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努力義務違反  作者: 弩祈 こん
第一部
2/3

[1-2]予防線は噛み合わない

何か一つでも手に入れるものがあっただろうか。

そう、これまで。

何か一つでも後に残るものはあっただろうか。

そんなことばかり考えてしまう。

何か一つでも結果に結びついただろうか。

自分史のなかで、ひとつでもその胸に誇れる栄光があるだろうか。

そしてそれが思い返せるものでなくては、思い出とは言えない。


だから、無いからには無いなりにこの先の一生を闇に塗れて送って行く。

何が不満なんだ。

それでいいじゃないか。

世間体は悪い。無論だ。言うまでもなく汚れ役かもしれない。が、わざわざ己が多くを曝け出すこともない。真実なんて当該者しか知るはずがないのだから抱え込んでおけば、それは粉薬を包むオブラートのように薄いベールに護られたまま、曖昧なまま一時は遠く明後日の方向へ仕舞っておける。ただ、ともすれば誰にも気づかれることもなく胸の内に埋もれ、薄れていってしまう。まさに音もなく、だ。

自分だけが生粋の動機など知っていればいい。部外者から理解されるために一々行動しているわけではない。

そうするしかなかったことも、自分ならよく知っているから。


第一、初めからうまくいくことがないなら思い返すこともないではないか。ただの空虚でしかないのなら思い残すこともないのだから。


違う。

中途半端だからいけない。

中途半端だから、それら過去が少しの輝かしい栄光を含んでいたとして煮え切らない。

この際、僕は声の限りにこんな仮説を提唱したい。



──思い出なんて無いほうがいいんじゃないだろうか?



実態のない、記憶のなかにしか留め置き保つことのできない虚構を抱えていたところで振り返れもしない。実態とは止めどなく進んでいる時間軸のなかの今この瞬間であって、一秒でも通り過ぎてしまった毎秒毎時失いながら時を重ねている。そういうわけだから。

そんなに僕は強くはない。むしろ、今にも崩れ落ちてしまいそうなこと豆腐の如し。指一本で今にもプッチンされてしまいそうに脆弱で。君の指にその全ては懸かっている。つまり僕の命運は君の手の内にあるということになり他ならない。

……あぁっ、それはプリンか。


ところで、君とは誰だろう。

生憎、空想からなる物語の主人公のように女の子のあてが無限にあるわけではない。同じ“無”でも虚無、皆無の方だ。

まあ、異性に限るというようには特に一言も意表していないのだが、心身の支えの決定打になるのは大抵の場合異性と相場が決まっている。筈。わからないが。

ヒロインだけでなく主人公も偶像では、まるで神同士の馴れ初めでも描いているのだろう。

何も恋仲になるだとか、そんなのは微塵しか思っていない。人の関係性は意外にも多彩で、概念は実にそれだけには留まらない。

きっと無の境地、更地の状態から見つけていくしかないんだろう。

その、本来単純明快なはずの答えを探すために長いようで短い旅が始まっては終わり、終わってはまた始まり。その繰り返し、極論は堂々巡りだ。

まあ、それでもいいじゃないか。そうする他にないとも言う。

どうか見逃してやってくれ。頼んだ、諸君。


無論、今日も。やや生暖かい都会の不気味な夜の風を鼻筋に受けながら、大通りより一本隔てた表の路地を足早に駆け抜けると、すぐそこはもう君待つ館だ。いくらもかからない。

駅から徒歩3分、という案内でも少々過剰に思える距離ではあるが、まあ腐っても東京の繁華街に位置する主要駅だ。駅の出口なんて無数にある。僕は人混みの少ないルートを抜けるよう図っているから、正面突破しようと思えばいくらか人混みを掻き分けることにはなるんだろう。決して綺麗などではない、ビルと人波と埃と、汚泥に塗れた都心の端くれの実に小汚い街だ。そんな街の歩行者、通行人の一員となり紛れて道の先の館へと歩みを進める。そもそもの話しが、東京の街を綺麗と思ったことなどないのだが。

