食べる魔法の粉末さ。僕のおすすめは卵でね。卵っていっても、あまり卵の味がしないんだよ。本当さ。食べてみてほしいな」
「…」
「白藤」
本当は返事をしてほしい。
けれど、出会った時と同じように、ただじっと床を虚ろに眺めているだけの彼女は…見ていられなかった。
「しーらふじっ」
「…」
しゃがみ込んで、白藤が俯く先に自分の顔を持って行く。
顔を逸らさず、じっと眺めていると…彼女の口が小さく動き出した。
「…ほうっておいて」
「今の君は、放っておいたら何をするか分からない。だから、目を離せないよ」
「…」
「出会った時の君は、すぐに自害をしようとしたからさ」
「よく、覚えているわね」
「他でもない君との思い出だからね」
「…つまらないでしょ」
「大事な思い出だよ」
「それは、貴方が…貴方が」
「僕が、どうしたの?」
「…思えば、貴方の事全然知らない」
「…そうだね。話さなかったから。それこそ、つまらない過去だよ。僕だって君の事は九年経とうとも全然知らないよ?」
「…そうね。話さなかったもの」
「けれど、その九年で君が素敵な子だということを僕は知った。僕は九年白藤を見て、君を大事に思」
「…それ以前の私を知ったら、貴方だって幻滅するわ」
「それは僕の台詞だよ。僕は、未踏地付近の廃村で暮らしていた孤児だからね」
「…へ」
「意外かい?」
「だって、所作…」
「かつては情報屋として生計を立てていたからね。上流階級に忍び込むのもお手の物。君は知っているじゃないの?」
「…貴方が、鳩羽に選ばれた理由」
「そう。恩寵を受けし者は、それぞれの権能を活かす才能を予め持っている。籠守長に就任した君は、それぞれの本名以外の経歴は手に入れているだろう?」
「なんで、それを…」
やっと白藤の曇った表情が崩れる。
(この調子)
(…この調子で、彼女の普段を取り戻す)
鳩羽は話術が得意というわけではない。
しかし、彼女を驚かせる情報は大量に持っている。
(少しずつ、彼女が知りたがる情報を提示して…ペースを普段通りに持ち込もう)
(そうしたら、きっと…)
「月白から聞いた。あの子はいいよ。ちゃんとした取引相手だ。———情報渡す代わりに、ちゃんと情報をくれるからね」
「…どうして、そこまでするの」
「籠守の情報を得ることは、君を知る一歩だから」
「…外堀から?」
「そういうこと。でも代償も凄まじくてねぇ…。現に籠守長の仕事、月白より軽いはずだよ」
「確かに…以前の月白さんは、多忙だったけど…」
「籠守の動向調査、恩寵を受けし者の監視、その他諸々僕ができることは君が就任する前から月白の引き継ぎを受け、僕が担っているからね」
「…なんで」
「君の負担を軽減したい。君の自由時間を作りたい。君の為にできることをやりたい。色々あるけれど、主だったのはこんな感じかな」
「…私が使えないから。ごめんなさいね、貴方に負担をかけて」
「君が仕事をできる子だろうが、できない子だろうが…人には許容範囲というものがあるだろう。君は月白みたいに超人じゃないんだからさ」
「…私が、天才だったら。貴方」
「…君は白藤だ。菖蒲じゃない」
「でも」
「あの子になろうとするな」
「私は———」
「———僕は、白藤が大事だと思っているから、自分にできることに携わった」
「…ごめんなさい。出来損ないで。私が天才だったら、貴方に苦労を何一つかけなかったのに」
———大事にしてくれる貴方へ、胸を張った生き方ができたのに。
白藤はどこまでも自分を否定しつつ、また、静かに口を閉ざす。
この程度ではダメだったらしい。
でも、少しだけ進歩はあった。
「…僕の隣に、立とうとしたのかい?」
「…」
「今日はここまでにしようか。夜まで君の要望通り一人にするけど、危険物は撤去させて貰う。君に死なれたら、困るから」
「…」
「じゃあ、ゆっくりね」
身を小さくして縮こまる白藤を背に、鳩羽は部屋の中にあるはさみやナイフ等の自傷できそうなものから、絞首に使えそうな物を鞄につめ始める。
自分の無力さも鞄につめて、部屋を後にした。
作り物の明かりが部屋を照らし続ける。
その光に、白藤が求めるぬくもりはない。
白藤の目にも、光は宿らない。




