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悔季 ~violent~

作者: 恵善


 岩壁を背中にして荒い息を繰り返す。この青雲に再び横切る影を期待する。あの季節を未だ待っているのは俺だけではないはず。あれは、二度と来ることのないかもしれない『げき』だった。


 春が恋しい。夏が待ち遠しい。秋が美味しい。冬が好き。

 わかりやすい季節の変化を楽しむ人々は、衣替えを意識して、移り変わる風景を意識して、その季節だから楽しめる行事を待ちわびるだろう。

 けれど、二度と来ないかもしれない季節は、どの季節を味わっても、俺が求めていたと気づいたものを失った心を埋めてはくれない。


 テレビは相変わらず都合のいい情報に区別させられた『季節』というものに、例年と違う天候が発生しただけで異常気象と騒ぎ立てていた。いつもと変わらない内容。情報の自由は作り手のセンスで不安にも前向きにもさせる。けれどさすがに見飽きた。いつも同じ内容だ。

 夏に雪が降ってもいいじゃないか。と、自分が童心となればはしゃぐ姿を想像する。もしも地球の氷河期と呼ばれる時代に、現代の科学と材料を持った人間がいたら、氷河期は防げていたか? つまり、成るものは成る、というものだろう。俺たち人間は、あの時期、成ることを怖がって、成らないことを頑張った。

 俺の背中にあった小さな羽は、もう形が無く、痣だけとなっている。

 あれは三年前の暦では秋に入ったころだった。


     ◆◆◆


「おい! 危ないぞ!」


「大丈夫! 自分の心配をして!」


 岩壁を抱きしめながら、数秒後には自分に言い聞かせたかのように木霊する俺の声。それと重なり婚約者の静恵しずえの言葉に、流れる汗は風に熱を奪われ冷や汗となる。加えて、忘れそうになっていた自分を支える筋肉の傷みを認識させられた。


 趣味はロッククライミング。そのように言えば大抵の人間は「へぇ!」と言って数分間の雑談のネタにはなる。俺と静恵が挑戦しているのは頂上へ登る事が一番の目的としているアルパイン・クライミング。

 頂上から眺める視覚的な山肌や、到達したという心の達成感は、自分には挑戦した事を成し遂げられるという俺の可能性を高めてくれる。


 もう少し、もう少し。

 これが地上の平面であれば歩いて二秒程度の距離だろう。けれど、地上より垂直に面している凹凸の少ないこの壁は、指一本の力加減を間違えただけで俺の自信をもぎ取るほどの静かで頑固な面構えをしている。


 何度見上げてしまっただろう。

 空をほんの一瞬眺めるだけで、ほとんど青にしか見えない白の少ない蒼天は、次に眺めた時にはさっき見た白く細い巻雲の位置が大きく動いていることに、風の強さを教えてくれる。

 その風を全身に浴びたい。それが今一番自分を癒せる全ての願い。

 願いを込めて再び全身に気勢を呼びかけ、膂力を振り絞った。その瞬間、俺は夜を感じるほど、手元が見えなくなった。


 影?


 一瞬俺の体は影に覆われた。この青雲の下で壁にしがみつく俺に一瞬の影。サングラスを掛けていた事も重なり、その暗闇に、自分が次にどこへ手足を進ませようか忘れそうになる。

 再び蒼天へ向かって顔を上げる。目に入ったそれは、全身へ適切に配置させた力を無力化してしまいそうなほど現実味を感じさせなかった。


 馬……白い、馬。


 今俺はどこにいるのだろう。自分の居場所がわからなくなる。今日の出来事を全て最初から思い出し、俺が今いる場所を再確認しなければいけないのではないか。俺が認識した白い馬は、俺と青雲の間を横切った。


「ねえ! どうしたの!」


 俺の思考を現実に戻してくれた静恵の声。


「なんでもない!」


 今俺は、岩壁を抱きしめ、踏みしめ、越えようとしている最中だった。自分の疑問を解決する場所でも、静恵に対して、俺の目に映った幻覚まがいな存在の議論をする場所でもない。もしも同じものを見てしまっても、心奪われない事を彫心鏤骨して、ようやく違う岩肌の感触を触り始めた。


