第6話 うわさの彼女
「お母さん、ちゃんと起こしてって言ったのにー!」
バタバタと慌てて階段を駆け下り、リビングに入る。壁掛け時計はすでに六時三十分を過ぎていた。
「何度も起こしたわよー、なのにもうちょっとって寝てたのは芽依でしょ?」
「うぅー、起きるまでちゃんと起こしてよぉ……」
「やーよ。もう高校生なんだから、自分で起きられるようになりなさい」
しょうがないじゃん、朝、弱いんだもん。これは恐ろしい血筋ですよ……
椅子に座りながらこっそりとため息をつく。ダイニングテーブルの向かい側に座って空いてるのかわからないくらい細い目で、ぼんやりと新聞を読みながらトーストを咥えてるお父さんに視線を向けると、目じりを下げて苦笑した。
「まあまあ、お母さん。芽依もそのうち起きられるようになるさ」
ほのぼのとした口調でお父さんが言うと、お母さんがこめかみを引きつらせる。
「もー、そもそもお父さんの寝起きが悪いから……!」
お母さんの怒りの矛先がお父さんに向く。
はぁー。毎朝、毎朝、お母さんも同じことお父さんに言って飽きないなぁ。お父さんは嫌になんないのかな、と思って盗み見ると、にこにことして頷いてる……あれは絶対、聞き流してるな……
そんなことを考えながら、トーストを半分飲み込むように口に入れて、席を立つ。
「もう行かないと。行ってきまーす」
「あっ、ちょっと、芽依っ!」
お母さんが叫んでる声を無視して玄関の扉を閉める。
左手にはめた腕時計を確認すると、六時四十七分。うー、走れば五分で駅まで着くよね……私は肩に鞄をかけ直し、駅に向かって全速力で走りだした。
はぁー、なんとか間に合った。
鞄の横にぶら下げたストラップになったパスケースを見せ改札をくぐり、ホームに駆けあがった時、ちょうど、電車が来るのが見えた。
なんでこんなに慌ててたかというと、この六時五十四分の電車に乗らないといけないからで――正確に言うと、この電車で小坂君と待ち合わせて一緒に登校してるからなんだ。
機械質な音を立てて開いた扉から電車に乗り込むと、向かい側の扉の前に立っていた小坂君と目が合う。ふんわりとした微笑みを浮かべて小坂君が言う。
「おはよ、芹沢さん」
「おはよー、小坂君」
その笑顔につられてにんまりと頬が緩んでしまう。だって、大好きな小坂君に朝から会えて、あんなに素敵な笑顔で「おはよ」って言ってもらえるなんて……なんて、幸せなんだろー。
「もう、クラスには慣れた?」
電車が動き出し、小坂君が話しかける。
「うーん、どうだろう。まだ顔と名前が一致しない人が多くて、えへへ」
笑って誤魔化せることじゃないけど。
「いっつも、こっそり夏凛に誰が誰か聞いてる」
「柴田さんも芹沢さんと同じ二組か」
「うん。小坂君のクラスは他に陸上部の人いる?」
「俺と同じ三組は福田だけ。小笠原さんは一組で、 田中は二組、越智と馬渡は四組だったかな」
「小坂君、みんなのクラスまで覚えてるなんてすごーい!」
もの覚えの悪い私は、ほんと、感心してしまう。福田君、小笠原さん、越智君、馬渡君、それに私、小坂君、夏凛、虎太郎ちゃんの全部で八人が同じ陸上部の二年生。っといっても、福田君は小坂君と仲良いから時々話すし、小笠原さんは女の子だからよく話すけど、越智君と馬渡君は、正直、顔が思いだせない……あー、なんてダメダメな私だろう。
「でも、やっぱり残念だな。今年こそ、小坂君と同じクラスになりたかったのに」
「そうだね、芹沢さんと同じクラスだったら楽しかっただろうな」
にこりと微笑む小坂君に、つい見とれてしまう。
「小坂君はどう? もうクラス全員の名前覚えた?」
「全員は、まだ……かな」
「そっか」
頭のいい小坂君ならもう完璧なのかと思ってたから、意外に思う。
「そーだよ、まだ二年になって二週間なんだから。覚えられなくて当たり前だよ」
「ありがと」
私が人の顔と名前覚えるの苦手って知ってるから、そんな風に言ってくれるんだよね。小坂君って優しいなぁー。
「ところで、昨日の部活はどうだった?」
「あっ、昨日は小坂君、美術部の日だもんね。って実は私も、昨日は部活出れなかったんだ」
「そーなの?」
「うっ……うん……」
いつも練習練習って言ってるから、部活出なかったことを不思議に思うのは普通の疑問なんだけど、口をつぐんでしまった。
昨日の出来事を小坂君にすべて説明することはできないから……できの悪い頭でどこまで話せるか考える。
「うーんっと、昨日は委員会の集まりでね」
「体育委員になったって言ってたね」
「うん、ジャンケンで負けて。それで委員会が長引いて……」