君だってそうだろう。館に至るまでの道程は単なる通過点に過ぎないが、同じような景色を傍観しているはずだ。週に何度も。


──はぁ……。


なにかにつけて君、君と、僕は悲しくなってしまったよね。それもセルフで、だけど。

ただ歩いているとつい色々と思考が巡ってしまう。つまらない能書きを垂れている間に颯爽と着いてしまった。



『──おはようー』


「おはよッス」

出入口のガラス扉付近にいたキャストの一人が即座に気づき、声をかけてくる。

もはやその一句は「おかえりなさいませ」でも「いらっしゃい」でもなく、単なる誰とでもする万人の挨拶だ。

そのほうが親近的だし、一向に構わないのだがそこそこに慣れた娘は皆、こんな具合だ。一つ言うなれば、とうに日没後であって夜なのであるが。


空いているテーブル席にどかんと腰を下ろし、手提げの鞄を下ろすとふんぞり返って今日もお給仕メイド待機のスタンバイ完了だ。


『……今日は一人なの?』

そう些末な問いを投げながら近づいてきたのは頭髪のアッシュが印象深い──羽成 あおい。

整ったルックスからしてみても、現行の在籍キャストでは知名度が随一高く“店の顔”といって過言はないだろう。かつて肩を並べる絶世の美女がいたことはあるが、それは幾らも過去の話で今でこそ揺るぎない地位と風貌を見え隠れさせている。


「ご生憎様なことに、一人だよ今日は」

『なんで生憎なんて言うの!? 来てくれて嬉しいんだよ?』

「来てくれて嬉しいけど話すのは別に……ってところか?」

如何せん根が卑屈なもので、いくらでも意気地のない嫌味な反語が考えついてしまう。


『──言葉を聞いたままに理解できないの?』


「はは、そんなに自虐されても困るよな」

『困るわよ〜、フユキくんだってひかげちゃんじゃなくて私でがっかりしてるでしょ』

「まあ、あの人は……俺がそう思うだけかもしれないけど、あんまり来てくれないからな」

『うーん、よくわかんないけど、そりゃ気分的な問題じゃない?』

「そう思っておくことにするよ」


『……ところで今日、仁くんは?』


「仕事のはずだが──って結局あいつなんじゃねぇか」

まあそう来るよな、と思っていた。所詮というかなんというか、あくまでも僕は食玩のチョコレート類やウエハースといった“食”のほうであり、つまりは後者の玩具という付加価値……景品を求めているであろう──この場合大多数の消費者にとっては余剰となる付属品に他ならない。

これは自虐的要素も皮肉も何もなく、実情を述べているに過ぎない。


『……まあ、うん、だってそうでしょ』

「否めないのが悲しいけど……、ちなみにここに来始めたのは俺の方が先ではあるんだけどな」

『身内へ向けて古参アピール?』

『あっはは』

「……あっははじゃないよ」

それなりに砕けて会話が弾んでいるように外面は見えるかもしれないが、実際にしているのは他者に係わる話題ばかりで、目先の自分達のことで何か話すことがあるかといえばこれといって思い浮かぶでもない。常に緊張をもって接しているし、いつ会話が途切れやしないかとヒヤヒヤしっ放しだというもんだ。


案の定、一時の静寂が訪れる。といっても店全体が静まり返っているわけではないのだが、少なくとも僕の思考回路は黙りこくってしまって何事も口をついてこない。それはこうやって推しメン以外であっても、あるいは推しメンに対してすらそうで。


『フユキくんはさ、ここ結構長いけど』

「……うん?」

『……今までにあんまり推しのイメージがないよね──どうしてここに来始めたの?』


君は何をしてきたの?と問いかける君……ではないが、ほぼそれに近しい刺さる言い草だ。

まあ無理もない。何の実績も、功績も残してきてはいないからだ。

普通、こういった息抜きに等しい歓楽の類は休日や仕事帰りの嗜み程度のものだと思うが、趣味の範疇に留まらず、日常におけるすべての人間関係を濃縮還元したかのような集大成的な実に高度な駆け引きが要求される世界だ。