「あ、ハア!! ハ……ハ、は……」


 登りきった。すぐにハーケン(釘)を打ち込み、ザイル(命綱)で静恵の安全確保に努める。


 俺はこの青雲の下、全身に風を浴びるはずではなかったのか。

 背中に岩の感触を感じながら、直前に見た白い馬の事が頭から離れなかった。頭が勝手に作り上げた幻影であったのか、何か記憶に白い馬との由縁があるのか。頭で考えられる限界を感じた俺は体を起き上がらせた。


「あ……」


 その頂上からの景色を初めて眺められたという興奮に身を震わせたかったが、俺の視界のピントはもっと手前に合わせられた。


 白い馬。それは一度は幼少の頃に母親に読まれた絵本であったり、少年の頃に偶然目にした映画であったりする空想の存在。付属品ではないと感じるような背中から伸びる広い翼。

 それはペガサスという呼称以外、俺は知らなかった。


 滑るように飛翔するペガサス。存在を肯定する理由が見つからない存在。けれど、存在を否定するにはあまりにも理想的に純粋な存在。俺は頂上に到達した喜び以上の神気を与えられた気持ちとなった。


「ハア! あ……、ハ! 和也かずや!」


 感情の全てを奪われていた俺は、やっと現実に戻ったとでも言うのか。自分のいる場所やするべき事。大事な静恵の存在が皆無だったような心は俺という存在の意味を思い出した。触れていない存在よりも、感触と力強さを感じる静恵の手を握り、引き上げる大事な命の存在を確認しながら、二人で頂上に到達した。


「ハア! ハア! 和也! 何か今日、変よ」


「ごめん」


 その理由を口で説明は出来なかった。出来るとすれば、静恵が自分の目で見てもらう事だけ。けれど、少し悪い想像していた事だが、その理想的で純粋な姿は、すでに目に触れる事はなかった。


     ◆◆◆


 ザイルで懸垂下降した俺と静恵。頂上での俺の様子に少し気まずさを匂わせていた空気感は、懸垂下降から歩行に変わった頃には和やかなものだった。


 ロッククライミングを愛するサークルにより建てられたロッジ。そこでは宿泊以外でも岩壁の情報交換や技術的なアドバイスを受けられる貴重な空間。大学の頃とは違って、本当にクライミングが好きな者だけが集まる。その中でも時折雑談の声が大きくなるのが岩壁を登る動物の話。それはロッククライミング顔負けであるほどの傾斜を登るアイベックスというヤギの話。あれには負けるとか、いい勝負ができるなど、動物から学べる事の話を熱気高く盛り上がる。


 動物と聴いて思い出してしまう事は、やはり頂上で目撃したペガサス。けれど、それを口にすれば怪訝な目で見られる事は間違いない。アルコールでも入れば冗談話のように口を滑らせるかもしれないが、それでも口にすることには慎重になる。


 談笑するロッジの食堂の壁は全体がガラスとなっている。吹雪や嵐であれば外からシャッターが下りて亀裂を防ぐ。その心配がない今日この頃は、沈む太陽を眺め、外にそびえる山々を眺めながら、頂上に達成した者は懐かしみ、これから向かう者は今見えている山の頂上に自分がいることを想像する。


 和やかな空気は一人の声により、その場にいる全てのクライマーは振り向いた。


「単独登山した人からの連絡がありません」


 情報の少なさから何から尋ねていいか少し考えるクライマー達。飲食を止め、雑談する口を止め、ひと時だけの静寂を終えると、今度は矢継ぎ早に質問を繰り返す。


 単独登山。それは危険を少なからず楽しみながら一人で自然を楽しむ事ができて、自分の好きなペースで行動できる事が好きなクライマー。そのような孤高な心の域までは俺は持てない。そういう心には、人とは違う自分の何かに強いこだわりを感じて、人を寄せ付けづらい雰囲気を漂わせる者も少なくないから。


 少し慌ててクライマーの前に現れたロッジのスタッフは、一先ず安堵感を感じさせてくれる内容と雰囲気を伝えてきた。孤高の者は、ロッジへ帰宅予定を伝えていた事であった。

 遅くても今の時間に戻っていなければ、何か起きたということだろう。と笑いながら言った言葉。

 結果的に遭難の可能性を拭える内容ではないが、単独登山をした者は、人と会話することを避けているようなタイプではないのであろうと感じる安堵感。孤独と孤高では人格の質は違うであろうから、せめて孤独な人間ではないことに俺は心を撫でた。


