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嘘と祈り、或いは煩悩

作者: 湯島 晴一

桜の樹の下にドラマなど転がってはいない。

例え月が冴え冴えと輝く夜であっても。

そこに在るのは嘘、そして、冷え冷えとした祈りだけ。


或いは、煩悩。



四月も始めの土曜の夜。

月が輝く夜だった。

週の初めからの陽気のせいか、街中の桜は一斉に咲き始めていた。

明日は日曜日。

予報曰く、雨交じりの暴風雨といった空模様となるらしい。

恐らくは「桜流し」の雨。

今宵が桜の見納めだろう。

このところ平日は忙しく、碌に桜を眺める暇もなかったので、散る前に幾らかでも堪能しようと、独り夜桜見物の散歩に出かける。

未だに手つかずの引っ越し用段ボールが山を為すアパートの部屋を出てしばし歩き、海沿いの遊歩道へと辿り着く。

俺はごく最近に職場での人事異動に伴ってこの街に越してきたばかりで、この周囲の地理には不案内もいいところだったが、この海沿いの遊歩道はちょっとした桜の名所だとアパートの入居手続きをする際に、まだ若く約款の説明も覚束ない女性の係員から何度もそれを聞かされたものだ。


月の明るい夜だった。

冷え冷えとした蒼い光を遍く降り注がせる満月は、微風に水面をやや波立たせる海原に、その姿を艶やかに映していた。

海沿いの遊歩道に並ぶ桜の樹々、その枝に群れなして咲く桜の花、その美しさはまさに圧巻だった。

薄桃色を帯びた白い花弁は蒼白い月の光を受け、闇の中に浮き上がってくるようでもあり、妖しげな美しさすら湛えているように思えた。

海を渡る微風は墨絵の如く黒々とした桜の梢をやんわりと揺らし、梢から追い散らされた桜の花片は仲間との別れを惜しむかのように、ゆらりゆらりと宙を漂う。

舞い散る花片を肩や背に浴びながら、俺は独り遊歩道を歩く。

例年ならばこの遊歩道も花見の客でごったがえすのだろう。

けれども、花見客はおろか、道行く人も誰一人として見掛けない。

昨今の新型コロナ禍の所為なのだろう。

ぽつぽつと所在無さげに佇む無機質な灯りを放つ街灯が、腰掛ける者も無い居並ぶベンチを寒々と照らすばかりだ。

その寂寞とした眺めは、転勤間際に俺の身に起きた一騒動、それによってまだ血を流しているような心の傷口を刺激するようにも感じられた。微風が凪の海原に仄かな細波を立てるかの如く、俺の心を憤りや疑問が揺らし始める。その思いを振り払うかの如く、潮風に揺蕩う桜の花々を見遣りつつ黙々と歩みを進める。



不意に、暖かさを孕んだ香りが鼻孔を擽る。それは仄かな生姜の香りだった。人影も無い、美しくもこの寒々とした情景にはおおよそ似つかわしくない、暖かく優しげな香りだ。その香りは風上、すなわち私の歩み行く方向から漂って来ているようだ。一体、何なのだろうか。湧き出る疑問が俺の歩みを駆り立てる。