その者の実績たる、所詮は過去の栄光としか意表できないような代物に左右され強弱が決定づけられる。趣味、ましてや息抜きなどと称するには尋常でないまでに白熱しきってしまっている。


まあ、言うなれば──

「……来始めたのは操に連れてきてもらったからだよ」

『そっか、操くん……ね。前からよく絡んでたのは知ってたけど』

「……あの頃はイツメンだったからなー」

『そのあとフユキくん、全然来てなかった時期もあるしね』

「そう、ブランクがあるし」


操。黒井 操──

特になんだということはないのだが、そういう名前の奴が身近にいて、過去には行動を共にしていたというだけの話だ。



メイドカフェ……否、コンセプトカフェ産業は本来なにを目的としているのだろうか。

キャバクラシステムの下位互換と言ってしまえばそれまでだが、比べれば自然に近い形で交流が結べるところが現代の男性には一躍買っている部分なのかもしれない。


『──なになにー?ブランクがなんだって?』


アイドルライブカフェと銘打たれ、カフェ業務のなかでの軽度接触のほかにステージパフォーマンスも売りにしているというわけで、申し訳程度にではあるが名分上は歌って踊れるキャストを取り揃えている弊店。……もといこの店。同じキャストでもない我々利用者とガチもののキャスト達の間には上下関係もない。ただ店員と客という漠然と、けれど覆ることのない厳格なる構図があるのみ。


……ん。


『フユキくんの過去の話しだよ。ね?』

「お……おう、そうだな」


背後からの急な刺客に咄嗟の反応ができず閉口してしまったところを、代わってあおいが話の入りを解説してくれる。肩にかけた長髪を揺らしていたずらに笑うその少女のことを、いつからか僕は目で追っていた。そう、彼女は胸下には心躍る──ひかげ、の三文字を呈したネームプレートを下げて。


『……ふゆくんが結構古いってのは知ってるけど』

いつもの澄ました面持ちで会話に乗りかかってくる彼女の顔を伺うことしかできない。


『わたしと出会ってからは結構長いからね~』

乗りかかった話題を更に深くあおいが展開してくれる。


「そんなところではある」

あおいにとって初期からの客ではない上に面識があるだけで交わりがあまりなかった中途半端な関係ではあるが、期間の長さでいえばこの手の話はできるほうだ。


『それはわかるけど、誰推しだったの?』

「特には誰も推してなかったよ。別に現場もあったし本腰入れてなかったからなぁ」

『そうなのかぁー』

「それほど興味なさそうだな」

『いやー、そういう過去があったんだなって思って。フユキくんに』


そんなひかげの返答に、非常に瑣末なことなのかもしれないが自分が君付けで呼ばれていることが気になってしまう。

もっと言うと、打ち解けていない証とでも言えば説明がつくだろうか、距離を感じてしまうわけだ。

まあ、所詮こちらはお客であるから、一壁置かれているのは至極当然と言われてしまえばそれまでの話だ。


……が、必ずしもそうではないということを僕は既に知ってしまっている。手遅れだ。その節穴のような目を覆って、この際無知の境地を貫き通すしかない。

闇の香りが鼻をさす今日この頃、オタクの皆さんいかがお過ごしでしょうか。

メイド商やアイドル相手に行き過ぎた詮索を始めたオタクなど放っておくしかない。放っておかれるしかないのである。

悲しきかな、世の定め。


『……コイツはこんな顔して結構訳ありだぞ?』


いらない補足というか、一瞬の隙あらばもはや有用な情報性が皆無の無駄口を挟んでくるのがこの名も無き青年戦士、天野 仁である。いや、れっきとしてそれが名称なのであるが。

「生きてるだけで訳ありだよ」

『……なんか悟りきったようなこと言ってるし!』

「経験に基づいて言ったまでだ」

『君まだ21歳でしょ』


会話の輪のなかにいるのだから当然といえば当然なのだが、こういう余計な話を展開されると非常に……文字通り非情にも無駄な食いつきを見せるのが彼女こと三ヶ日 ひかげさんだ。

