神さまの文学
その日は、小説のベストセラーを記念して書店でサイン会が催された。
空調が効いていたとはいえ、人が密集した部屋はうだるような熱気がこもっていた。ペットボトルの水も一時間と持たずに飲みきってしまった。そんな中で、ファンが持ち寄った本にサインをしたあと二言、三言会話を交わして握手をする。それが延々と繰り返される。けれど、私はまったく苦労を感じなかった。
斬新な文体に独特な世界観、それでいて王道を外さないストーリーと評価され、ありとあらゆる賞を総なめし、女性作家としての絶大な人気を博することとなった。国内のみならず海外でも幅広く翻訳され、それも飛ぶように売れていった。中には私の作品を「神さまの文学」なんて称える人もいた。
彼が現れたのは、サイン会も終わりを迎えるときだった。
最後尾のファンと握手をして、さあ撤収、というときに彼が私のところへ来て、「サインをいただけませんか」と訊ねてきた。
彼は白のTシャツに紺のジーンズ、黒いスニーカーを履いて、ポールスミスのキャップを深くかぶっていた。とても顔立ちの整った青年だった。
編集の方が彼と私の間を割って入り、断ろうとしたのだけど、「いいですよ」と私は応じた。何百人とさばいてきたのだから、最後に一人ぐらい、訳もない。
私はパイプイスに座り直して、彼から手渡された本をテーブルにおいて背表紙を開いた。
「今作も本当に引き込まれました。貴女の描く世界観は独特で、それでいて登場人物のドラマは深く共感ができる」
「ありがとうございます」
何百回と言われてきた言葉に、特になにも感じず、形式的な返事をする。
紙の上を走らせたサインペンがキュッキュと音を立てた。
ところで、と青年は呟くように言った。
「実は僕も筆を握っていたことがありまして。どうしても先生にお聞きしたかったのですが」
「なんでしょう?」
「あの素晴らしい世界観、どこからアイデアが浮かぶんでしょうか?」
インタビューでは必ず訊かれた質問だ。いったいそんなことを聞いてどうなるのか、思えば不思議な話だけれど。
私はサインペンのふたをパチンと閉めて、テーブルに置いた。
「偶然ってことばが正しいのか分からないけど、ふと思いつくんです。夜布団に入る前とか。気がつけば知らない街に立っていて、遠くからは聞き慣れないジャズが流れている。周りにいる人の服装は私たちのとあまり変わらないんですけど、どこか違う。どこがって訊かれると説明しづらいんだけど、雰囲気とかそういうものが。そんな中、私は人々を眺めながら見慣れない建物が並ぶ街を冒険するんです。やっぱり、どこからか聞こえてくるジャズを耳にしながら。そういう世界を、ありのままに書き記すだけです」
微笑みを浮かべて彼を見る。
「私はよく、神様が与えて下さった世界、なんて言ってます」
私は冗談めかした口調でそう答えた。
「神さまの文学、ですか」
何かを確かめるように彼は口にした。
彼が私に向けるまじめな表情に、妙に心が揺らいだ。
「これ、お返ししますね」
と言って私が本を彼に手渡したとき、聞き取れるかどうかの音量で、小さく呟いた。
「けど、先生の作品は神さまの文学なんかじゃない」
「え?」
驚いて視線を彼の顔に向けるが、彼はバッグに本をしまうと、
「ありがとうございました。大切にします」
「あ、ちょっと!」
私の制止を求める声もまるで聞こえなかったかのように、彼はきびすを返し、颯爽と書店を出て行ってしまった。
「いやあ、あいかわらず先生の本は大人気ですね! どこの書店も完売してしまって、ネットでも売上1位! 発注が追いつかないそうですよ。やっぱり、作品が売れるというのは、作家としても誇らしいですよね?」
新聞、雑誌、ネットと、連日私の小説の話題で持ちきりだった。
ラジオ番組にもオファーがかかり、作品に至るまでの経緯や今の心境を語りつづけた。
作家として、これ以上名誉な事はない。
それは分かっている。
けれど、あのサイン会で彼が言った言葉が鮮明に刻み込まれ、素直に喜ぶができなくなっていた。
成功をつかんだ私に対する彼の嫉妬だ。
