一話 (本来なら)黒幕、散る
それはさながら、純白の輝きを放つ洗濯物のようであった。
染み一つなく、真っさら。新品のようでいて、神秘的。
まるで、見ているだけのこちらも、身体が、心が洗われるような。
決して特別ではない、その単語自体はありふれたものであるというのに、ある種の神聖さを抱せられるような錯覚。
嗚呼、その香しさたるや。得も言われぬなにがしか――本能的に惹きつけられる何かがある。
都会における、決して綺麗とは言えない空気の中では滅多にお目にかかれない。
そう、まるで空気の澄んだ大自然の中に干され、悠々と風に靡く――。
「……もう、いいや」
一先ず、あらん限りの世辞を言葉として出し尽くした坂咲直行は、脱力気味に呟いた。
我ながら、何をやっているのだろうか。そう思いつつ、直行はうってかわって無言となる。
彼の視界に広がっているのは、純白の洗濯物たち――では断じてない。
あるのは、ただひたすらに真っ白な空間。余計なものはなく、またそれ以外の色もない。
つい数瞬前に、直行が現実逃避として少々ずれた例えを引き合いにして無駄に褒め称えた空間である。
現実逃避をしたのは、この不可解な空間が彼の望んだことではないからだ。
何の脈絡もなく、また予兆もなく――気付けば、ここに立っていた。
そこで何故心にも無い美辞麗句を並べ立てたのかは、直行自身も分からない。現実逃避を除けば、なんとなくか。取り敢えずなにがしか褒めておけば、マイナスにはならないだろう、という打算が働いたのかもしれない。
咄嗟に現実逃避に走ったのは仕方のないことなのだ。そんな状況にあったのだから。
また、逃避した結果が、心に浮かんだ、しかして心にも無い世辞であったというのも。
……などというのは、直行が自身に向けてした言い訳である――のだが。
「――それは、嬉しいことを言ってくれますね」
果たして、そんな一欠片の心も篭っていない直行の言葉に食いつくものがあった。
心地よく、美しい響きを伴った、柔らかい女性の声。……ではあるのだが、直行からすれば少々――いや、大いに間抜け感が否めない。
さてここは一体、と胡乱且つ気怠げにこの無駄に白すぎる空間を見ていた直行は、声のした方へ振り向く。
背後。彼が手を伸ばせば届くか届かないか、というなんとも微妙な距離に、彼女はいた。
周囲の空間に負けず劣らずといった純白一色の衣を纏い。
くるくる金髪の巻き髪。翡翠色の両眼。顔の造形の整った、美しい女性だった。
微かに笑みを浮かべて直行を見ており、皮肉ではなく、先の直行の発言を喜んでいるように見える。
「はぁ……」
ただのお世辞なんだがな、と本音は心の中で呟きつつ、直行は曖昧に返事をした。
私は神だ、とかなんとか言いだし、心の中を読まれでもしたら確実にアウトであったが、どうやら目の前の存在はそういった類ではないらしい。
――しかし、しかしだ。
純白の洗濯物と例えられて喜ぶものだろうか。それも一個人ではなく、ましてや彼女の纏う衣服に向けてでもなく、空間に向けての言葉だというのに。
「じゃ、俺はこれで……」
関わってはいけない。即、眼前のそれをおかしい人認定した直行は、躊躇なく背を向けて歩き去ろうとするが。
「え……ま、待ってください! 貴方は、今の状況を分かっているのですか!?」
そんな、スタスタと遠ざかっていく直行に、虚を突かれたのか。
一瞬呆然とした表情になったものの、すぐさま女性は慌てて声を張り上げ、直行を呼び止める。
「さあ?」
――少なくとも、アナタと関わってはいけない、ということ以外は。
これもやはり、心にだけ留めておくびにも出さない。
「でしたら、私の話を聞いてください!」
足を止め、振り返った直行に、すすーっと女性が近づいてきた。しかも、音もなく、すーっと滑るようにだ。
断じて、直行が近づいたのではない。
「話……」
眉を顰め、聞きたくない、というオーラを全開に。
しかし、それを女性は気付いているのか、いないのか。その美しき顔ばせ、翡翠の瞳が、直行の顔を覗き込むように近づけられる。
「はい。その前にまず、確認です。貴方は、この空間に来る前までのことを覚えていますか?」
