第46話 ティアーズドロップ
渡り廊下から教室に無我夢中で走りながら、溢れてくる涙を手の甲で拭う。教室に駆けこむと、すでに登校している生徒でいっぱいで、卒業式という緊張感にざわざわとしている。教室に入った私に気が付いた夏凛に駆けより、その勢いのまま胸に抱きつく。
きっと目は真っ赤で、とんでもない顔をしているのを他の人に見られたくなくて。
「おはよう、芽依。――わっ、どうしたの!?」
突然抱きつかれて驚いた声を上げる夏凛にぎゅっと抱きついて、首を横に振る。喋ったら涙が溢れてきそうで、たださっきの出来事を話すほど頭の中も整理がついていなくて、心配させないように首を振った。
夏凛は私の様子がおかしい事に気づいて、ぽんぽんっと頭を撫でて、抱きついた私をそのまま教室の後ろ側のドアからベランダへと連れて行った。ベランダには何人かの生徒がいたけど、教室よりは静かだった。
腰を下ろした夏凛の横に座って、鞄からハンドタオルを取り出して目元にあてる。廊下を走ってる時、適当に制服の袖で目元をこすっていたからブレザーのそで部分が湿っている。
タオルを顔にあて涙が落ち着いて私から話しだすまで、夏凛は辛抱強く待っていてくれた。
私は掻い摘んで渡り廊下で聞いてしまったことを話した。夏凛に話したからって、一年以上前から胸の奥に刺さったまま抜けなくなってしまった小さな棘はどうしようもないことは分かっていた。夏凛でもなく、虎太郎ちゃんでもなく、小坂君と話さなければ胸のつかえが取れないことを、私はずっと気づいていたのに――
「どうしてもっと早くちゃんと話そうって思わなかったんだろう……」
引っこんだはずの涙が溢れ、震える小さな声で言った私に、夏凛は見守る様な温かな声で言った。
「何事にも、遅かった――って事はないと思う。今気づいたなら、今からでも話しあえばいいのよ。話してダメだったら、その時また考えればいいでしょ? 何もしないで後悔するよりも、何かした後で後悔する方が、ずっといいと思わない?」
そう言って笑った夏凛の顔は、ちょっと困ったような哀しいような複雑な表情だった。
ああ、きっと夏凛も、何も出来なかった自分を後悔したことがあるんだと思った。
何もしないで後悔するよりも、何かした後で後悔する方がずっといい――夏凛の言葉を心の中で繰り返して、きゅっと唇をかみしめる。
「そうだね……。私、ずっとみんなの優しさに甘えてきただけだった。小坂君は優しいからずっと私に不満があっても言えなかったんだと思う。それに気づいても、私は何が不満なのか分からないことを理由に逃げて、考えようとも思わなかった――小坂君と本気で向き合おうとしてなかった。虎太郎ちゃんとだって……“幼馴染”って関係を言い訳にずっと甘えてきた。傍にいると安心するから、ずっと傍にいたくて。虎太郎ちゃんのことは好きだし、どんなに大事にされているか分かる。お互いの事をなんでも理解し合って、居心地がいいの。同じ孤独と寂しさの中で慰め合うことは出来るけど――心の隙間を埋めることは出来なかった……」
夏凛が私の手を優しく握りしめて、私も握り返し夏凛を斜め視線で見つめる。
「虎太郎ちゃんは大事だよ、だけど幼馴染でしかなくて。私がずっと好きだったのは、いつも心を締めているのは――小坂君なの。分かり合えないなら、分かり合えるように努力したい。小坂君がどんな未来を見ているのか、側に立って見てみたい――小坂君が、好きだよ。いまでもずっと、好き……」
最後は嗚咽に紛れてほとんど言葉にならなかったけど、口に出して初めて、私の気持ちが真実となって大きく形作る。どうしたらいいのか、どうしたいのかがはっきりと見えてきて、ベランダの柵越しに、晴れ渡る青空をまっすぐに見据えた。
「それでこそ、芽依だよ――」
ぽつんと呟いた夏凛の言葉に振り返ると、夏凛がくすりとすっきりした顔で笑う。
「まっすぐ前を向いて、気持ちのまま風の様に走って行くのが芽依らしいよ」