 聞けば、その者が行った先は、俺と静恵の登った岩壁の横にそびえる同じような岩壁の山。俺達が登ったものよりも標高は高く、クライミングを開始した時間も俺達より早く、それでいて角度的に見えない位置だったため気づくことは出来なかった。


 山岳警備隊への連絡は終わっているらしいが、すでにヘリコプターが飛ぶには時間が遅く、二次遭難を考えると捜索は翌日になる可能性がある。下手に税金以外で働く民間が動き出せば、無事である遭難者に対して莫大な請求を出す者も出るかも知れない。民間のヘリコプターなら一分で一万と言われるほど、それはひと財産が無くなる程の額だ。


 それでも考えられる事は、遭難した本人は素人ではないということ。何度もこのロッジへは出入りしており、通常ベテランであれば下山する事は避けるはず。やきもきする気持ちは皆同じだろう。それは暗黙の了解で遭難した彼が適切に身を休めている事を願うばかりだ。


 翌日。やはり、彼はロッジへ帰って来なかった。山岳警備隊はすでに捜索へ出掛けたと聴く。静恵の体調が悪いようだ。熱もあるが、薬が嫌いな静恵は安静にすることで様子を見たいという希望だ。俺もどちらかと言えば快調とは言えない。けれど発熱というものではなく、それは今さらから思う程の背中に感じる筋肉痛のような痛み。意外と昨日のクライミングは過酷なものだったんだとしみじみ感じる。


 今日も昨日と同様の日差し。クライマー達は岩山へ向かい、ロッジを後にした。俺は静恵の様子を眺めつつもロッジのスタッフと山岳警備隊からの連絡を待った。それは適切に行動すれば助かるというものを遭難したクライマーから学びたい気持ちもあった。

 どのような事情で予定が狂ったのか。帰れないと思った時、どのような心境だったか。どのように一夜を過ごしたか。それらの情報はこれからの俺の糧になる。


 実体験ほど最良な情報はない。誰かには良かったから自分にも良い、というような流れてきた情報ほど疑わしいものはない。本人が味わった一次情報。本人から聞くことが出来れば最高の二次情報であるが、誰かの脚色により変化させられた三次情報ではなく、今この場で伝わってくる二次的な情報で少なくとも自分の糧にしたい。

 だが、その情報は、晴天の下で始まった二次災害の情報となった。


「ヘリコプターが堕ちたって!?」


 ロッジのスタッフが左手を左の耳にあてる。それは常備耳につけていた特定小電力トランシーバーに連絡が来たからであろう。見通しの良いこの場所ならでわに性能を発揮するが、それでも壁がない状態で500mから1kmがいいところだろう。つまりその程度の距離から連絡が来ているということだ。

 ロッジの支配人であるベテランのクライマーが善意で捜索に向かっていた。おそらくその者からの連絡だろう。


 最初にこちらへ届く情報は、遭難者発見の情報を期待していた。けれど実際は、捜索に向かったヘリコプターの墜落。俺はすぐに外を一望できるガラスの壁へ向かった。

 ロッジの日よけとなるオーニングにより影となっている食堂のガラス。まばらにロッジで落ち着いていたクライマーはロッジスタッフと合わせて五人くらいだろうか。俺がガラスの壁で眺める後ろで静かに同じ景色を眺めた。


 見える。そこから見えた小山を覆うような層雲。それは自然な雲の姿ではなく、グレーがかった暗雲が混じる。すでに最初の遭難者捜索よりも規模が大きくなった話題性あるニュース。それは音の速さで麓へ情報が行くことだろう。