もっと食いついてきてほしい、普段の血と汗と涙と涙と、主に涙の結晶であり生きてきた時間、即ち積み重ねた人生経験と見聞を惜しみなく注ぎ込んだ僕のコミュニケーションズ・トピックには悲しきかな、さして食いついてはくれない。

それなのに……、この半ば言葉にならない無情をどうしてくれようか。


『いいかひかげちゃん、こいつはな……』


『──こいつは……?』


『次期魔法使いに選ばれし孤高の人材なんだよ』


……


──声高らかに。

店内を駆け巡るような声量で。


そう、蒼い春とはきっと全人類が思う以上に渋い春で、それ云わば屈辱のコース料理だ。

処は大都会トーキョー。


今宵も早々に更けていくのだった。


…………

……



『──で、お前はうまく行ってんのか?』


「いや、それほどでも──」

『それほどでも……って惚気の場面で使う言葉だぞ』


控えめに笑い飛ばす天野は、今まさにテーブルチーズが無規律に濫入したドリアを頬張るところだった。

夕食の席。まあ夕食と称するには既にかなり遅いくらいの時間なのだが。

あの店の営業は午後10時までだから、閉店時間まで滞在してその足で庶民の強い味方低価格ファミレスやラーメン屋で空腹を満たすのが長年の暗黙の日課となっていた。約束を取りつけなくとも毎晩いつの間にやら自然発生的に集って、といっても何人もの集団ということはなく主に天野と時々もう一人が居たりいなかったりという完全なる内輪ラインナップだが、夜食を啄むに至るまで行動を共にするのが僕らの面々にとって当たり前のセオリーだ。


「……よくわからないんだよ、あの子が」

『具体的には?』

「俺だけ距離置かれてんのかなーって思うんだよ」


天野は箸を止め、申し訳程度に僕の表情を見ながら話に耳を傾ける。


『何かそう思うに至る出来事があったってことだろ?』

「呼び捨てにしてくれないんだよ。君付けが抜けない──」

僕は目も合わせずに言い放った。その一言から時は動き出したと言うに十分だった。

物事には必ずといっていいほど、程度の差はあれ転機というものがある。大小目に見える形だったり、あるいは見過ごしてしまうくらい微々たる風向きの変化かもしれないが、アドベンチャーゲームっぽく言えばシナリオが新たな分岐に突入する、その皮切りになる瞬間があるはずだ。


『……それだけか?別にそれ、普通じゃないか?』

「もちろんそれだけじゃないよ。ただ、そういうところにも距離を感じるもんでね」

『俺だって呼び捨てにはされてないしな』

「まあ、それもそうだな」

『で、他にも訳があるんだろう?』


「……してくれないんだよね、ふぁぼ(お気に入り)もフォローも」

あくまで淡々と、机の上の無作法に並ぶ半分は片付いた食器に視線を置いたまま答える。

『別に深い意味がない気もするけど……一応聞いておくと他のオタク達はどうなんだ?』

「もちろんされてるよ。だから俺だけが──」


ファミレスの入口のガラス戸が開く。蛍光に濁った東京の夜空を見上げ頭に手を回すと、溜息を一つ小さく漏らして家路へと着くべく歩み始める。

何をそんなに気に留めることがあろうか。多分、僕の気に病んでいることはこの東京の薄汚れた空気中の塵と大差がないくらいちっぽけなものだろう。

情緒がやられてしまう。まあいい、今日は帰ったら一人で晩酌にしようか、そんなことを片手間で考えながら。

もうすぐ終電だ。もたもたしていては終電など儚くもたちまち逃げ去ってしまう。そう、まるでオタク達に対をなすアイドルのように──

なんて、冗談だ。この場だけの悪いジョークであってほしい、と── 心より願う。


──



目に見えるものが全てではない。物事の全てが目に見えるわけではない。

他人の思考なんてその最たるものだ。手に取って判るはずもない。無理もない、当然だ。ただ相当に不都合なことなので口に出したくもない。

できることなら目を逸らし、抗い続けていたい。それはもちろんそうだ。それこそ、口にするまでもない。

他人の頭脳など解読できるはずもないのだから、わからないなりに相手に合った様々なケースや可能性を予期しておかなくては、こう相手のために模索するというよりかは後の自分へのダメージを軽減する緩衝材となるわけである。