褒め言葉として取っておこうと思って、私も夏凛に笑い返す。
いつもいつも相談に乗ってくれて、側で支えてくれる優しい親友に、心の中でありがとうと囁いた。
卒業式。体育館の中で粛々とした雰囲気の中、執り行われていく。全校集会でしか見かける事のない校長先生、卒業してもずっと忘れないだろう三年間歌い続けた校歌、ピアノの音は懐かしい思い出を走馬灯の様に思い出させ、入場のブラスバンドの演奏は胸に沁みわたる。新米の担任が嗚咽混じりに生徒の名前を一人一人読み上げていく。
永遠の別れでもないし、夏凛とも福田君とも大学は同じで、虎太郎ちゃんは別の大学に行くけど家が近所なことには変わりはなくて。それなのに、寂しいと心が叫んでる。スピーカー越しに嗚咽の混じる声で名前を呼ばれ、答える声が震えてしまう。ふいに視界が滲んで涙が押さえられなかった。
悲しい涙でも、寂しい涙でもなく、ただ温かな涙が頬を伝って、紺色の制服のスカートに落ちていく。この制服も今日で着るのが最後なんだと、今頃になって気づく。三年間で僅かに身長が伸びて、スカートの裾から覗く足の見え方も、入学式の日とは違った見え方だった。
高校一年の春、希望を胸に抱え、見上げた空がどこまでも澄んでいて、ブルーの天井に手が届きそうで伸ばした事を思い出す。高校で出会った友達、仲間、先輩後輩、先生――それから、憧れの人。
明日からは、みんな違う道を歩いていく。だけど、一人でじゃなくて、君の――小坂君の側がいいと心が切望している。
閉式の辞が述べられ、卒業生が体育館を――この学校から旅立っていく。神聖な空気の中、ブラスバンドの壮麗で華麗な音が響き渡る。ただ祝福するように、新しい一歩を踏み出す背中を優しく押すように――
だから私は、今日中に小坂君と向き合って話をしようと決意した。
HRで卒業証書を受け取り、担任が最後の挨拶をする。卒業生を何度も見送った先生の言葉は達観しているけれど、新任で初めて卒業生を見送るのに嗚咽交じりの拙い担任の言葉は胸に沁み入った。私達の卒業を祝って、旅立ちを惜しんでくれる担任の涙はとても温かかった。
うちの学校では卒業式後に、生徒会主催の謝恩会が行われる。企画運営から準備は一、二年生の生徒会と謝恩会実行委員が行う。場所は体育館、立食パーティー形式で、舞台では有志による出し物が行われる。
今頃体育館では、卒業式の片付けと謝恩会の準備が大急ぎで行われているだろう。
三年生は準備が整うまで教室で待機。制服からドレスアップする決まりになっている。これは卒業式を終えて、この熊猫高校を卒業――制服を脱いで旅立ちを祝うという意味がある。
そのため、一年生の教室が女子更衣室と男子更衣室として開放されている。
HRが終わると三年生はぞろぞろと着替えのために、一階の教室に向かうのだ。
私は小坂君が着替えに行く前に捕まえようと、HRが終わった瞬間席を立って小坂君のいる三組の教室に向かおうとしたんだけど――
扉にかけた右手、じゃなくて左手を後ろからすごい勢いで掴まれて、私は引っ張られるように後ろを振り返った。
「虎太郎ちゃん……?」
後ろに立っていたのは虎太郎ちゃんで、掴んだ手首にきゅっと力が込められて、私はまっすぐと虎太郎ちゃんに向き直る。
本当は今すぐにでも教室を出て小坂君の所に行きたかったけど、私の手を掴んだ虎太郎ちゃんの表情が泣きそうな切ない顔をしていて、手を振りほどいて行くことが出来なかった。
無言で歩き出した虎太郎ちゃんに手を引かれ、階段を降り、渡り廊下を通って中庭まで行く。
卒業式後、謝恩会の準備や有志で参加する下級生以外は速やかな下校が言い渡され、もちろん部活も休みで、部室棟のそばの中庭は静まり返っていた。
目の前で立ち止まった虎太郎ちゃんの背中を見上げる。纏う空気はぴりぴりと緊張感に包まれ、触れたらぷつっと糸が切れて風に溶けて消えてしまいそうな儚さだった。
ずっと黙っているけど、教室で見た虎太郎ちゃんの瞳が決意を固めた揺るぎない瞳だったのを見て、心のどこかで、私と同じだな――って感じていた。
