「上手くても受けない作品」の共通点
文章が読みにくく、設定もつまらない。そういう小説が受けないのは当たり前だから、話の対象からはずす。ここでは「文章は上手く、設定も面白い。なのに受けない」。そういう小説があるのはなぜか、ということに話を絞る。
この週末だけで50作品ほどをランダムに読んでみた。その中には「プロ並みに上手い」と感じる人がちらほらいる。しかし、そういう人たちのここでの人気は、総じて、あまり高くない。ブックマーク数も評価人数も、ゼロではないけれど、数件〜せいぜい数十件(その代わり、評価の平均点が高い)。
なぜそうなるのだろう?
まず大前提。
これは、出版界でかなり前から議論されていることなのだが、現在の読者は大きく二つのタイプに分けられる。「旧来の読者」と「新しい読者」だ。
「旧来の読者」というのは、小説を夏目漱石や江戸川乱歩、太宰治、三島由紀夫といった系譜の中に位置づけている。要するに、文学として捉えている。
これに対して「新しい読者」というのは、小説を文学としてより、ブログ、ゲーム、アニメ、漫画といったものの代替として捉えている傾向が強い。
「小説家になろう(小説を読もう)」にいる読者の大半は後者だろう。だから、基本的に「旧来の読者」に向けて書かれている作品は、あまり受けない。
プロの作家が名前を隠して書いたとしても、たぶん同じことになる(もちろん、そんなことは承知の上で、ここを訓練の場としているのだろうけれど)。
例えば、異世界に転生する場合。
「旧来の読者」に向けて書こうとすると、異世界に転生するまでのくだりが長くなる。少なくとも、一章は費やすことになるだろう。「旧来の読者」は、小説を知的なものとして捉えていて、そこに十分な納得感を求めるからだ。
ところが、「新しい読者」は、そこが長いとまどろっこしく感じる。「バナナの皮ですべって転んだら異世界で勇者になってた」の方が早くていい。
話のつなぎの部分にも同じことが言える。「新しい読者」は、ちょっとしたスキマの時間で楽しめるものを求めているので、最後まで読めば面白いものより「ちょっと面白い話の連続」になっていることが大事だ。ところが、「旧来の読者」に向けて書いている人は、面白い話と面白い話のつなぎの部分に納得感をつくり出そうとするので、そこがまた長い。これもまどろっこしい。
タイトルのつけ方についても、このサイトならではのポイントがある。