そう割り切れば良かったものの、彼の言葉は呪いのように胸に居座っていた。
その呪いは次第に肥大化し、気がつけば私は小説が書けなくなっていた。新たな世界に入り込もうにも、それらは私を訪うことはなかった。
同時に彼に怒りを覚えるようになった。人の作品を、それも世界中から賞賛される作品を偽物呼ばわりした彼に。
そんなとき、奇跡とも呼べる機会が到来した。
出版社に向かう途中、駅のホームで彼を見かけたのだった。
冷静に考えれば、八つ当たりにも近い行為だったが、そのときの私は文句のひとつでも彼にぶつけてやろうと力強く歩み寄り、彼に声をかけた。
「すいません」
無地のシャツにカーキのズボン、あのときと同じバッグを肩にかけた彼はゆっくりと振り返る。やはりポールスミスのキャップをかぶっていた。
彼は私を見ると少し驚いた表情を浮かべた。
「あのときの言葉、あれはどういう意味だったんですか?」
彼が口を開く前に、私は問い詰めるように質問をぶつけた。
「あのときのって……」
「私の作品は偽物で、神の文学なんかじゃない。そうおっしゃいましたよね」
すると彼はああ、と納得のいったように、私の目を見てはっきりと答えた。
「どういう意味って、そのままの意味ですよ。先生の書かれた作品は神の文学じゃないって事です」
なんてことはない。
そう言いたげな彼に、私はつい声を張る。
「国内でベストセラー、海外でも翻訳されて、それも絶賛されてなお、あなたは私の作品を偽物呼ばわりするんですか?」
どれだけ奢ったことを口にしたのか、分からない私ではなかったけれど、彼を目の前にして、感情を押しとどめることができなかった。
彼は困った表情で腕を組み、空を仰いだ。
私はと言えば、ただ彼をにらみつけるだけだった。
どれぐらい時間が経ったか、彼は何かを決心したように視線を私に戻すと、バッグから厚い原稿用紙の束を私に差し出した。
「勘違いさせてしまったようで申し訳ないのですが、僕は貴女の描く世界が大好きだし、先生の大ファンです。だからこれを読んだあと、先生の世界観が壊れてしまうんじゃないかと、心配なんだ。でも、どうしても読みたいとおっしゃるのであれば、お貸ししますよ。これを読むかどうか、その判断はあなたに任せます」
いったいどういうことなのか。
私は訳も分からず彼が手にする原稿用紙を見つめ、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「これは……?」
「僕が書いた物です」
「あなたが?」
「ええ。連絡先をお渡しします。読み終わったら、あるいは読まずに返すときは連絡して下さい」
彼は当然のように答えた。
私は自分を呪った。
こんな男に、心を悩まされていたなんて。
私は彼の原稿をひったくるように受け取って、真っ向から言葉をぶつけた。
「ぜひ拝読し、じっくりと感想を述べさせていただきます。おそらく、聞くに堪えない酷評になるでしょうけどね!」
そしるような物言いに、彼は申し訳なさそうに私を見つめるだけだった。
そんな彼を見て私はさらにいらだった。
とにかくすぐにでもこの紙の束を読み終え、彼に電話で呼び出し、こき下ろしてやる。
そう決意した私は、原稿をしまい、その場をあとにした。
彼の発言がすべて真実であると分かったのは、それからすぐあとの事だった。
帰宅してまもなくカバンから原稿を取り出し、読み出した。
いつもなら読書はゆったりとコーヒーか紅茶を飲みながらと決めているのだが、それをしている時間さえも惜しかった。そうするほどの価値はこの作品にない。そう決めつけていた。
1枚目を見終えるときにはもう、手遅れだった。
私の浅はかな考えをあざ笑うように、彼の世界は私を引きずり込んだ。
人物の仕草や会話が、世界の情景が目前で展開され、世界は私を逃がすまいとどこまでも広がり続ける。
登場人物たちが泣けば自分も泣いていて、彼らが笑えば私も笑っていた。感情は脳で感じ取るのではなく、腹の底から湧き上がってくるものなんだと、初めて気づかされた。