虎太郎ちゃんが何のために私の手を掴んだのか伝わってきて、なおさら手を振り払うことは出来なかった。だから私は、虎太郎ちゃんが話すのをじっと辛抱強く待った。
背を向けてる虎太郎ちゃんは微動だにせず、時折優しく桜の枝を揺らす風が、虎太郎ちゃんのくるんと癖のついた襟足を揺らしている。
どのくらい経ったのだろうか。数十秒だったのか、十分くらい経ったのか、虎太郎ちゃんがゆっくりと振り向いて、いつか見た悲痛な瞳が私に向けられる。焦燥に眉根を寄せ、とても苦しそうな顔をしている。
「芽依……」
いつも呼ばれる名前なのに、とても切ない響きに胸が締め付けられる。
何かを始めようと思った時は、何かを捨てなければならない――
それが大事な物であればあるほど、大事な何かを置いて行かなければならない――
「……っ」
口を開いたけど、何を言っていいのか分からなくて、じりじりと胸が締め付けられる。
虎太郎ちゃんも、何かを言おうと何度も口を開きかけては、きゅっと唇をかみしめて躊躇っている。
「芽依、俺は――」
哀切に唇を震わせ、言葉に詰まる。瞳を見上げれば、夜空を映したような漆黒の瞳は大きく揺れている。
行かなきゃ――
なぜか強くそう思って一歩後ずさると、私の手首を掴んだままだった虎太郎ちゃんの手が弱々しく震える。
「行くな――……」
その声は儚く、風に紛れて消えそうなほど切ない声だった。
私は目をぎゅっと瞑る。胸が苦しくて、息をするのが切ない。
虎太郎ちゃんのその一言に込められた想いが胸に突き刺さり、微動だに出来ない。
ずっとずっと、側で支えてくれた虎太郎ちゃん。私が泣いた時、さりげなく胸を貸してくれて、優しく頭を撫でてくれた。
いつだって言葉にしないでも私の気持ちを汲んでくれて、私のことを一番に想って動いてくれた。
少し無愛想で、笑った顔は女性のように華やかで美しい。澄んだ瞳はいつだって信念を貫き、勝ち気に笑う声は人を惹きつける。それなのに――目の前にいる虎太郎ちゃんは、泣きそうなのを必死に堪えてるような顔で、一人にしたら壊れてしまいそうな不安定で脆い人間に見える。
行けない。こんな虎太郎ちゃんを振り払ってなんて行けない――そう思った。
切なく顔を歪めた虎太郎ちゃんに、一歩近づく。
言葉では言い表せない感謝を、形にして返したかった。だけど。心が痛くて叫んでいる。
辛い時に支えてくれた虎太郎ちゃんを、今度は私が支えてあげたい――
だけど。私の本当の気持ちを無視したくはなかった。
虎太郎ちゃんの側にいてあげたい。でも私が本当に側にいたいのは虎太郎ちゃんじゃない。
やっと見つけた本当の気持ち。一筋の希望。
今を見逃したら、もう一生届く事のない気持ち。伝えなければいけない想い――
大切な幼馴染を一人には出来ない――けれど、虎太郎ちゃんの心の隙間を埋めてあげる事が出来るのは、私じゃないから。
また一歩近づくと、私と虎太郎ちゃんとの距離は半歩もない。
いつもこの距離を保ってきた。これからも、これ以上の距離を埋めることは出来ないから。
握られていた手をゆっくりと上げると、虎太郎ちゃんの手がぽろっとこぼれ落ちる。何かと一緒に。
持ち上げた両手で虎太郎ちゃんの頬を挟み、優しくさすって精一杯の笑顔を浮かべる。
ぴくっと虎太郎ちゃんの肩が揺れて、泣きそうに崩れていた眉がぎゅっと眉間に集まる。瞳は大きく見開かれ、驚いたように揺れている。すぐ側で覗きこむ虎太郎ちゃんの瞳に映った私は、涙を流していた――
「虎太郎ちゃん、ありがと――」
そう言って、私は虎太郎ちゃんに背を向けて走り出す。
ざぁーっと強い風が吹き荒れて、五分咲きの桜の枝を大きく揺らしている。校庭の砂が舞う。中庭の向こう、白い壁の部室棟が視界の端に消え、えんじ色のレンガ造りの校舎が静謐に構えている。
今までずっとありがとう――
弱虫な私をそのまま受け入れてくれた優しい幼馴染。さようなら――




