第一章 災いは階段から転がる
中島らもが三上寛のライブに飛び入り参加した帰りに酒に酔っ払って階段から落ちて死んだというメールを貰った時、僕は駅前のファーストフード店の窓際の席に座って、ハンバーガーのパンをめくってピクルスを取り除いている女の隣で、煙草を取り出して最後の一本に火を点けながら、ハイライトの空色のパッケージをくしゃくしゃに握りつぶしているところだった。メールを送ってきた友人は電話でもっと色々話したかったみたいだったけれど、その着信のバイブ音に女がハンバーガーを持ったまま振り向いた拍子に、五二年製のギブソン・レスポールをかき鳴らしているマーク・ボランがプリントされたお気に入りのTシャツにケチャップをつけられた僕は、汚れを落とすのに必死でそれどころじゃなかった。
彼の著書はあらかた読んだ。主宰していた劇団の公演も何度か見に行った。訃報を聞いてもさほど驚かなかったのは、彼はアル中でニコ中でヤク中だったし、インタビューでもしょっちゅう死んだ後のことを話していたからだろう。唯一心残りだったのは、彼のバンドのライブパフォーマンスを見に行ってステージに向かってカマボコを投げつけなかったことだ。代わりに、後日、中島らも氏の訃報を悲しんで追悼小説の執筆作業に取り掛かるために小学校以来初めて原稿用紙に向かっていた自称・らもフリークの友人に、カネテツ・デリカフーズのカマボコを嫌がらせの様に差し入れてやった。
ピクルスの女は、その日から僕の日当たりの悪い六畳間に住み着いた。
あの後、
「ケチャップ綺麗に落とす方法知ってるから」
と言って僕の部屋に上がり込んでき女は、シャワーを浴びたいと言って風呂場に入っていった。数分して、寒さで青白くなっていた頬をほんのりとピンク色に染め、バスタオルを巻いて風呂場から出てきた女は、ケチャップを落とすと言って僕のTシャツを脱がした。気がついたら全裸になっていた僕はそのまま女と寝た。Tシャツは後から漂白剤に浸したけれど、裾についた赤い染みは、少し薄く、オレンジ色っぽくなっただけだった。
マーク・ボランのズボンの裾がオレンジに染まってから太陽が五回上り下りを繰り返した夜、女は僕の部屋のこたつの上に化粧ポーチの中身を並べて、百円ショップで買った折り畳み式の鏡を見ながら慣れた手つきで眉毛を描いていた。近所のコンビニに行ってくると言ったら、一緒に行くからちょっと待ってと言われて大騒動が始まってしまったのだ。女が化粧に取りかかったところで、声をかけられた時に聞こえない振りをしてそのまま出ていってしまえば良かったと思ったが、振り向いて返事をしてしまった手前、今更無視をして何か言われるのもそれはそれで面倒だと思って大人しく待っていることにした。時間がかかりそうだと思った僕は、ベッドに立てかけていた白のストラトタイプのエレキギターを手に取った。
中学生の頃、テレビのロードショーでバック・トゥ・ザ・フューチャーが流れていたのをたまたま弟と一緒に見た。主人公がジョニー・B・グッドを弾いているのを見て、単純な僕はその年の誕生日プレゼントにエレキギターを頼んだ。僕が欲しかったのは映画の中でマーティンが弾いていたようなレスポールギターだったけれど、父親が買ってきたのは安っぽい初心者用の白いストラトギターだった。高校に入ってからコピーバンドを組んで何度か文化祭で演奏したりもしたけれど、僕がやりたかったようなヤードバーズやキンクスやビーチボーイズの曲は候補にすら入らなくて、ボーカルの奴の趣味で今流行りの腑抜けた様な歌い方のエモーショナルな曲ばかりやらされたので、バカバカしくなって辞めてしまった。その頃丁度女の子と付き合い始めたばかりだったので、デート代を稼ぐためのアルバイトで忙しくてギターは部屋の隅に追いやられていた。その内に、弟が勝手に持ち出してJ-POPのコピーバンドなんかやるようになったので、白いストラトギターは完全に俺の部屋からいなくなってしまった。この六畳間に迎え入れたのは、去年母親が押し入れの中を片づけていた時に見つけて、邪魔になるから処分するように言い渡されたからだった。
あいまいな記憶を頼りに、高校生の頃に必死で練習したジェフズ・ブギーを弾いてみた。僕は、ジミー・ペイジに乗っ取られる前の、ベック時代のあのオーソドックスなスタイルが一番好きだった。彼のギターは、聴いているとワクワクして踊り出したくなるような、それでいてクールなものだった。加えてあのキース・レルフの歌声。彼は歌が下手だのなんだのと評判はあまりよくなかったようだが、僕はそうは思わない。ルックスもなかなかでマッシュルームカットがよく似合っていたし、なにより彼のブルースハープを聴いて僕はまさにシビレたのだった。ちなみに、僕は彼がバスタブの中でギターを弾いていて感電死したという話を、つい最近まで信じていた。そんなことを考えながらギターを弾いていたが、長い間触っていなかったからか、それとも単にセンスがないからなのか、多分両方だろう、指がうまく動かずに、たまにプチプチという音が混ざって途切れ途切れになった、不揃いなメロディーが鳴った。
諦めてオール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイトを弾きにかかったところで、女はやっと化粧を終えて着ていく上着を探し始めた。僕はギターを元の位置に戻して、コートを羽織って先に玄関を出た。
コンビニに着くと、女はドリンクコーナーからダイエットコークを取り出した。そして、陳列棚に並んだ様々なフレーバーの袋を見比べて熱心にポテトチップスを選び始めた。どうやらスナック菓子が食べたかったらしい。体型を気にしてカロリーゼロ飲料を選び、しかし夜中にポテトチップスを食べようとする女の思考は僕にはよく解らなかった。僕はカロリーゼロだとか、健康なんとかだとかいう類のモノはどうも虫が好かない。なんだか胡散臭いし、どうやっても絶対味は落ちる。大体、体型や健康が気になるのならそんな物口にしないで緑茶をのんで梅干しでもかじっていればいいんだ。日本人なんだから。
ここでも時間がかかりそうだと思った僕は、一人で外に出てコンビニの灰皿の前で買ったばかりの煙草に火を点けるべくライターを取りだそうとポケットに手をかけた。
寒い。
思わずコートのジッパーを首もとまで上げる。
自分が吐いているのがタバコの煙なのか、それとも外気に触れて白くなった息なのかが解らないほどだった。