「え? どういうことです? もう一度お願いします! ……え? 化物?」


 ロッジスタッフの言葉に周囲の者は振り向いた。この非常時にどのような化物がいるというのだ。それはどんな比喩だろうとスタッフの応対する言葉に耳を傾けた。


「え? すいません電波が……すぐに戻ってくるんですね? ……はい、了解いたしました」


 俺を含めたクライマーはスタッフを囲んだ。


「何があったんです?」


 そのようにクライマーから言われたロッジスタッフは、右手で軽く頭を掻きながら、困ったように答えた。


「えと、その……すぐに戻るから、シャッターや戸締りをする準備をしろと……」


「え? 戸締り? どんな驚異があるっていうんですか? こんな晴天に……それに化物って……」


 スタッフは答えに困りながら、軽く会釈してその場から動き出す。それは支配人から言われた通りに戸締りをする準備をするためだと思われた。

 シャッターが始動する。少しずつ上から下へ向かって降りてくる。外の光よりも室内に点けられた電灯の光の方が目立ち始めた。いったい何から護るためであろう。

 まだ閉められていない小さな窓もある。そこから遠目に覗くクライマー達はロッジの支配人が戻って来るのを待つ。ほとんどの者は窓から三歩下がった場所から外を眺め、一人のクライマーは窓に顔を付けるような距離で外を眺めた。


「一体なんだってんだ? 俺は今からあの山に挑戦しようかと思っていたんだぞ?」


 少し苛立ちを口に出しながら、その男は顔いっぱいに光を浴びていた。


「あーあ……一体、なんだっていうんだ? あぁ……いったいなんだって……なんだって」


 言葉を繰り返す男に俺は振り返った。知り合いではなかったが、これだけ霊びなトーンで言葉を漏らす男の性格なのか癖なのか、それ以外の事なのか怪訝な目と心で眺めてしまった。

 俺が近づくよりも早く、その男の相棒らしき男が近づいた。やはり普段と様子が違うのか、その男の肩へ手を当てながら様子を伺う。


「おい、お前どうした……あ、え……あ……ああああああああ!!」


 その男は腰が抜けたようにその場で尻をつく。それは窓に顔を向けた相棒の顔を覗いた時だろう。

 その顔に何が見えたのか、突然叫びだし、後ずさった。


「なんだっていうんだぁ? なんだっていうだってなんだってえ?」


「うああああああ!!」


 同じ言葉を繰り返す男。繰り返しているかと思った。それは繰り返しているのではなく、同時に声が発せられていた。

 振り返る男に、俺は動けなくなった。その男の相棒は腰を抜かし、もう一人いたクライマーは叫びながら二階へ上がった。


 窓を眺めていた男の顔から、別の顔が浮き出ていた。


 喉からも、もう一つの顔。確認できるだけで三つの顔がある男。それぞれ本体の男に似ているようで崩れたような顔。それは少しずつ形をハッキリさせ、すでに存在していたかのように顔の中から、喉の中から、外に出ようとしていた。

 男の履くズボンの中では何かが蠢いている。まるで中には蛇でも忍ばせているように尻から巻くように足に螺旋の凹凸を思わせる。


「うわあああああああ!!」


 ロッジのスタッフの男が襲いかかった。

 武器として抱えたもの、それは片隅に置いてあった季節外れのスキー板。恐怖に駆られた行動か、ロッジの支配人から何か深く聴いていたのか、その男はスキー板の平ではなくサイドの部分を真っ直ぐに構え、男へ振りかぶった。


「ぐぎゃあああ!! ……なんだっていうんだ……お前、何しやがった……なにしやがった。がぶああああ!! ぐぅあああああ!! グルルルルル……」


 男から生えていた顔が飛び出た。

 それは中でゆっくりと形を成していたものが一気に飛び出た。人間の顔と見えていたものは、白い牙を目立たせ、口元だけが顔面より前方へ突出させた。それは動物であれば犬であろう。

 振りかぶっていたスタッフはスキー板を再び振り下ろす事が出来なくなった。振り下ろそうとしたその存在は、すでに人間が抑え込む事ができるような存在ではなかった。

 意味があるのか、無意味な事なのか、すでに男と呼べなくなったその化物は、体を大きく左右へ揺らし始めた。その動きは、まるでまだ完全な形へ変貌していないのか、背中が痒いかのようにぐにゃぐにゃとくねらせる。