10メートルほど先に見える寂しげな灯りを放つ街灯、その下にベンチが二つ並んでいる。俺から見て奥の方にあるベンチ、そこに一人の女性が腰掛けていた。年の頃は30歳に少し届かないくらいだろうか、俺より少し年上なのかもしれない。背は女性としては高いほうなのだろう。赤と黒のチェック模様の長袖のワンピースをその痩身に纏っている。緩くウェーブのかかった、背中の半ばくらいまでの艶やかな薄茶色の髪の毛が微風に揺れている。寒々とした街灯の光が照らし出すその横顔は、遠目からであっても芙蓉のような美しさを湛えていることがはっきりと分かる。そんな彼女は、その傍らの茶色のお盆の上に置いた丼に、ラーメンを盛り付けている最中だった。カップラーメンなどではなく、街中のお店で頂くような、謂わば普通のラーメンだ。陶器の丼にジップロックから取り出した、恐らくは茹で上げ済みの麺を移し、そこに大ぶりの水筒からお湯を注ぎ込み、麺を温め始める。一頻り麺を温めたら、そのお湯を植え込みの土へと静かに流す。今度は、別の小さめな水筒を取り出して、温めた麺の上へとスープを注ぎ入れる。温もりを湛えた生姜の香りが彼女の周囲を満たしていくように思えた。スープを注ぎ終えたら、次は小さなタッパーを取り出し、その中からペースト状の何かをスプーンで掻き出して丼の中へと入れる。彼女を取り巻く生姜の香りがその存在感を増す。恐らく、あのペースト状の何かは摺り下ろした生姜なのだろう。生姜入りと思しき小さなタッパーに再び蓋をし、それを脇に置いた大きめのトートバッグにしまった彼女は、続いてジップロックを取り出す。そのジップロックの中には、茹で上げられた鶏肉が入っているようだ。鶏肉を麺の上に盛り付けることで、ようやく一連の工程は終了したらしい。彼女は丼を載せた茶色のお盆に割り箸とレンゲを載せ、そのお盆を両の太ももの上へと置く。手を合わせ、小さく何かを呟く。割り箸を手に取り、ゆっくりと左右に開く。パキンという小さな音が響き渡る。それから彼女はおもむろに麺を啜り始める。ズルズルという麺を啜る音が小さく響き渡る。桜舞い散る月の夜に独りラーメンを啜る嫋やかな女性。何とも形容し難い情景だ。好奇とも困惑とも形容し難い、そんな感情を帯びた俺の視線に気付いたのだろうか。彼女はその頬を動かしながら、ハッとした表情で俺のほうを見遣る。驚いたような表情を浮かべた後、彼女は口に含んだ麺を呑み下し、そして小さく「こんばんは」と挨拶を口にする。俺は我を取り戻し、「こんばんは」と返事を返す。


取り敢えず挨拶は交わしたものの、何となく気まずい沈黙が俺とその女性の間に横たわっている。そもそも、食事の最中である赤の他人に話し掛けること自体が不躾もいいところだろう。けれども、この場から立ち去る気にはなれなかった。この状況は一体何なのか、この女性は何故、この場でごく普通にラーメンを啜っているのか、そんな疑問が黒雲のように胸中へと湧き上がる。困惑混じりの疑問、それが俺の足をその場に留め置いている。渦巻く疑問が言葉の姿を為し、そして口から迸り出る。「ラーメンを召し上がられているんですね。」と。口に出した直後に思った。随分と間の抜けた言葉だなと。状況そのままではないか、と。しかし、彼女は小さく微笑んで、「ええ、ラーメンです。塩生姜のラーメンなんですよ、都内は浅草にあるラーメン屋さんの。」と、言葉を返してきた。その声色は、楚々といった表現が似つかわしい、ふんわりと柔らかなものだった。思いもよらない柔らかなその口調に、俺が知らず知らずの内に抱いていた緊張、或いは不安は一気に解れたようだ。しばらくの間、彼女がラーメンを啜る合間にちょっとした質問を投げかけ、そして彼女は手短にそれに答える、そんな応酬が繰り返された。何時しか俺は彼女の座っている隣のベンチに腰を掛け、漂う生姜の香りに鼻孔を楽しませつつ、淡々とした、そして楚々とした彼女の声色に聴き入っていた。麺を啜り、鶏肉を噛み締め、そして馥郁たる生姜の香りを湛えたスープを啜る彼女。その姿はどことない気品もまた醸していた。

麺も、そして鶏肉などもあらかた食べ終えたらしく、彼女はその丼を両の手で捧げるように持つ。丼の縁に口を付け、丼を傾ける。喉を鳴らしつつ豪快にスープを飲み干していく。空になった丼を太ももの上に置いたお盆に載せる。そして、満足げな吐息を吐き出し、放心したような表情を浮かべる。その表情は無邪気さすら感じさせるものであり、それに加えて何処か可愛らしさもまた漂わせるものだった。

ついつい見惚れる俺。


生姜の香り、女性の満ち足りたかのような吐息、漂う仄かな熱。それらの余韻を吹き寄せる微かな潮風がゆるゆると夜の空気へと溶け込ませていく、そのように感じられた。


彼女がぽつりと呟く。それは柔らかな静寂の水面に注意深く滴を垂らすかのように。

「私、先週に婚約を解消したんですよ。」

唐突な、そして意外な彼女のその言葉に、俺は冷や水を浴びせられたような心持ちとなる。驚いたような視線を向ける俺。彼女は言葉を続ける。その顔に先程から変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべながら。