皆が皆、甘い人間関係に浸かってきたわけではあるまい。とてもじゃないが、汚れきってしまった僕は対人関係の大方を悲観的に捉えがちだし、それ以上綺麗事に変換することができない。

誇張して言えば、相手の一部分だけを見て知ったつもりになって善かれと思ってしたことが実はとんでもなく悪印象で、蓋を開けてみたら嫌われてました。なんて末路へ行き着くことだって生きていれば一度や二度ではないはずで、それは確かに相手方も不愉快な思いをしたのかもしれないが深い傷を負うのは主に他ならない自分自身だ。

対象が好意を寄せている人物ともなれば尚更、人一倍の情熱を懸ける分見誤りやすく、引き起こされる弊害も甚大である。

とにかく、実情が想像の遥か斜め下でなければいい。多少の犠牲は払って構わない。


当然の摂理だと思うが、好きな人、好き、とまではいかなくても気になっている人、興味を惹かれる存在に関する事象ではやはり特別細かいことが気に留まってしまう。

今日はうまく話せなかったとか、ちょっとした意思を汲むことができなかったとか。本当は取るに足らないことであっても、悪いことをしてしまったなあ──であったり、反対に──これは言えてよかった。という場面もあるにはあるだろう。もっとも、これだけは言いたかった……と思う局面のほうが圧倒的に多いし、僕の場合はいつの時もそう感じているのだが。

非常に潔く言うと、一喜一憂するという話だ。


ちなみにひと摘みだけ補足しておくと、虜になるということは何も恋愛感情を抱くということではない。十二分発展する可能性を秘めているが、必ずしもイコールとはならない。



缶ビールを片手に、財布の中息を潜めていた今日の戦利品、もといチェキをおもむろに取り出してはぼんやりと目を落とした。

まあ、戦利といっても特に何かと戦った実態すらないから不戦勝とでも言うところだろうか。一流メジャーアイドルのようにチェキの撮影権がすぐに枯れるわけでもなし、さらに有名どころになるとチェキというメニュー自体がそもそも存在しないかもしれない。

部屋の壁掛け時計が刻一刻と秒を刻む音、建物に反響し不愉快な騒音に成り下がった通行人の足音、周囲を行き交う車の音。住宅街の夜なんてこんなものだろう。カーテンの隙間からは不気味な月明かりだけがささやかな光量をもって個を自己主張しているようだった。

いつか浴びるほど飲酒してみたい──なんて、しょうもないことを考えながら。

今晩は缶を持つ手が進みそうだ。

大して餐めもしないくせに。


──


「……ッアアァーーー」



割れるような頭痛のなか、遠吠えとも似て非なる声にならない奇声が零れていく。


止めどなく時を刻み続ける掛け時計の針は5時と10分過ぎを示していた。

心なしかカーテンの微々たる隙間から覗く空は既に少し明るく感じられた。


……

…………



『──フユキくんって言うの?』


……


『──私とよく撮ってくれるね』


……


『──ここはすごく平和なところだから、安心していいよ』


……


『──お友達はもう来てないの?』


……


『──全然ドライじゃないけど』


……


『──よくわからないよ』



……思い出を重ねてきた。


確かに、何のことはない。何を積み上げ重ねてきたわけでもない。血と汗と涙は結晶として実るほどに流していない。大した時間も経っていないからだ。

古株か新参かと問われれば断然後者に近い。というか、彼女の在籍歴を考えて新参者そのものだ。


そう、僕はこの店にブランクがあるから。


……


『──フユキくんとは……、もっと普通の話がしたいよ』


……


──ただ頭を過ぎっては掠めていく、だけの。

実に、ただ実にそれだけなんだけれど。


……


『──わたしはね、言いたいことは結構なんでも言っちゃうんだよね』


……


……果たして──

…………そうだろうか?



