16:鳥籠と籠守
ゆっくり、唇が離される。
呆けた顔で何が起きたか理解できない浅葱の顔を覗き、琥珀は満足そうにはにかんだ。
「琥珀さん…?」
「どうしたいか、だったね」
「あっ…はい」
「私、あーちゃんと生きていたい。一緒に一年間、抗って、穏便に恩寵を受けし者を辞める方法を探して…それでもダメなら、一緒に逃げて、それからも生きたい。もう、離れたく…」
ない、と言う前に、口を塞ぐ。
その瞬間、周囲に舞い始めていた光の粒子がゆっくりと消えていく。
「…また、権能が」
「大丈夫。恐れなくていい。続けて」
「でも、あーちゃん。権能が…」
「権能にかかってもいい。私の意志は、君の意志。同じだから。権能があってっも、何も変わらない」
「…うん!」
眠るままに抱きしめて、耳にそっと続きを告げる。
———離れたくない。
今は、これで十分なのだ。
何年経とうとも浅葱は浅葱であり、金糸雀は琥珀だと、相互に認識した一週間。
ここから、いつもの生活が始まる。
九年前に失った、二人で一緒の生活がやっと始まるのだ。
◇◇
それから二人、ベッドサイドに腰掛けて…話を続ける。
「しかし、琥珀」
「くーちゃんがいい」
「…いや、それは小さい頃だから許されて」
「さっきは呼んでくれた」
「あれはあの場のノリというか…」
「今もそのノリ、継続して」
「…くーちゃん」
「なぁに?」
「いや、なんでキスしたのかなって。あれ、好きな人とやる奴でしょ?あの流れで———」
その瞬間、琥珀の中に戦慄が走る。
勢い余ってしたこと。浅葱のことは、先程自覚する前から、ここに来る前から自分だけを見て欲しいと思っていたこと。
キスをしたことに、満足していること。
どれを言っても浅葱は引かないだろうけど、琥珀的には引きかねないと思う感情ばかり。
最悪「やっぱり離れようかな…」と言われてもおかしくはない。
浅葱がやってきてからよくかき回されるようになった感情を必死に押さえ込みながら、琥珀は一世一代の嘘に乗り出した。
「……あーちゃん知らないの?キスって家族とするものなんだよ」
「そうなの?」
「パパとママはしてたでしょ」
「そりゃそうでしょ。夫婦だし。でも、流石に子供とは」
「私はしていたよ…」
「おじさんとおばさんが…」
「しかも毎日」
「!」
実際のところ、かつての琥珀は寝る前に両親から「お休みのキス」を頬にされていただけではあるのだが、毎日キスをしていたというのは事実。
ものは言い様である。
「あーちゃんと私は家族なんだから、キスは当たり前なんだ。あ、真紅とはしないでね」
「する気ないよ。あいつは家族を捨てた。もう家族じゃない」
「それでいい」
否、全然よくない。
一般常識に疎めな浅葱が抱いた認識を全力で誤魔化したのだ。
色々な意味で後には引けない。
権能を使用した時以上の爆弾を抱えつつ、今後を過ごす羽目になった琥珀的には内心穏やかではないのだが…浅葱は勿論気がつかない。
「じゃあ、これから毎日しようね」
「え」
「家族はするんでしょ、毎日」
「あ、うん…ソウダネ…」
勿論、琥珀が今回の一件で自分の首を思いっきり締めたことは言うまでもない話だ。
「そ、それよりもあーちゃん。今後はどうするの?」
「どうするって、そりゃあ…まずは琥珀に元気になって貰うところかな。体力がつかないと、引きこもり生活は脱却できない。食事に関してだけど…これ」
「これは?」
「琥珀が吐いた時、医務室に行ったんだけど…その時に、状況を察した瑠璃様が書いてくれたんだよ。喋れない金糸雀にも答えられるようにした質問票みたいなもの…こうして話せる今、必要は無いけど、答えて欲しいな」
浅葱から、瑠璃が書いた質問票を受け取る。
そこには、はいかいいえで答えられる形式の質問が書き連ねてあった。
「瑠璃って、誰?」
「恩寵を受けし者の一人だよ。いつか、会いに行こう」
「そうだね。ちゃんとお礼を言わなきゃ…」
ここまでしっかりした質問票を作り上げた上に、今朝の会話…瑠璃は吐いた後の金糸雀を権能で綺麗にしてくれている様子なのだ。
昨日は世話になった。いつお礼を言いにいけるか分からないけれど、必ずお礼を言おう。
そう決めた矢先、自分の中にも変化があることを察する。
九年間、他の恩寵を受けし者と金糸雀には交流がなかった。
例外は真紅と、浅葱が預けた小箱の鑑定を依頼するために、翡翠とは会ったことがあるが…一度きりだ。
こうして外に出て、誰かに会おうと考えたのは久しぶり。
権能を使ってしまう恐怖で、ずっとここにいたけれど…今は、側に浅葱がいるから何も怖くない。
今なら、なんだってできる気さえする。
「それから、実のところ私…真紅を止める役目も残っているんだよね」
「何かやらかしてるの?」
「あいつ、今は椋って名前でここにいるらしいんだけど…」
「…そう」
言われなくても知っている。
あの女は、鳥籠に来てから一週間間隔で琥珀を自室に呼び出して「お茶会」を催し、人のことを罵倒するのだから。
浅葱が来る前にお茶会があったから、おそらくそろそろ…。
「色鳥と喋れる権能を利用して「色鳥様が仰ったことだから」とかいって、犯罪とか色々他者にやらせているらしいんだ」
「…何かさせてそう」
「この世界の人間は、恩寵を受けし者や色鳥に手を出そうだなんて考えない。ただ、かつての身内だったり、型破りな人間はどうだろう」