「私とその人は、二年くらい前にお付き合いを始めました。私もその人もラーメンが大好きで、それが切掛でお知り合いになったんです。知り合ってから、そしてお付き合いを始めてからも、一緒に色んなラーメン屋さんを巡っていました。休みの日に三、四軒行くことは当たり前でしたし、ラーメンを食べるために色んな場所に一緒に旅行にも出掛けました。北海道だったり、九州だったり、或いは北陸地方だったり。一緒に観光をしながら、土地それぞれの特徴あるラーメンを頂くことって、とっても楽しかったです。」


「でも、新型コロナが流行し始めてから、お店にラーメンを食べに出掛ける頻度って随分と減ってしまいました。やっぱり、怖いじゃないですか。ラーメン屋さんって狭いお店も多いし、お店がどんなに感染防止対策に気を遣っても、お喋りを止められないお客さんも残念ながら一定の割合で居るわけですし。」


「でも、やっぱりラーメンを食べたい訳ですよ。だからどうしていたかって言うと、持ち帰り、或いは通販のラーメンを利用するようになりました。新型コロナが流行し始めることで客足の減ったラーメン屋さんの中には、家で少し手を加えるだけで食べることの出来る持ち帰りのラーメンを販売したり、あるいはラーメン専門の通販サイトで冷凍ラーメンを販売したりするところが出てきました。それらを買って来たり、或いは通販で注文することで、お店で頂くのと然程変わらない、美味しいラーメンを家で頂くことが出来るようになりました。勿論、物足りなさはありましたよ。私も、その人にとっても、ラーメンに係る楽しみって、単にその一杯を頂くだけじゃなくて、そのお店に辿り着くまでの道のりだったり、そのお店の佇まいだったり、あるいはご店主さんや店員さん達の雰囲気だったり。そういったものも含めた総合的なものだった訳ですから、ラーメンの楽しみって。」


「一方、家でラーメンを食べるようになって、その人との間柄は、より一層深まりましたね。やっぱり、お店で頂く時よりも落ち着いて自分のペースで味わうことが出来ますし、食べながらあれこれ感想を語り合うことだって気兼ねなく出来る訳です。お互いが異なるラーメンを食べていても、それを交換して味わうことも気軽に出来たりしますし。そんなこんなで新型コロナの流行が一応は落ち着きを見せつつあった去年の八月頃に、いずれ結婚しようねと約束を交わしました。その時はすごく嬉しかったですね。」


「でも、秋になり、そして季節が冬に向かい始める頃から、段々と気持ちにすれ違いが生まれてきて、それは次第と拡がりつつあったような気がします。その人、ラーメンの自己流アレンジに拘り始めたんです。最初のうちは煮卵や叉焼、メンマや薬味などを工夫する程度でしたし、それは私も一緒に楽しんでいました。でも、時を経る毎に、その拘りの度合いが強くなって行ったんです。」


「異なるお店のスープ同士をブレンドして味わいに奥行きを持たせるとか始めましたし、そのうちスープを自分で作り始めるとか、或いは何時間もかけて叉焼を作り始めるとか始めてしまいました。叉焼にしても、ロースだとかバラだとかの部位に拘るとか、或いは燻製などを始めるとか、その拘りが次第次第に深みに嵌まっていく、そんな感じでしたね。過剰なまでに拘りを追い求めるその態度に、私は次第に醒めつつありました。」


「私と一緒に気軽にラーメンを食べて、その味わいについて和気藹々と楽しく語り合う、そんなことが段々と少なくなって行きました。その代わり、彼が作ったアレンジラーメンの試食をすることが多くなってしまいました。新作のアレンジラーメンを食べさせられ、どんな工夫をしたのか分かるかとか尋ねられたり、或いはどんな材料を使っているか当ててみてと聞かれたり。それを当てられなかったら気まずい感じになってしまうし、そして味わいに駄目出しなんかしようものなら、もう落ち込んじゃったりするんです。結局、一緒にラーメンを食べることが苦痛になっていってしまいました。その人の拘りに付き合い続けるのって面倒臭いなって、正直思っちゃいました。」