 俺は、いや、俺達はどうすればいいんだ。どうしてこのような怪物が存在している。どうして突然現れた。

 これは謎解きなのか。解くような謎なのか。

 変貌していくその化物に攻撃を加えれば、そのまま自分に飛びかかってくるのではないかという予感が拭えない。

 逃げるか。眺めるか。戦うか。

 どのように考えても、すでに現実味が無くなったこの空間。夢であることを願うだろうが、夢ではないと自信を持って言える。

 俺は一歩ずつ、横に動いた。それは逃げるためでなく、戦うわけでもなく、目の前で犬の顔を三つ突出した化物の後ろにある窓から、その頭を狙うライフルの銃口が見えたから。

 静かに狙う銃口。その銃口から放たれる威力に巻き込まれないため、俺は手招きでスキー板を握ったスタッフと、腰を抜かした化物の相棒を招く。

 化物以外、全ての人間が窓の銃口に気がついた。

 俺達の存在に気がついているのかわからないライフルを持つ者。それはフードを被っている事だけはわかった。

 俺達が十分に窓のそばにいる化物から距離を空けたとき、窓の外にあるライフルは火を噴いた。


 その声は、犬なのだろうか、人間の悲鳴なのだろうか。銃弾の衝撃から余裕の無くなった化物は、着ていた人間の服を内側から引き裂き、その本来の姿を表に出した。

 ライフルからの銃撃のダメージを感じさせない肉質は、脂肪も感じさせないほどに皮が張り切った筋肉の塊。隙を見せない体は蛇の尻尾を体中に纏い、三つの引けを取らない面構えは、全ての生き物に戦いを放棄させる。

 もしもこの存在に門番をさせれば、どのような者でも近寄る事もなく、どのような生き物にも、門を開けることはないだろう。必要な時にだけ、門を開き、閉じ込める存在。

 ケルベロス。

 確かそのような空想の番犬がいた。それは幼い頃、空想の生き物に興奮をもらい、眠れない夜をもらい、夢をもらった想像の産物。それが眼前に現れた時、先に感じたのは恐怖だったが、どこかに興奮を感じる自分がいた。


「ぅあ……うああああああ!!」


 ロッジスタッフは勝手口へ走り出した。それはちょうど勝手口が外から開いた時だった。

 ライフルを放銃した者が外から開けた勝手口のドア。吹き込んでくる青空の下で温もりを含めた風の匂いを鼻にかすめた時だった。その匂いには生還という魅力がある。ロッジスタッフには、ケルベロスの真横を走りきる事が全てだった。

 鋭い爪。鋭い牙。それが少しでも体をかすめれば、恐らくは楽に絶命することが出来ない予感がするほどの威圧感。

 俺は思った。きっとやられると。

 だが、そのロッジスタッフはケルベロスに邪魔されることなく、生還への空へ羽ばたいた。

 そう、その言葉の通り、羽ばたいたんだ。

 空に向かって、天高く、駆け上がる。炎のような体毛は揺らめき、なびき、広がる。ドラゴンを思わせる輪郭は、もし食べられても神の一部となれる幸福を感じられるのではないかと思わせるほどに神々しい姿が馬の足で空を蹴り、鹿のような軽やかな胴体は抵抗なく麒麟となって空へ吸い込まれた。

 麒麟となったスタッフが外に出た瞬間に、ライフルを構えた者が内側から押されたドアの反動に腰を落とし、被っていたパーカーのフードがめくれて光に照らされている顔はロッジの支配人。

 俺は思う。なぜケルベロスは外に脱出したロッジスタッフの道を塞がなかったのか。

 襲わなかった。それは、きっとこのドアが門の入口であり、それを通過する者には寛容に、そこに近づかないものは門の外へ引き込むのではないだろうか。


 ここは地獄の一丁目。一度踏み入れれば、きっと戻る道は用意されていないだろう。

 俺は怖かった。今から二階で休んでいる静恵の元へ走ろうとする行為が。

 それを見たケルベロスは、俺をどうするのか。

 決断が出来ない俺。そんな俺に決断力のある者から響く銃撃音によりリセットされた。


「奥へ行け!!」


 ロッジの支配人はケルベロスに至近距離でライフルを発泡しながら叫ぶ。


「いいか!! 窓を開けるな!! 光を入れるな!! 外へ出るな!! 化物になるぞ!!」


 ケルベロスの相棒だった男は食堂へ走り出す。そして俺は二階へ駆け上った。

 俺達が逃げられるようにロッジの支配人は発泡を繰り返す。その銃撃に恫喝と鋭い牙を振りまきながら食って掛かるケルベロス。けれど、支配人は軽やかに逃げていた。

 それはとてもしなやかに、そして俺に背を向けているにも拘わらず、顔の真ん中から長く太く赤い鼻が伸びているのがわかった。

 俺は手すりを握りながら階段を上がる。

 軽やかにケルベロスから逃げ回る支配人の足から見えているのは長い下駄。いつの間にかライフルは葉っぱの団扇となっていた。

 軽やかな羽ばたきをする支配人。長下駄と団扇を用いながら、ケルベロスを馬鹿にしそうなほど天井に向かって傲慢な態度を見せる高い鼻。その高い鼻に似合ってケルベロスの牙も爪も当たらない。すでに俺達を護るという使命感よりも、目の前の強者を嘲笑う事が目的となっているようにも思える天狗である。