「ここに来る前、ねえ……」
――いたしかたない。
渋々ながら女性に応じ、直行は思考する。確かに、それは考える必要があるものだったからだ。
つまり、直前まで何をしていたか。
最後の記憶は――そう、確か学校だ。
校舎の屋上。昼休みに、そこにいた。
目的はというと、昼食である。誰かと、などということはない。
一人で弁当を使うのは、もはや直行にとって日課のようなものと化していたのだ。
その後の記憶はないが――まあ、思い出せたので上出来である。
そう、簡潔に思い出した直行が頷けば。
「どうやら頭に問題はないようですね。よかったです」
女性は、あっけらかんとそんなことをほざいた。
何という言い種か。もっとも、問題があると言われたわけではないのでまだマシだが。
「……んで、それが何か?」
「お願いです、この世界を救ってください」
「…………」
――頭に問題があるとしたらそっちではないのか。
冗談でもなんでもなく、本気で直行は思った。そうでなければ、新手の宗教か何かか、と。
どちらにせよ、この女性と関わるのはやはりマズかった。己が危惧した通りだ、と直行は後悔する。
どちらかといえば、この不思議空間に、更に白すぎることも相まって、後者の可能性が高い。実はこの空間は巨大な部屋で、白一色なのは……きっと趣味なのだろう。気づかぬ内に、そこに連れ込まれたのかもしれない。
この類の手合いは、あちらのペースに乗せられた時点で、こちらの劣勢。で、あれば。
真剣に耳を傾ける必要はなく、適当に生返事でも返していればいい。
「この世界は今、危機に晒されています」
「はぁ」
……確かに白一色という点では、ある意味危機に晒された部屋ではある。
「そのために、貴方をこちらへ呼ばせていただきました」
「はぁ」
……俺はリフォーム業者じゃないんだがなあ。
決めたとあらば、即、実行。
相槌のみを返し、これっぽっちも興味を抱いていませんよ、のアピール。
この決意は、岩盤の如き鋼の決意。
「ですので、貴方に力を授けましょう」
「はぁ……はぁっ!? ……はっ!」
――ぐにゃぐにゃの粘土以下の、決意であった。
なんと恐ろしい勧誘か。思わず反応してしまった。
今までに何人もの人物がこの毒牙にかかったに違いない、と直行は身震いと共に戦慄する。
曖昧な返事。からの、言葉の内容に対する驚き。からの、思わず反応してしまった自分に気付き、という三連コンボ。
普通こういうのは、教祖が素晴らしい力を持っているから、貴方も信じなさい、という話ではないのか。
げに恐ろしきは、くるくる金髪。見事にしてやられた、と直行はぐぬぬと歯噛みする。
そんな直行を前に、くるくる金髪――もとい女性は、翡翠の両眼を閉じると。
ひそひそと意味ありげに、呪文のようなものを唱えはじめた。小声であるため、何を言っているか直行にはさっぱりだ。
だが、所詮はみせかけ。大仰に適当にそれっぽくして、目をカッと見開くなり、ハァッと声を出すなりして終わるのだろう。
どうせ、言葉で釣っているだけなのだ。反応してしまっておいてなんだが、付き合うだけアホらしい。
斜に構え、半眼で女性を見やる直行であったが――。
……なにか、本当に出てきた。
色は、黒。
この世界に変化を与えるそれが、女性と直行の間の宙に浮かび、ぼんやりと明滅しているではないか。
「……ハァッ!!」
目をカッと見開いた女性が、力を込めた声を上げる。
予想していた、ダブルコンボ。
これで何も変化がなければ直行は鼻で笑っただろうが、しかし現実として得体のしれない何かが眼前に存在している。
徐々に形が定まり、形成されていく、それは――。
一振りの剣であった。
「この剣を――力を、貴方に授けます」
黒い刀身がギラリと光ったかと思うと、まるで剣自身に意思があるかのように、直行の胸の前まで浮かび、やってくる。
だが、直行はそれに手を伸ばさない。……否、伸ばしたくなかった。
刀身もそうだが、柄、握りの部分と、細部に至るまで全てが漆黒。むしろそれ以外の色など、一片も無い。
それに加えて……なんというか、本能に訴えかけられるような、不気味な雰囲気を醸し出している。
……呪われてんじゃねーの、これ?
