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 ボクたちの街は、冬場は晴れの日が多い。

 その年の冬は、例年に増して晴天が多く、雨の降らない日が続いた。

 エルのいない日常を神様が追認しているのかな、と思いながら、ボクはアルバイトの日々を淡々と過ごした。

 彼女とは、ときどきチャットで短く近況報告をした。


 変わったことといえば、スマホの音楽配信サービスに加入したことくらい。

 Yをはじめ、少しずつ最近の音楽を聴くようになった。


 春が来ても、雨はほとんど降らなかった。

 水源のダムの渇水が報じられ、自治体から節水の呼びかけが始まった。

 バイト先でも、水を節約する取り組みが始まった。


 そんな中、春から大学に入った女の子が、ボクの職場にアルバイトで入ってきた。

 ボクより8つ年下のその子を、ボクは先輩として指導することになった。

 そのことをエルにチャットで報告した。

 彼女から「武運長久」のスタンプが返ってきた。


 5月の下旬、「6月初めに戻る」というチャットがエルから送られてきた。

 ちょうど梅雨前線が沖縄、奄美付近を行ったり来たりして、本土を窺っていた。

 雨の季節を待つかのように、そこここに佇む紫陽花の蕾。


----------------------


 ボクたちの街が梅雨入りした6月最初の火曜日、エルがボクの部屋にやってきた。


 その日の夜遅く現れたエルは、全身ずぶ濡れだった。

 傘を持ってこなかったのか、どこかに置いてきたのか、わからない。

 部屋に入ってくるなりフローリングにしゃがみ込んで、顔を両手で覆うとさめざめと泣き始めた。


 ボクはしばらく、声をかけられずにいた。


 頃合いを見計らって、ボクはエルに声をかけた。

「...どうしたの?」

「...あの子が...あの子が...こんなのって!」


 立ち上がって流しの蛇口をひねり、水を一杯コップに汲むとエルは一気に飲み干した。

 再びしゃがみ込む彼女。

「サプライズ、と思って、知らせないであの子の部屋へ行ったの...合鍵でドアを開けたら...」

 荒くなってきた呼吸を整えて、エルは続ける。

「まさに...『真っ最中』だったの。それが...その相手が...」

「誰?」

「男の子だったの!」


 彼女は、今度は声を上げて泣き始めた。

 5分くらいしただろうか。しゃくり上げながら彼女が続ける。

「...女の子が相手だったら、許せないけど...まだ納得がいく。離れていたのはわたしのせいだから」

「そんな...」

「でも、あの子、『バイ』だってこと...わたしには一言も言わなかった...納得できない!」

 再び声を上げて泣き始める彼女。体は小刻みに震えていた。

 ボクはそんなエルを前にして、同じ目線になるようにしゃがみ込んで、彼女が落ち着くのを待つしかなかった。


----------------------


 エルが部屋に入ってきてから30分くらい経った。

 少し震えを残した声で、彼女がボクに言った。

「ごめんなさい。キミには関係のない話だよね」

「そんなこと...気のすむまで吐き出してくれたらいいよ」

「...」

「それより、シャワー浴びたら? ずぶ濡れだったし」

「うん。そうする」


 エルのために、バスタオルとジャージの上下をシャワーの外に置いた。

 シャワーを終えてぶかぶかのジャージを纏ったエル。

「お腹空いてない?」とボク。

「うん。少し」

「明日食べようと思ってたお惣菜あるけど、よかったらご飯食べる?」

「ありがとう。いただくね」


 食事の間、エルは例の話題には少しも触れずに、東京でのいろんなことを話してくれた。

 仕事のこと、両親のこと、再会した旧友のこと。

「高校まで千葉に住んでたんだよ」

「じゃあ、大学からこちらに?」

「うん。そしてそのまま居ついちゃったというわけ」


 扇風機の風をあてて干していた彼女の服。

 デニムとカーディガンは時間がかかるけれど、下着とレモンイエローのTシャツは、食事を終えた頃にはほぼ乾いた。

 自分の服を身に付けて、ジャージの下を改めて履き直したエル。


「そう言えば、ちょうど去年の今頃だったよね」とエルが懐かしむような口調で言う。

「そうだね。たしかキミは、今日と同じ服を着てなかったっけ?」とボク。

「へええ。キミはそういうことに気が付くんだ」

「それ以外のことは鈍感ってこと?」

「じゃなくて...本人のわたしが忘れていたってこと」


----------------------