「そのうち、その人は、作ったアレンジラーメンをスマホで撮影してはSNSで公開し、その反響を気にしたりし始めました。いいねが沢山貰えたとか、或いはバズったとか、そんなことで一喜一憂するんです。実は、その人の会社って、新型コロナの影響で段々と業績が悪化しつつあったようでした。その煽りを受けてか、その人はそれまでとは異なる部署に異動させられてしまい、慣れない仕事に悪戦苦闘していたみたいなんです。後輩に使えない奴などと陰口も叩かれることもあったようで。そのことでプライドが傷付いて、仕事の上でのフラストレーションも溜りつつあったんでしょうね。その所為もあってか、損なわれつつあったプライドをアレンジラーメンの評価で補おう、そんな動機もあったのかなって思います。プライドに拘り続けるのって不自由だな、って思っちゃいました。」


「そんなことが重なって、何時しか、その人に対する私の中の熱みたいなものが段々と失われていくような感覚を抱き始めていました。ただ、しばらくの間、それは普通のことなんだろうなと自分に言い聞かせていました。付き合いが深くなればなるほどに相手の性格などのアラが見えてくるのは当たり前のことだし、そして、いざ結婚を意識し始めると、マリッジブルーって訳ではないけれども、自分自身の気持ちも不安定になってくる。恋愛が謂わば熱狂ならば、結婚に至る道筋では、ある程度は現実を見据え、醒めた態度で物事を進めていくことも必要なんだろうな、と自分自身に言い聞かせる日々でした。また、その人にしても、結婚に向けて生活を安定させなきゃいけないのに、仕事が上手くいかず大変な思いを抱いているんだから、それを理解してあげなきゃ、とも自分自身に言い聞かせました。でも、自分の中の熱が冷めていく、思いが色褪せていく、その流れを押し止めることは結局、出来ませんでした」


「別れ話をし始めた時期、それを正直には覚えていません。年が明けたころから、もう無理だってことがお互いに分かってきちゃって、段々とそんな雰囲気になって来ましたね。その頃から、喧嘩をすることが増えてきました。それは感情をぶつけあってお互いの理解を深める、といったものじゃなくて、お互いの気持ちが薄れつつあることを確認するための儀式といった感じのものだったような気がします。そして、お互いを嫌いになるための手順といったとことでしょうか。そんな喧嘩の中で、別れるって言葉が段々とお互いの口から飛び出すようになってきました。その言葉を口にしてみることで、お互いの気持ちに探りを入れていた、そんな気がします」


「二月になってからは、その人と会う機会もめっきり減ってしまいました。気持ちが離れつつある、冷めつつあるとは言え、会ったら会ったで嬉しい気持ちも矢張りある。大切な人であること自体に変わりは無いし、そして、関係が元に戻ってくれないかって気持ちも込み上げてきてしまう。元の彼に戻ってくれないかなと願わずにはいられない。そんな自分の気持ちと、もうどうしようもない現状とのギャップに対し感情的になってしまう。そんなことは今更無駄だと頭ではちゃんと理解はしているんだけど。すごく矛盾しているんです、私って。だから、もう会うのが辛くなってしまって」


「三月に入ってからでしたね、彼のほうからハッキリと切り出してきました。もう別れよう、って。お互いに気持ちが冷めていたのは分かりきっていたことだし、いつ、どちらから切り出すかだけの話でしたけど、でも実際に別れを告げられたら動揺もしたし、そして、悲しかったです。2、3日は泣き通しでしたし、何とか関係を元に戻せないかと夢想したりもしました」


「でも、一週間も経たら、突然といった感じにそれを受け入れることが出来ていました。ある朝起きたら、何故か完全に納得できていて。あぁ、もう終わりなんだな、ってそれを受け入れた自分がいました。婚約と言っても、結納とかしていた訳じゃなくて、お互いの両親に結婚を前提に付き合っている人がいると伝えていた程度だったので、手続きなどはありませんでした。同棲をしていた訳でなく、お互いの部屋を行き来している状態だったので、別れる準備についても、それぞれの部屋に置いてある、それぞれの服や小物を持ち帰る程度のことで済みました。その一切が済んだのが、ちょうど一週間前の土曜日でした」