扱き下ろすつもりでもなしに、見ただけでそんな第一印象を抱かせられる代物だった。
故に、直行はただただ見るだけで手を伸ばさない。伸ばしたくない。
「どうぞ、遠慮なさらず、受け取ってください。さあ」
そんな直行の躊躇を、謙虚とでも思ったのか。ふんわりとした笑みを湛え、全く見当はずれなことを言ってくる、くるくる金髪。
だが、しかし。
手に取りたくないものは、取りたくないのだ。今度こそ、と岩盤の如き鋼の決意を以て、直行は微動だにしない。
固まった直行を、まるで不思議な物を見るかのように、女性が首をかしげる。
むしろ何故、こんな怪しさ満載のものを疑うことなくこちらが受け取ると思えるのか。
髪だけでなく、頭の中身もくるくるなのかっ……!
身体中を走る、電流。
それでも、動揺は外に出さず、内心のみに止められる。鋼の決意、面目躍如――名誉挽回の、大奮闘である。
「「「…………」」」
意地でも動かない直行、首を傾げる女性、宙に浮かぶ剣、というなんとも奇妙な三竦み。
しかし、その均衡はやがて終わりを迎えることとなる。
梃子でも動かない直行に、女性が――或いは、剣に宿るなにかがしびれを切らしたのか。
ふよふよと宙に浮かんでいただけの剣が、急激に直行の胸へと飛び込んできたのだ。
「……おおっ!?」
――鞘に収まっていない、抜き身の剣が、である。
だが、これが例え風に飛ばされた洗濯物であったとしても、ビックリさせられただろう。なにせ、急激な動きの変化である。
それが、剣――それも抜き身であるならば、尚更だ。
防衛本能でも働いたのか、反射的に受け止めようと伸ばされてしまう、手。
剣を相手に素手で受け止めようものなら、よくて手がズタズタ。最悪、手だけでなく胸まで切り裂かれるだろう。
どの道、常人であれば無事では済まない。
だが、それは刃が向かっていれば、の話である。
直行に向かってきたのは、握り。抜き身の刃は、しかし直行を少しも傷つけることなく。
反射的に伸ばした手へと、すっぽりと収まってしまったのだ。
本当は、それを喜ぶべきなのだろうが。
「…………」
安堵よりも、恐怖よりも。なにより先に、怒りがきた。
それはない、と直行は憤慨する。
いくらこちらが自制しようが、相手に動かれてはどうしようもないではないか。
鋼の決意、再びの敗北であった。
「その剣は、ある特別な力を秘めた剣。この先、必ずや貴方の助けとなるでしょう」
剣を受け取った直行に、柔らかく微笑みながら、女性は言う。
そんな、彼女を後目に。
手に取ってしまったものはしかたないとして、しかし受け取るとは言っていない。
嬉しげに目を細める女性のすぐ眼前で、躊躇いなく剣を手離そうとする直行。
――ぐぬぬっ。
だが、どうにか手を離してみようとするものの、しかしどういうわけか剣は己の手から離れることなく。
直行の指は、ピタリと剣に貼り付いてしまったかのように、動かない。
「……ありゃ?」
――それどころか、剣を持つ腕ごと、まるで何かに操られるかのように――。
「話を続けますが、この世界は危機に晒されています。貴方は、世界を救う勇者として、これよりその剣と共に――」
――ずぶり。
女性の声が、止まった。
その顔に先程までの微笑みはなく、目は大きく見開かれている。
動くものはなく、時さえも止まったかのような錯覚。だが、停滞は一瞬。
無言のまま、ゆっくりと降ろされる、彼女の目線。その視線は、彼女が自身の身体のある部分を捉えたところで、止まる。
直行も、それを見た。――いや、既に見ていた。
伸ばされた、己の腕。その手の中には、漆黒の剣。
その切っ先が、女性の腹を貫き――。
「――ぎぇああああアアアアアアァァァッ!!」
刹那、耳を塞ぎたくなるようなおぞましい悲鳴が、直行の耳朶を打った。
くるくるでありながらも金糸の如き輝きを放っていた髪は、みるみるとくすみ。
剣によって貫かれた腹からは鮮血の花が咲くことはなく、しかし純白一式であったはずの衣はどろどろとした土色に姿を変える。
「ア……ア……」
上げられた面は、罅割れ、深い皺の刻まれた老婆の如き顔。つい数瞬前までは確かに美しかったはずの造形は、見る影もない。
「アァ……」
見た目だけでなく、その声すらも一気に老け込んだ、その女は。
溢れんばかりの憎しみを滾らせた、その両の眼で直行をぎらりと睨みつけ、そして言ったのだ。
「お、のれ……。黒幕たる、この私がぁっ……!」