「それが、浅葱がここに来た理由?」
「ここに来れた理由だね。私は真紅の醜態を知る身内。上官だった露草は常識に縛られない型破りな人間。もしも月白殿が標的に選んだ恩寵を受けし者を処分して欲しいと命令を下せば、私はそれに取りかかる役が残っているよ」
「…あんな女とはいえ、殺すの?」
「これ以上身内が罪を重ねる前に手を下すのは…家族だった人間として、仮にも奴と双子である身としては、果たすべき仕事だと思うんだ」
「…浅葱の手は血で汚してほしくないな」
「ごめん。もう散々汚れているよ。未踏開拓軍時代には、何体もの魔物を狩ってきた。命を奪う環境に身を置いていたからね。仕方の無いことさ」
「でも人は」
「…重症を負って、助かる見込みがない仲間を、楽にしたことはある」
「…あーちゃんは、大変な環境にいたんだね」
「仕事であり、目標を成す為に必要なことだったから、気にすることはないよ。過酷な環境ではあったけど、軍在籍時代も周囲には色々とよくしてもらってね。琥珀を探していることも、仲間達には伝えているんだ。会えたら紹介させてよ」
「うん。いつか、会えた時に。それから、撫子…」
「ああ。撫子にも私の目的を琥珀関係だけだけど話していたんだ。今度はちゃんと紹介させてね」
「うん」
撫子。彼女には悪いことをした。
自分の感情に振り回された琥珀に、権能を使用された彼女は今、どうしているだろうか。
何もなければいいのだが…。
「色々考えることは山積みだけど、まずは体調を万全に整えるところから始めよう。食事は食べられそう?」
「頑張る。それから、あーちゃんが一緒だったら、きっといっぱい食べられる。お話ししながら食べよ」
「そうだね。話しながら食べた方が、絶対楽しい」
話しながら食べたらきっと、真紅は出てこないだろうから。
思い出す暇もなく、今を見つめることができるだろうから。
きっと、大丈夫。そう信じて、明日の朝食を食べよう。
「…ご飯が楽しみなのは、久しぶり」
「いい傾向だね。それから、権能を使いこなす為にも、使い方を見いだしていくべきだと思うんだ。喋らない以外でも。常日頃から発動しないようにすることはできると思うんだ」
「命令口調じゃないと発動しない…とか?」
「そんな感じ。撫子の時は、名前を呼んだり、相手の目を見なくても発動できていたみたいだから…発動条件にも色々あるんじゃないかな。歴代の情報も調べられたらいいんだけど…」
「あーちゃん、色々考えてるね」
「できることはやっておきたいし、使えるものは活用したいからね。最も、くーちゃんが使いたくないっていうのなら、話は変わるけど」
「ううん。大丈夫。ちゃんと使いこなして、あーちゃんの力になれるように頑張るよ」
「ありがとう。じゃあ、しばらくはこの二点に集中して行おう。体力がついてきた段階で、筆記を行えるようにしてみようか」
「私…文字、昔と同じ感じ…なんだけど」
「私が読めるなら大丈夫。権能を上手く使いこなせるまでは、話すのが怖いでしょう?代筆した文字を私が読むから、くーちゃんの不安は軽減されると思う」
「でも、誰かにメモを読まれたりとか…」
「…くーちゃんの字は、私以外読めないから大丈夫」
「そう?そんなことは…」
かつて、浅葱は琥珀の字を「ミミズ」と例えた。
本人以外誰にも読めないその字は、両親でさえも解読不可能であり、浅葱も読めるようになるまで相応苦労している。
村の初等学校の先生に職員室に呼び出され、「この字がわざと書かれたものではない上に、丁寧に書かれていることを理解している。「字が汚い」という理由で彼女の頑張りを無効にするのはできない。彼女の解答を読んでくれ。その内容で採点する」と、異例の解読をお願いされたこともある。
「大丈夫だから」
「そ、そう…?」
「それから、くーちゃんは何かやりたいことはある?」
「私が、したいこと?」
「うん。何でもいいよ。なんでも」
「…外の世界を、知りたい」
「わかった。今度外出の申請を行っておくよ」
「ありがとう」
「とりあえず、中央広間に行ってみない?外の空気が味わえるよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「承りました」
浅葱はいつものように琥珀を抱き上げようとするが、それを琥珀は拒否する。
ふらつく身体を浅葱に支えて貰いながら、自分の足で、前に進んだ。
鳥籠で暮らしていた金糸雀。
九年間、権能と悪意に悩まされた彼女は籠の中で引きこもって過ごしました。
けれどその籠には、鍵はなく…彼女の風切り羽は生えそろっていました。
彼女の手を引いたのは、かつての彼女が手を引いた少女。
恩寵を受けし者となった鳥たちが住まう籠を守る、籠守となった少女は、金糸雀を自分の籠———部屋の外へ連れ出しました。
「…誰もいないね」
「みて、あーちゃん。星が綺麗…久しぶりに見たなぁ」
「そうだね。都市でも綺麗に見えるものとは…」
誰もおらず、静まった中央広間で。二人寄り添い星を眺める。
硝子のつなぎ目で空は遮られ、全てが鮮明に見えるわけではない。
けれどそう遠くない未来、彼方まで広がる星空を眺めることはできるだろう。
金糸雀が鳥籠を出て、自らの力だけで羽ばたくのはまだまだ先の話。
けれど彼女はいつだって、飛び立てる。
側に籠守が…籠の中にいた琥珀を守る存在が側にいる限り、恐れるものなど、何もないからだ。