「彼の部屋の冷凍庫は、冷凍ラーメンで埋め尽くされていました。それ専用のストッカーまで買っていたくらいです。最後にその人の部屋を訪れ、置いてあった小物を引き上げ、そして、お互いの部屋の合鍵を返しました。最後にコーヒーを一緒に飲みました。私のコーヒーが紙コップで出されたのはちょっと面白かったですね。無言でコーヒーを頂いて、今までありがとうってお互いに別れの挨拶を交わした訳です。そして、私がその人の部屋を出る時です。その人は、冷凍庫から幾つかの冷凍ラーメンを取り出し、小さめのトートバックに入れて私に渡してくれました。『ごめんね』って言いながら」


「その時でしたね、その人への気持ちか完全に途切れちゃったのは。『ごめんね』って、結局はその人の自己弁護なんですよ。自分への言い訳って表現した方がいいのかもしれないですね。自分を守ることばかりに一生懸命で、結局は何一つ分かっていなかったんだな、って」


「貰ったラーメン、取り敢えずは持ち帰って冷凍庫に入れていたものの、最初のうちはもう捨てちゃおうかなと思っていました。なんか不愉快だったし。でも日が経つうちに、だんだん同情めいた気持ちも抱くようになってきました。変な話ですよね、冷凍ラーメンに同情って」


訥々と女性は話し、そして溜息を吐く。その表情からは微笑みは消え、そしてその眉根

はやや顰められている。恰も何かを考え込むかのように。

俺は、思わず尋ねてしまう。


「冷凍ラーメンに同情したって、何故ですか?」と。


女性はふふふっと鼻にかかったような小さな笑い声を挙げる。膝の上の白い丼を撫でながら。そして、再び語り始める。


「同情ですか。そうですね、私も、そしてこの冷凍ラーメンたちも、その人の自己満足を満たすための手段でしか過ぎなかった、って所にですかね。その人が私に冷凍ラーメンを渡す時、どれにしようかとか特に選ばなかったんです。冷凍庫の中の一番手前にある二つを無造作に取り出したって感じでした。そして、彼の自己満足としての『ごめんね』に、幾ばくかの重みを持たせるためだけに私へと渡された。私への最後の餞として冷凍ラーメンを渡すのだったら、別のラーメンにするはずだったんです。彼が渡したのは塩生姜、そして所謂二郎系のラーメンだったけど、私が好んで食べていたのは醤油ラーメン、そして鶏白湯ラーメンでしたし、その人はそのことを十分に知っていましたから。もう、そういう事って、どうでも良かったんでしょうね」


「私も結局はその人にとって、彼を支えるための手段だったんだろうなと思います。秋以降、綻びかけたその人のプライドを補うためのツールだったんだろうな、と。自己満足を肯定する役割を、その人は私に求めていたんだろうなって思います」


俺は納得した。けれど、何か肯定の言葉を発すること、それは如何にも空々しく思えてしまった。だから、彼女の方を見ること無く、二、三度深く頷いた。


俺の首肯を見届けたかのようなタイミングで、彼女は言葉を続ける。


「だから、今夜はその冷凍ラーメンを食べることにしたんです。去年の春、この桜並木で、その人と一緒に夜桜を眺めていました。あの頃は幸せだったし、それを思い出すと、やっぱり心が痛むんです。かといって、そんな気持ちいつまでも引き摺るのって嫌ですから。桜を見る度に心が痛むだなんて嫌じゃないですか。だから、去年と同じ桜の下で、私と同じ立場だった、この可哀想な冷凍ラーメンを食べるだなんて巫山戯た事をして、もう全部、リセットしてみたかったんです」