ほんとは委員会は結構早く終わったんだけど、それを言うと、虎太郎ちゃんのファンクラブの女子に呼び出されたとか、足ひねったとか――これは、心配させるから黙ってたいし――虎太郎ちゃんに送ってもらったとか、実は幼馴染だったとか――これは、虎太郎ちゃんに口止めされてるから、絶対に言えないし。定まらない視線でうーうー言いながら考え込んでると。
「そーなんだ」
いつもの笑顔で小坂君が頷いて。
「そーいえば体育委員って――」
そう言って何か聞こうとした時、電車が国府台駅について、私はぴょんっと扉を出てホームに降りた……おっとっと。
調子に乗ってジャンプなんかして、昨日捻った左足首に微かな痛みが走って、よろけそうになったとこを、小坂君が後ろから肩を支えてくれて、倒れずにすんだ。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
昨日家に帰ってから、氷水で冷やして湿布して寝たから朝にはだいぶ腫れは治まってて、いちお湿布は貼り替えてきたけど、駅まで走ったから、また少し痛み出してきた。
あー、ほんと私ってドジだ。せっかく、昨日大事を取って休んだのに、こんなんじゃ、今日も部活出れないかも……ううん、今日こそ部活出るんだから、この後は安静にしてればいいのよ。心の中で誓って、一人、拳を握って気合いを入れる。
「芹沢さん?」
立ち止まってた私の顔を不思議そうに覗きこんだ小坂君が言う。
「あっごめん。なんでもないよ、行こ」
※
二年の教室のある二階、三組の前で小坂君と別れて二組の教室に向かう途中、向かい側から虎太郎ちゃんが友達と歩いて来るのが見えた。
「おはよー、虎太郎ちゃん」
私の声に、一瞬、眉を曇らせた虎太郎ちゃん。
「芽依……おはよ」
そう言った虎太郎ちゃんは。
ほんとに、そう呼ぶんだな――とでも、言いたそうな視線で見つめてくる。
「好きに呼んでいいって言ったのは虎太郎ちゃんじゃない……」
頬を膨らませてふてくされて言うと、虎太郎ちゃんがいきなり私の腕を引っ張って歩きだした。
「いっ、痛い!」
あまりに強く腕を掴まれて、その痛みに顔を顰めたんだけど、虎太郎ちゃんにジロリと鋭い視線で睨まれ、萎縮する。横を見ると、虎太郎ちゃんと歩いていた男の子――たぶん虎太郎ちゃんの友達が、唖然とした顔で私達を見つめていた。
人気のない特別棟まで来ると、振り返りざま掴んでた腕を離した虎太郎ちゃんは、窓にもたれかかりながらため息をついた。
うっ……なんか、怒ってる?
「あのさぁ……、やっぱり、その呼び方やめてもらえる?」
「どうして?」
「どうしてって……どうしても」
「昨日はいいって言ったじゃない? なんで、急にダメなの?」
幼馴染なんて記憶も実感もないけど、“虎太郎ちゃん”って呼び名は舌に馴染んで、とっても呼びやすくて違和感ないのに……何がダメなんだろう?
わからなくて首を傾げてると、また、はぁーっと、さっきよりも大きなため息を虎太郎ちゃんがする。
うっ、呆れていらっしゃる……
「あのさ……」
虎太郎ちゃんが何か言いかけた時。
「あれ、田中君? こんなとこでなにしてるの?」
「あれ、芹沢さんと二人?」
渡り廊下を通りかかった女子生徒二人が、目ざとく虎太郎ちゃんを見つけて声をかけてきた。そして、一緒にいる私を、一人の女の子がすごい殺気にみちた瞳で睨んでる。
なっ、なに!?
その視線から私を隠すようにした虎太郎ちゃんは、そっけない声で言う。
「芹沢とは部活の話、してただけだから」
あれ……?
虎太郎ちゃんは言いながらため息をついて、私の腕を掴んで歩きだす。
「そっか、芹沢さんと田中君は同じ部活なんだね」
感じのいい女の子は納得したように言って、私を睨んでた子はまだ鋭い視線を向けていたけど、教室に向かってどんどん歩く虎太郎ちゃん――と引っ張られる私――の後をついてくる。どうやら二人は同じクラスだったみたい。
教室に入ると、さっき虎太郎ちゃんと廊下を歩いてた男子が入り口のすぐの席に座ってて振り向いた。
「おかえりー」
そう言って、にやにやと頬を緩ませこっちを見ている。
私は、その男子の名前が思い出せなくって、うーんと頑張って思い出そうとしてたんだけど、彼から発せられた次の言葉に、思考が止まってしまった――
「ふーん、田中って芹沢さんと付き合ってたんだね」
って。ええーっ、どうしてそうなるの!?
思いもよらない言葉に驚いておろおろとし、腕を掴まれたままだった虎太郎ちゃんの方を振り仰ぐと――
ほらね、って肩を落として、呆れ顔。
本日、何度目になるかわからないため息をついて、斜め横に視線をずらした。