 俺はその攻防に見とれそうになっていた。それでも今は静恵の安否確認が先と考え、ケルベロスと天狗からは目を離し、静恵の元へ急ごうと頭を切り替える。

 俺は相当注意力が散漫となっていたのか、二階に駆け上がったところで置物のような同じくらいの背丈の像にぶつかる。俺は勢い余ってそのまま像を押し倒すように倒れた。

 反射的に目を瞑っていた俺。

 目を開くと、その像の表情が俺を向いていた。その顔は、慣れた表情ではないが、先ほどまで見ていた者に似ていた。そう、それはケルベロスへ変貌する三つの顔を見た瞬間に二階へ逃げ走ったクライマーだった。

 そのクライマーの表情は、口を大きく開き、眼球の丸みがはっきりわかるほどに見開き、何から防ごうとしたのか、両腕やその肘は肩まで上がっている。

 俺は即座に立ち上がった。この岩へと変貌したクライマーは、他の者と違い、何かの攻撃にあったと言えるだろう。それがこの二階で起きたというのであれば、それはどのような化物がこのフロアにいるのであろう。

 俺は普段の装備を身に纏いたかった。それは、どのような建物にいても、普段の装備さえあれば脱出は容易である。岩壁に穴を開けるためのハンマーも握り締めたかった。俺は何度も左右を確認しながら、自分の部屋への侵入を邪魔する存在がいないか確認した。

 気配がない。

 このクライマーをこのような姿にした者はどこだ。けれど、すでにどこにいてもその警戒心はとれるものではない。

 俺は自分の部屋に近づいた。なるべく音を出さずに。ドアのノブをひねり、部屋の中を覗き、七割方の安全確認ができたと感じた俺は速やかに部屋に入った。気休め程度と感じる鍵を掛ける。

 幸いカーテンは締め切っていて、外とは遮断されていると安心すると、すぐに自分の装備を並べ始めた。

 ひとりになってやっと少し冷静に考えられる。それはロッジの支配人が人間であるうちに放った言葉。

 光を入れるな。外に出るな。

 少し考えてみる。支配人はずっと外にいた。今となっては姿を変えてしまったが、ロッジから外に飛び出した者は一瞬で変貌した。その差の違いは何だと。

 光に関して考える。支配人が着ていたもの。それは今俺も着用しようとしているフードパーカー。ウルトラヴァイオレット(UV)とも呼ばれる紫外線を軽減するために生地に加工がしてある。限りなく100%に近いUVカットを宣伝していた生地に期待したい。

 それは昨日も着ていた。もしかすると、その光に何か要因があるのか。それとも外の空気に問題があるのか。

 光を窓で浴びてケルベロスとなったクライマー。

 生還と信じて外に飛び出て、光いっぱいを全身に浴び、麒麟となったロッジのスタッフ。

 化物を確認したことで急いでロッジへ戻ってきたが、フードがめくれた事により光に身をさらして天狗となったロッジの支配人。

 光が、人間を変貌させているのか。

 そして、光が原因であれば、それを防いでくれるUV加工の物を身にまとえば、それを遅らせる事が出来るのか。それに、麓の街ではどうなっているのか。

 世界の現在を知りたかった。けれど、それよりも大事な事がある。それは静恵のそばに行かなければならない。静恵の部屋は俺がカーテンを締めていた。だから、静恵は無事なはず。

 俺はドアの鍵を開錠して、サングラスを直用して、深くフードを被った顔を廊下に突出し、左右を見た。

 誰もいない。

 先ほどと変わらない様子。今なら静恵の部屋に行ける。そう思い、廊下へ足を忍ばせる。角を曲がったところにあるドア。そこに何もいなければ良いが、油断が出来ない空間にハンマーを握る俺。ゆっくり、ゆっくりと顔を角から出し、様子を窺う。