彼女のその声は、笑いを孕んだかのように軽やかだった。



沈黙が続く。どうやら、彼女の話は終わったようだ。俺も彼女の話を聞き、胸に蟠っていた様々な感情を整理したい、そんな思いに駆られていた。

ベンチから立ち上がり、邪魔したことを彼女に詫びる。

彼女は柔らかな微笑みを浮かべつつ、いえいえと答える。

俺は彼女に会釈をし、そして、来た道へと戻ろうとする。

思い出したかのように彼女が呟く。

それは独り言であるかのように。


「結局、幸せってことに対する価値観が違ったんだろうな、って思います。その人は私を守りたい、支えたいと言っていたし、そして私にもそれを求めました。詰まるところ、『守りたい』って、その人の願望の裏返しだったんでしょうね。でも、私はそうじゃなかった。傍に居て、そしてお互いの幸せを願い合う、そんな感じで別に良かったんです。勿論、困った時に手を差し伸べ合うことは必要ですけど、でも弱さありきの関係性にはどうしても馴染めなかった」


何か答えるべきかなと迷った。でも、それは止めた。

それは彼女の深い部分であるような印象を受けたし、それに半端に答えることは、ともすれば彼女を傷付ける結果ともなりかねない、そう思ってしまったから。

歩みを止め、顔半分ほど彼女の方へと振り向く。無言で会釈をする。そして、来た道の方へと向き直り、無言で歩みを進める。



*********************************


俺はこの四月の始め、職場の人事異動に伴い、この街へと引っ越してしてきた。

人事異動の話が持ち上がったのは二月も下旬の頃だった。相当に急な話だった。そのことを当時交際していた女性に打ち明けたところ、彼女からの連絡は唐突に疎遠なものとなってしまった。転勤前の残務処理に忙殺され、結局は会えぬままその地を去ることとなってしまった。引っ越し間際に何とか連絡を入れたものの、特に説明も無いままに別れを告げられた。そして彼女は言い放った。もう、連絡も寄越さないでくれ、と。急に別れを告げられたことに思い当たる節など有る訳も無く、釈然とせぬ思いを抱えたまま追い立てられるように引っ越しをし、そして、ここ数日を過ごしてきた。今日になって急に桜を見ようと思い立ったのも、一人で部屋にいると、その思いばかりに心が囚われ、気が滅入ってしまうこともあった。また、月と桜が美しいこの夜、何か劇的なことでも起きないものかと心の何処かで夢想もしていたのだろう。改心した彼女が連絡を寄越して前非を詫び、そして、再び交際を求めてくるといった、いわばドラマチックな展開などが桜舞い散るこの月の夜に起きてくれないものか、などと心の何処かで願ってもいた。

だが、そんな都合の良いことなど起きる訳は無かった。甘い夢など叶えられるはずも無かった。夜桜の下で独りラーメンを啜っていた女性。その彼女が語った話、それは俺に諦めを突きつける白刃のようなものだった。結局のところ、俺自身、先程のラーメンを啜っていた女性の別れた婚約相手と大して変わるところは無かったのだろう。自己肯定感を一方的に補償してくれる関係性を相手に求める、それは、私自身も似たようなものだった。残念なことに、思い当たる節は多々有る。その女性の話を聞いていると、自分自身が糾弾されている、そんな思いだった。

ただ、私の中で思い切りは付けることが出来たような気はする。別れを切り出された理由に納得が行ったこと、それは辛くもあった。過ぎ去った日々の中での自分自身の言動、それらは後悔と反省の色を帯びつつあるし、それはこれからも俺の心を苛むこともあるのかもしれない。でも、恋々と拘ることはもう止めよう。そう思える自分がいた。心なしか背筋も伸びたような気がする。

海辺沿いの遊歩道を出、背に潮風を受けつつアパートへの道を歩む。心中、あのラーメンを啜っていた女性に感謝しながら。

これはこれである種、劇的な展開とも言えるのかも知れない。桜の下で独りラーメンを啜る奇妙な女性。そんな彼女に救われた夜。今にして思い返してみると、相当に魅力的でもあった。この近所に住んでいるのだろうか、恐らくはそうだろう。もし、次に会うことがあったらお礼を言わなければ。その時は、いっそラーメンにでも誘ってみるか。立ち直らせてくれたお礼として。

思わず、足取りが軽くなる。



*********************************


男性が立ち去ってから十分ほどの時間が過ぎ去った。おそらく、あの男性が引き返してくることは無いだろう。小さく溜息を吐き、塩生姜のラーメンを盛っていた丼をキッチンペーパーで拭き上げてビニール袋に入れ、それをトートバッグへと納める。そして、別の丼を取り出し、次のラーメンの準備に取り掛かる。