『──フユキはかなり考え過ぎなんだよー、自分でわかるだろ?』


……


……天野、すまないがそれは言われ飽きた。


……


『──ふゆくんは……、これから応援してくれるって信じてるよ』


取り立てて特筆することもない平時の会話の一コマで何気なくかけてくれたであろう、言ってしまえば何でもないはずのその言葉。

その言葉が、頭を渦巻いて離れない。

僕も若造とはいえ一応これでも幼少期はカセットテープ世代なので引き合いに出すが、壊れて取り出せなくなってしまったビデオテープのように。

そう、ひとたびチャンネルを回せばその場面で静止したきり動かない呪縛のように襲ってくる。壊れたレコード、とはよく使う比喩であるが、まあレコードの世代までは遡れないので割愛するものの他ならない、そんな感覚だ。

周波が合致すれば、その静止したキャプチャから離れられなくなる。

即座にチャンネルを直せばいいだけと思われるかもしれないが、今まさに吸い寄せられようとしている磁石の両極にすかさず止めを入れるのは容易くはないことが想像できようかと思う。


その言葉自体は別に、取り留めのない。おそらく、あまり角の立つようには聞こえないんだろう。そもそも言葉なんてのは常々受け取り手の主観や偏向に左右されるもので、発信者の本意なんてのは二の次になってしまいがちなわけで。どんなに綺麗事を重ねようとも、相手の影に巻かれた本質を手に取ってわかるはずもないのだから仕方がない。どこまでも中途半端に浅いオタクビジネス現場経験のなかででも、それは重々承知しているつもりだ。


──応援。


……そんなことはない。言わないつもりではあるが、その言葉とは少しかけ離れているように感じる。

確かに、アイドルやキャストに対する応援の仕方は千差万別、各自それぞれだ。

だけれども、応援と銘打つのは実態に即していない気がしてあまり好きではない。端的にいうと綺麗事すぎるのではないかと思ってしまうし、今の活動の全てや来たるであろう近い未来の出世を応援していると果たして胸を張って明示できるのだろうか?


まさかとは思うが、出世して遠い存在になり続けることに、共に歓びを感じているのだろうか?

いや、そういう節も無くはない。そう思うことだって無論、ある。


好きな人の喜びは──自分の歓び。


いくら自分自身の私情が渦巻いて霞んでいようとも、それはいつも初心として在り続けるんじゃないだろうか。

推し事(オタク)をするということは、まず一に自分との葛藤だ。推し問答……とでも。


そもそも、ここはカフェで相手はやや特殊な職種というだけの一般人だ。

キャスト各自が推しとして付くお客の動員を競いがちな要素があるのはアイドルと同傾向だが、無理にアイドルの風潮を絡めることでもなくエンタテイメントの一種というだけ、客層に比較的重複する部分が多いというだけで、システムも共通点はあれど接触の時間や程度は一線を画している。であるからアイドルの前提で話すと実態に即さないということになるし、ある程度切り離して考えるべきだ。


──とにかく、頭が痛い。今日という日は幸いオールフリーだ。いや、アルコールはガッツリ入っているが。

……。


うん、業界人っぽく言うと、オフなんていうやつだ。


そんなことをブツブツと小声で唱えながら、目を瞑る。

目覚めの瞬間、少しは気が晴れているだろうか。数時間後、あるいは数十時間後の僕へ。



──健闘を祈る。


ついでに言うなれば……心身の健康を。

なけなしの駆け出し(?)で投稿を始めました、弩祈 こんと申します。この場を借りてご挨拶をさせてください。

所謂“コンセプトカフェ”が舞台です。綺麗事では済まされない世界、楽観論が通用しないリアルとそれを取り巻く人間模様を描きました。


始まりはいつも肌寒い季節。

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