 何もいない。

 すぐに角を曲がり、呼吸を整えた。けれど、俺は呼吸を途中で止めた。吸い込むことも吐き出す事も止めて、静恵のいる部屋を注視した。

 部屋のドアが開いている。

 それはどんな意味があるというのだろう。もしかすると、すでに静恵は石にされたか、それとも化物に。

 悪い想像も含めて、俺は静恵のいる部屋を覗いた。


 「ぅう……う……ぅぅ」


 鳴き声が聴こえる。それは静恵を思わせる鳴き声だった。

 壁とベッドの間に隠れている静恵。ベッドの上に左手だけを覗かせて、その薬指には婚約指輪が見えていた。

 すでに異変に気付いて隠れていたのか。少しでも身を隠す手段をとっていた事に、俺は安堵の声を漏らした。


「良かった……静恵」


「和也……あなたは……普通?」


「ああ、何ともない。二人でどこかに身を隠そう」


「駄目」


「静恵?」


「私を……見てはダメ!!」


 ベッドの端から鞭のように床を叩く物体があった。それは爬虫類か何かの尻尾を想像させた。気づけば、ベッドの上には無数の蛇が俺に向かって近づいている。

 彼女が体を起き上がらせる。それは硬い鱗に守られたような肌。背中を向けているが、頭からは床まで届くほどに長い蛇をぶら下げていた。


「空気を入れ替えたくて……外を眺めたの。そしたら……ねえ和也。私の顔を見る勇気がある?」


 勇気。これは勇気なのか。それとも愛情なのか。俺は静恵が大事だ。けれど、俺はこのまま静恵の顔を見ていいのか。メデューサとなった俺の婚約者に顔を合わせて、像となり、そばにいてあげれば良いのか。


「静恵。今、どんな気分だ」


 静恵は振り向くことなく、暫しの沈黙。まるで猫が尻尾を振るように無造作に動く大蛇の下半身を持った静恵。

 そのような姿になって、静恵にとってどのような気分なのか。その言葉によっては、俺は成る自分を選びたかった。


「私と顔を合わせた男がいたわ。ものすごい形相で、石になった。それならあなたならどんな顔するだろうって……その欲求はとてもあるわ。けれど、今の気分も……悪くないわ」


 それはメデューサとなった静恵が振り向こうとした刹那だった。

 メデューサは俺に向かって襲いかかってきた。

 静かに振り返れば、俺は今の静恵の顔をはっきり見るつもりだった。けれどその態度の豹変に、俺は顔を伏せてしまった。


「グルルウゥ……グギャラララ!!」


 俺の背中に感じた猛獣の声。静恵は俺の横をすり抜けた。静恵の下半身の大蛇に突き飛ばされた俺は、静恵の部屋の中へ転がった。

 俺は後方にいた存在を確認した。

 ケルベロス。天狗との攻防はどうなったのか。そしていつの間にか俺の背中まで来ていた。静恵はきっと俺の背中にいるケルベロスの存在に気付いて、俺を救うために、ケルベロスへ立ち向かった。