先程の男性に話してみせた婚約者との下り。あれは、嘘だ。私にはこの数年、恋人など居たことは無いし、ましてや婚約などしたこともない。これから恋人など作る積もりなどさらさら無い。そしてこの先、結婚などしないだろう。今宵、この海沿いの遊歩道でラーメンを啜っているのは只の気まぐれにしか過ぎない。明日は恐らく「桜流しの雨」。桜が散り果てる前に夜桜でも眺めてみようという気にはなったが、手ぶらで行くのは芸も無く、そして味気もない。冷凍庫の中に、以前に買い求めた冷凍ラーメンが幾つか有ったので、夜桜を眺めながらラーメンを頂くのも乙であろうと思い、家で下準備をした上で、夜桜を眺めながらラーメンを頂くことにしたのだ。ただ、家の近く、或いは人出が多い場所に行く訳にはいかない。近所で変な噂になっても困るし、また、人出が多い場所に行って、多くの人からの好奇の視線を集めるのもまた望ましくない。そのため、家から離れていて、且つ然程人出も無いであろうこの海沿いの遊歩道にやって来たのだ。この場所に来ることは、もう二度と無いだろう。

先程の男性にあんな話をしたのは、本当の話をしたところで恐らくは納得しないだろう、と思ったためだ。桜舞い散る月の夜、一人所在無く散歩する若い男など、何か劇的なドラマでも求めているのだろう。恋愛が上手くいかないとか、或いは女に振られたとかで、可哀想な自分に酔ってでもいるのだろう。或いは桜の樹の下に、何か救いでも落ちていないかと夢想などしているのだろう。だから、ネットなどで見聞きした話をそれらしく繋ぎ合わせ、それなりにドラマチックなストーリーを作り上げて聞かせてみただけだ。つい先週に婚約を解消したとでも言えば、興醒めして言い寄って来るようなことも無いだろうと思ったので、それを最初に述べてみた。

とは言いつつも、彼の所在無さげな様子に僅かではあるものの同情を抱いてしまったのもまた事実だ。決して悪人などでは無い、良くも悪くも普通の男なのだろう。普通に無神経で、普通に自分勝手で、普通に弱くて、そして普通に優しい普通の男。だから、「でっち上げ」とは言え、「それなり」の話をした積もりだ。「それなり」とは、女性が男性に愛想を尽かすパターンを幾つか並べた内容、ということ。去り際の彼は、何処か納得がいった感じだった。歩み去る様子を見ても、現れた時よりも意思のある歩き方だったし、背筋も心なしか伸びていたように思う。最近になって女性に振られたけれども、そのことに釈然としていなかったのではないだろうか。

彼が本当に女性に振られたのか、そして振られていたとして、それが如何なる理由であったのか、そんなことは知る由も無い。ただ、私の勝手な想像の通りに彼が失恋していたとしても、恐らくそれは大した理由などでは無いのだろう。春が来たから、そしてそれに何らかの理由が上乗せされたから。春の別れの理由など、それで十分だ。ただ、男性からしてみたら、それは釈然としないものなのだろう。何かにつけ合理的な理由を探し、何かにつけ納得出来るストーリーを求める、それもまた男性の性と言えば性なのだろうから。

先程の男性は、私の語った嘘の話を彼の体験に当て嵌めたのではないだろうか。そして、彼なりに失恋の理由に納得が行ったのだろう。それが事実なのかどうかは分からない。ただ、重要なのは、彼が納得できる理由を見つけ、そして渦巻いているであろう億脳から解放されることだ。

あの男性が私の話の全てを理解したのか、私の話全てを心に落とし込み、それを彼の経験に当て嵌めて失恋の理由を理解しようとしたのか、それも分からない。恐らくは、彼にとって受け入れやすい部分だけ「つまみ食い」したのではないだろうか。そして、「つまみ食い」した内容を、彼の中の元交際相手の言動に当て嵌めて、彼なりの整合性のある失恋に至るストーリーを作り上げ、それに勝手に納得したのかもしれない。

でも、そういうものなのだろうし、そしてそれで良いのだろう。人は自分にとって都合の良いものしか見ようとしない。自分にとって受け入れやすいものしか取り込もうとしない。そして、好きに取り込んだ都合のいい材料に基づき、自分にとっての幸せな物語を心の中に作り上げ、その物語の中で安らぎを得る。そのようなものなのだろう。