 雨音は途切れることなく続いていた。


 ボクが淹れたコーヒーを二人で飲む。

「ところでどうなの。職場の新人さんは?」とエル。

「うん。飲み込みの早い子でね。すっかり戦力になってる」

「そうじゃなくて...どんな子?」

「ええと...ウェリントンの眼鏡をかけてる。まあ普通の女の子かな?」


「ボーイッシュ? それともガーリー?」とエルがさらに突っ込んでくる。

「そうだね...どちらかというとガーリーかな」

「じゃあ、キミの守備範囲だね」

「...て言うか、そういう目で見たことないから。8つも年下だし」

「一度『そういう目』で見てみたら? なにか気付くかもしれないよ」


「それより、キミはどうするの?」とボク。

「そうだね...もう一度会って、ちゃんと話をしてみようと思う」とエル。

「そうか。『武運長久』だね」

「ははは。返されちゃった」


----------------------


「本当にありがとう」と口元にうっすらと笑みを浮かべてエル。

「別に、ボクは何も」

「キミがここにいてくれなかったら、わたし、壊れていたかもしれない」


 エルは、両腕をボクのほうに伸ばし、両耳のあたりにやさしく手を添えた。

 唇を近づけて、ボクのおでこに、そっとキスをした。

 洋画のワンシーン。おかあさんが子供にする「おやすみのキス」のようだった。


 それからボクたちは、横に並んでぴったりと体をひっつけた。

 去年の台風のときに彼女が口ずさんだYの曲を、ボクのスマホから流した。


 曲が終わると、エルが呟いた。

「わたしが、キミの言ったように低気圧の『L』だとしたら...」

「うん」

「反時計回りの渦に乗って時間を元に戻すことは、できないのかな」

「ボクには...わからない」

 彼女は黙っていた。ボクが続ける。

「戻すとしたら、いつまで戻したいの?」

 しばし沈黙ののち、彼女が消え入るような声で言った。

「わかんない...わかんないよ...」


----------------------


 翌朝6時過ぎ。ボクが目を覚ますと、エルはまだ眠っていた。

 くるまっていた毛布がずれて、ジャージの下もいつの間にか脱げていた。


 背中を丸めて膝を曲げて、両腕を内側に畳み込んだような格好の、スレンダーな肢体。

 透き通るような白い肌。

 見習いの天使がいて、宿直明けで休んでいるとしたら、きっとこんな感じなんだろうな、と思った。


 彼女は普段、朝10時頃に出勤していたはず。

 いったん部屋に戻って着替えるにしても、8時に起こせば大丈夫だろう。

 毛布だけもう一度体にかけて、眠っている彼女をそのままにした。


 雨は降り続いている...


----------------------


 その日以来、エルはボクの前から姿を消した。

 2,3度チャットにメッセージを入れたけれど、リプはなかった。

 バイセクシュアルの「あの子」との関係がどうなったのか、知る由もなかった。


 紫陽花が美しく咲く季節はあっという間に過ぎ、梅雨は明けた。


 合コンしたときのメンバーの中で、カップルが1つ成立していた。

 その伝手で、エルがどうしているか、さりげなく聞いてみた。

 職場はそのままで、隣の街に引っ越してルームシェアを始めたという。

 連絡してみようか、と言われたけれど、丁重にお断りした。


 8つ下の職場の後輩。

 エルに言われたように「そういう目」で見てみたら、可愛らしいロングスカートが似合いそうな、チャーミングな女の子ということに気付いた。

 夏休みになって彼女が長いシフトに入るようになり、一緒に過ごす時間が増えた。

 思い切って海に誘ったら、喜んでついてきてくれた。


----------------------


 今日は後輩の子が、初めてボクの部屋に来る日。

 朝から曇り空で、夕方から雨が降るという天気予報。

 狭い部屋だけれど、片付けて念入りに掃除をし、窓を開けて換気をした。


 夕方になって彼女がやってきた。

 ミディアムヘアを、ポニテにアレンジしている。

 持ってきた傘は使わずにすんだようだ。


 しばらくすると雨音が聞こえ始めた。

 彼女が窓のところへ行き、振り返ると、フレアのロングスカートがふわりと揺れた。

 ウェリントンの奥の瞳をきらきらさせながら、彼女はこう言った。

「窓、閉めますね。湿気ちゃいますから」


 彼女は、少しだけ開いていた窓を閉めた。


 雨音が、遠くなった。



<了>

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