作中に用いられている語彙に斬新さはない。
にもかかわらず、ここまで心に重くのしかかるのは、言葉の並びに技巧を凝らしているからだろう。
1つの文中のみならず、全ての文が作用し合うよう、完璧な順に並べられ、より強烈に読み手に印象づけていた。
言葉がコードとなって私の感情に刻み込まれる。
あるべき物があるはずの場所にきちんと存在している。あるいは方程式のように、そのコードが唯一の正解だと無意識に認識する。
変な例えだが、それだけ違和感もなく流れるように頭に情景が浮かんできた。
ページをめくる手は止まらず、それでいて彼の描き出した世界から離れることはなかった。
最後のページをめくり次がないことを知ったとき、ようやくそれが作り物の世界だったことを思い出した。
ふと窓を見ると、外は夜の帳が天蓋のように下りていた。帰宅してからどれだけの時間が経ったのか、まったく気がつかなかった。
テーブルの傍らにあったのは今朝の新聞だ。当然のように私の小説について書かれていた。「神さまの文学」という見出しだった。
私は思わず苦笑し、それをゴミ箱に捨てると、すぐに連絡先にかかれた電話番号にかけたのだった。
「おもしろい話だね」
ぼくがそう言うと、彼女は微笑んだ。
「それはよかったわ」
さっきまで飲んでいた客がみんな帰ったあと、ぼくがグラスを下げてテーブルを拭いていたときに、常連客である彼女は1人でやって来た。
彼女はいつも通りカウンターに座り、ウィスキーの水割りを注文したのだった。
正直な話、ぼくは彼女の話を信じてはいなかった。
それは彼女が作家だからという理由もあるが、それ以上に「神さまの文学」というものがいったいどういうものなのか、まるで想像がつかなかったから。
「ところで、ひとつ訊きたいんだけど」
「なに?」
ぼくは彼女に水割りのグラスを差し出して質問した。
「話を聞く限り、彼は自分でその作品を書いた。つまり自力で神さまの文学ってやつを生み出したってことかい」
「そう。私も最初は信じられなかった。けど次の作品も、その次も、おんなじように彼の世界に魅了された。信じざるを得なかったのよ」
彼女はそう言ってグラスに口をつけた。
「どうして彼は、そんな素晴らしい作品を公表しなかったんだろう? そうすれば、多くの人が本物の、と言っていいのか分からないけど、神さまの文学ってやつに触れる事ができたのに」
彼女はウィスキーのグラスを揺らす。大きな氷の山がカチンと耳障りのいい音を立てた。
「そんなことしたら、全ての作家がそれを明確な答えだと錯覚してしまう。たしかに彼の書く作品は紛れもなく本物だった。でも、文学に正解不正解なんてあるべきじゃないのよ。みんな自分の好きな作品を書いて、基準がないから人それぞれの世界が生まれる。数え切れないほどの作家がいるのに、みんながみんな同じ作品を書いたら、おもしろくもなんともないでしょ?」
「なるほどね」
ぼくはうなずく。
彼女の話が本当かどうか、それはぼくには確かめようがない。
それにしても、彼女の話に出てくる青年。
彼の話を聞いていると、昔いた若き天才作家の話を思い出す。
表舞台には立たず、男性ということ以外素性も一切明かされずに、ある時を境に忽然と姿を消した。
そんな経緯もファンの間で繰り広げられる彼の正体についての議論を白熱させる要因だった。
そういえば、彼女は物書きが趣味の歳の近い旦那と結婚していて、2人が相思相愛だと、以前酔った拍子にめずらしく彼女本人が口にしたことがあった。
彼女の夫も、まるであの天才作家のように素性はまったく明かされていない。
彼女の夫こそが天才作家その人ではないかと、まことしやかに噂をするファンもいた。
まさかね。
彼女のグラスでぷかぷか浮いている氷山が小さな雪崩を起こした。
<おめでとう! 君が次の文学界を引っ張っていくにふさわしい……>
ふと今朝テレビで見た文学賞の授賞式の光景がよみがえった。
手を叩いて賞賛する審査員も、誇らしげにトロフィーを抱える受賞者も、しかしぼくには、空虚な世界にしか思えなかった。