トートバッグから引っ張り出した茶色の丼の中に、ジップロックから取り出した麺を入れる。褐色を帯びた、太めのゴワゴワとした麺だ。水筒からお湯を注ぎ入れ、箸でかき混ぜつつ麺を温める。麺が柔らかさを取り戻したところで、箸で麺を押さえて丼からこぼれ落ちないように注意しつつ、丼を傾けお湯を近くにある植え込みの根元の土の部分へと静かに流す。続いて別の水筒の蓋を開け、麺の上からスープを注ぎ入れる。力強さを感じさせる醤油、そして脂の匂いとが周囲に立ち籠める。茹でモヤシを取り出し、麺の上へと盛り付ける。自分で準備しておきながら、その量は相当に多かった。果たして食べきれるだろうかと不安になってしまう。最後に分厚い叉焼を盛り付ける。鶏卵ほどの大きさのゴロッとした叉焼だ。それを二切れ丼に盛る。仕上げはニンニクだ。小さなタッパーをトートバッグから取り出す。その中には細かく刻まれたニンニクが入っている。スプーンで刻んだニンニクを掬い出してモヤシの山の上へと載せる。ようやくラーメンが完成した。


出来上がったラーメンをお盆の上に載せ、そのお盆を太ももの上へと載せる。

潮風がふわりと私とラーメンとを包み込む。醤油、脂、そしてニンニクの香りが夜の空気の中へと溶け込んでいく。その空気はやや湿り気を帯びている。予報通り、明日は雨なのだろう。

潮風はふわりと桜の梢を揺らす。薄桃色の可憐な花弁がモヤシの山の上へ音も無く舞い落ちる。


ラーメンを前にして、私は手を合わせる。


男性にした話、それは確かに嘘に満ちたものだった。でも、私自身の経験もそれなりに含まれたものでもあった。食事中に話し掛けて来られたことは鬱陶しかった。話した内容は嘘に満ちていた。けれども、自分の話に真剣に耳を傾けて貰えたこと自体は嬉しくない訳ではなかった。そのためもあってか、最後に少し余計なことを話してしまった。恐らくは一般的なものとは言えない、私自身の気持ちを。他人の弱さを受け入れられないこと、それは私の欠点なのだろう。だからこそ、こんな場所で独りラーメンを啜っているのだろうけれども。


普通に無神経で、普通に自分勝手で、普通に弱くて、そして普通に優しい普通の貴方。そんな貴方の幸せ、それを私は祈る、この一刻だけは。

祈りにどんな意味があるのかは知らないし、祈りは何処に行くのかなんて知らないし、祈りは果たして人に幸せをもたらすかなんて知らないけれど。


ゆるりとした潮風が吹き抜ける。潮の香はラーメンの湯気と混じり合い、醤油や脂、そしてニンニクの匂いと共に私の鼻孔を擽る。


割り箸を手に取り、注意深く力を込める。パキンという小さな音が響き渡る。スープを纏った茹でモヤシを箸で掴んで口へと運び、噛み締める。シャキシャキ感を残したモヤシの仄かな瑞々しさとスープが纏う脂の風味とが絶妙なコントラストを醸しているようだ。叉焼を箸で掴み、口へと運ぶ。ガブリと齧り付く。甘辛い醤油の味が良く染みた豚の脂身が口の中でプルプルと蕩けていく。茹でモヤシの山の下から麺を引っ張り出し、口へと運ぶ。力強い醤油の風味と濃厚な脂の旨み、それらを湛えたスープをふんだんに纏った極太の麺は、噛み締めれば口の中で踊るような食感を与える。レンゲを手に取る。スープを掬い、口に運ぶ。スープを啜り込む。ズズズッとした下卑な音が響き渡る。可憐なる桜が咲き乱れる月の夜には全く以て不釣り合いな、まさしく煩悩の音だ。




桜の樹の下にドラマなど転がってはいない。

例え月が冴え冴えと輝く夜であっても。

そこに在るのは嘘、そして、冷え冷えとした祈りだけ。


或いは、煩悩。


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