 近づいて静恵の役に立ちたいと考えた。けれど、外に開いた部屋のドアを静恵は鱗の体をドアへ叩きつけて閉められた。

 俺は、なんて無力なんだ。

 そのような焦燥や無力感に自分への自責を唱えている最中、廊下は静まった。

 俺はドアへ近づき、ノブを握り、その結果を見ようとした。


「来ないで!! もう大丈夫……そして、和也……さようなら」


「静恵……」


 ドアの向こうから伝えられた別れ。それは静恵がケルベロスを抑え込んだと考えられる声に安堵したと同時に、静恵と完全なる決別になった。

 廊下を擦り進む音。それは静恵が俺から遠ざかる音。

 俺はこのドアを開ける事が出来ない。あまりにも変貌した生き物とはかけ離れた弱い存在。だから、せめて、俺は静恵と同じ存在になろうと思った。

 窓側へ振り向き、近づき、カーテンの布を両手で握る。

 勢いよくカーテンは左右に開いた。そしてまだサングラスにフードを被った状態の俺は、外の景色に息を飲んだ。


 全ての空想の生き物には、全ての居場所がある。その生き物が同じ世界で出会った時、その行為も必然となる。


 腹だけが膨れた皮と骨だけの餓鬼の周りには草木が一本もなくなる。

 妖精が餓鬼の空間と重なれば、周りには花が咲く。

 角を生やした鬼が妖精の空間に接触すると、その妖精を一飲みに喰らった。

 その鬼は、岩に座りながら歌う人魚に誘われて、人魚の周辺に現れる海原へ誘い込む。

 その人魚をいくつもの吸盤と巨大な体のクラーケンが飲み込む。


 そこには、空想と思われた生き物の世界と食物連鎖があった。

 太陽を眺めれば、そこには煌々と光を振りまく不死鳥の姿。全ての消えた存在は再び形を成し、食物連鎖を繰り返していた。

 新しいウルトラヴァイオレットを降り注ぐこの場所から、新しく世界を支配する生き物を決めんばかりに争っていた。

 俺はカーテンを閉めた。そして、静恵のパーカー、装備、サングラスを握り締め、廊下へ出た。石化したケルベロスの逞しさに足を竦ませながらも、一階へ向かって歩いていく。天狗の羽が散らばったロッジのロビー。一見ひと気はなく、ほとんど戸締りされていたため漏れてくる光は限られている。

 俺は食堂へ向かった。緩やかな音楽が流れる食堂。ガラスの壁はシャッターで閉じられていた。食堂の厨房に向かうと、ケルベロスが人間だった時の相棒が震えながら包丁を握っていた。


「大丈夫です。人間です。よかったら、このパーカーとサングラス使って下さい」


 光を遮る装備を男に渡し、食料が尽きるまで、ここに居られるまで、俺はこのクライマーと二人でロッジの厨房に立て籠った。


     ◆◆◆


 カレンダーに並ぶ丸は、三ヶ月が経っている事を意味していた。

 俺は再び静恵の部屋へ向かった。ケルベロスは相変わらず逞しく佇んでいる。

 以前と同じようにフードを被り、サングラスを着用して、カーテンを左右に開いた。

 景色は、紅葉となっていた。

 すでに秋は過ぎ去り、冬が到来しているはずだった。

 しかし、生き物たちの気配はなく、その痕跡も確認できない。俺はフードとサングラスを外し、外の光を浴びた。自分に何か変化するものがあるか。けれど、何も異変はなかった。

 ニュースを眺めるようにした。それは、いつも世間で流れている情報。異常気象やゴシップ。まるで、それらは何も無かったかのように。けれど、そのニュースの日付はおかしかった。それは俺が立て籠った日付。次の日も。次の日も。何故かリプレイされているテレビの放映。誰が、なぜ繰り返し放映をしているのか。それは、人間らしさを忘れないためのリプレイなのか。そして、これを止める者は、もういないのではないか。


 俺の味わった季節。あれから三年経っても、再びやってくることはなかった。

 春、夏、激、秋、冬。

 五つの季節を味わった年。その年だけは一年が50日ほど長かった。一日が、27時間あった。地球の自転と公転が狂わされたのか。それを狂わせたのは、いったいどんな存在なのか。

 世界は、臆病な者だけが生き残った。外で何が起きているのか見ない者。どんな異常気象があろうと、外に出ない者。興味で外を眺めようとはしなかった者。

 人間は世界を大きく変える気もない臆病者だけが残った。つまり、地球に優しい生き物だけだ。


 季節が変わるたびに、俺はアルパイン・クライミングを繰り返し続けた。どうしてもあの日を忘れられないから。


 ロッジの厨房で、着替える俺の背中を見たクライマーは俺に襲いかかってきた。俺の背中に小さく生えた白い羽は、ケルベロスとなった相棒のクライマーが恐怖するのには十分だった。

 きっとあの時、ハンマーを振り上げなかったら、俺はロッジで生きていけなかっただろう。

 今俺は、静恵と登った時と同じ岩壁の上にいる。

 思い出す。あの日のこと。

 あのペガサスは、孤高の遭難者が先駆けとなったのだろうか。

 背中に岩の感触を感じながら、蒼天を眺めている俺は、後悔していた。

 なぜあの時、パーカーを脱ぎ捨て、サングラスを外し、光を浴びなかったのか。

 背中に残る痣は、何に成ろうとしていたのか。

 もう来ないかもしれない激は、あの日の事を懺悔する悔季げきとなった。



   ――了――


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