第43話 揺るぎない想い <虎太郎side-9>
小坂と別れてから、芽依は目に見えてやつれていった。
夜はほとんど眠れていないようで、食事もあまり食べていないようだった。芽依を迎えに行った時、おばさんが困ったように教えてくれた。
休養と食事を取らないのに、部活には必ず参加して、くたくたになるまで練習している。
小坂とのことを気にしないように、無理して明るく振る舞っているのが分かるから、痛々しくて、見ていられなかった。
それでも、俺がしてやれることは、芽依の側で見守ることくらいで。
時々悲痛に顔を歪めて俺にすがりついてくる芽依を、ただ優しく抱きしめてやることしかできなかった。
部活中は小坂とはほとんど話さず、柴田も福田も、小坂と芽依に何かあったんだと薄々気づいているようだったが、あまりに異様な空気にあえて聞いてくることはなかった。
小坂と仲直りしたいと思っている芽依が、そうできないのは――俺のせいかもしれない。
感情に流されて、幼馴染の一線を越えてしまったから、芽依は小坂に対して罪悪感を感じているのかもしれない。
それならば、あれはキスなんかじゃないから気にするなって言えば、芽依の心は晴れるだろうか。それだけでは不十分な気がして――いや、それはいい訳だな。
あれはキスだった。俺は芽依のことを好きだから、なかったことにはしたくなくて――
結局、俺も自分が一番大事なんだ。
芽依のことを守ると言いながら、俺を頼りにしてくれる芽依を離したくなくて、芽依の幸せを邪魔している。
でも、このままではダメだと思ったから――
八月四日、小坂が試合の遠征でいない今日、芽依と一度じっくり話し合おうと思っていた。芽依が小坂と復縁したいと願っているならば、今度こそ全力で協力するつもりで。だけど。
※
「芽依――っ!?」
部活中、二百Mインターバルを走り終えた芽依が、ゴールを少し過ぎたところでぐらりと体を傾いで倒れる――
俺は慌てて駆けつけ、頭を地面にぶつける寸前で受け止めることが出来た。
「芽依、大丈夫!?」
柴田が悲鳴を上げて駆けつける。
芽依の頬は上気し、額はものすごく熱い。
そろそろ倒れてもおかしくはないと思っていた。疲労か、熱射病か――
「とにかく病院へ連れて行こう」
芽依を抱き上げた俺を、真っ青な顔をして柴田が眉根を寄せる。
「田中君も怪我してる……」
「えっ?」
言われて、肘に鈍い痛みを感じて腕を上げて見てみると、腕を大きく擦り剥いて血と砂でべとべとになっていた。
ああ、芽依を抱き止めた時に地面で擦り剥いたのか――
「俺は大丈夫だから。相川部長に伝えておいて」
言って歩き出した俺は、校庭の横の通路に小坂が立っているのが見えた。
「小坂……」
確か、今日まで遠征だったはず……
「芹沢さん……」
小坂が肩で息をしながら掠れた声で尋ねる。
「倒れたんだ、ここ最近まともに寝ても食べてもいなかったから――これから病院に連れていくけど、一緒に行くか?」
なぜかそう聞いていた。
小坂の表情が、試合に行く前と違ってなにかふっきれた様な顔をしている事に気づいたから。
タクシーを呼び、近くの総合病院に連れていく。
先生からは疲労と栄養失調と言われ、点滴を打ってしばらく入院するように言われる。俺は家に連絡して、母さんから芽依のおばさんに連絡してもらう。芽依ん家は二人とも共働きだから、家に電話しても繋がらないことを知っていたから。
しばらくして、芽依のおばさんが駆けつける。
「虎太郎君、迷惑かけたわね。ありがとう」
「いえ、たまたま部活中で側にいたので……」
おばさんは俺から横にいる小坂に視線を向ける。小坂は頭を下げる。初対面か……
「彼は陸上部の仲間の小坂です。ここまで付き添ってくれたんです」
「あら、あなたが小坂君? 芽依からよくあなたの話を聞いていたわ」
おばさんが目元を和らげて笑う。
芽依はまだ目を覚まさないし、今日はもう遅いから先に帰るようにと言われて病院を出た。小坂とは途中まで一緒に電車に乗って帰る。
病院を出てからずっと無言だった小坂に、俺は思い切って尋ねる。本当は今日、芽依と話そうと思っていたことを……
「小坂……本気で芽依と別れるのか?」
そう言った俺に、小坂は酷く複雑そうな顔をする。
「後悔してんじゃないのか?」
小坂は口ごもって、俺の質問には答えない。
「俺はずっと見てきたよ、お前に別れを告げられて寂しそうに泣いている芽依を。部活では平気そうにしてるけど、夜はあまり眠れていないし、ご飯もほとんど食べてないらしい。だから、今日倒れたのも当然なんだ。ずっとずっと芽依は無理をしてきて――」
「俺は――っ」
小坂が悲痛な叫び声を上げるから、俺は口を止める。
「田中みたいにはなれない……芹沢さんのすべてを分かってあげられないし、独占欲丸出しで田中に嫉妬してる。田中が羨ましくて、仕方がないんだ――っ」
「それが別れた理由? 小坂は小坂だろ、どうあがいたって俺にはなれないだろ。芽依が俺みたいになれって言ったのか?」
俺は眉根を寄せて、小坂を睨みつける。
「芽依に、本当は俺を好きだって言ったらしいな? 芽依の側にいるのが辛いから別れる?」
「俺は芹沢さんのことを想って――」
「それって芽依の気持ち無視してないか?」
「――――っ」
俺の言葉に息をのみ、小坂は唇をかみしめて俯く。
「芽依は小坂のことが好きだよ、そんなの見ていれば明白だろう? あんなにまっすぐなのに、信じられないって言うのか!?」
俯いたまま、小坂は答えない。俺は小坂の態度がじれったくて苛立つ。
「それなら――俺が芽依と付き合っても、いいんだな?」
「なっ……」
「それが小坂の望みなんだろ?」
そこまで言えば反論して来ると思ったのに、小坂はなにも言い返してこなかった。
なんなんだ――俺は苛立ちながら、挨拶もせずに電車を降りて家に向かった。
俺と芽依が付き合う? 芽依は今でも小坂が好きなんだ、そんなことありえないだろ? たきつけるために言ったのに、なんで何も言い返してこないんだ?
どうして素直になれないんだ――
あんなに瞳は芽依を好きだと言っているのに。試合で三日間顔を合わせない間に、だいぶ顔つきが変わっていい顔になったと思ったのに、小坂はここに来てまだいじいじと踏みとどまっている。小坂さえ芽依の元に帰って来ればすべてが丸く収まるのに。
いや、素直じゃないのは俺も同じか……
好きな気持ちを自覚してて、その気持ちを伝えないでいるなんて。だけど、気持ちを伝えたところで、芽依を困らせるだけだと知っているから――俺は見守るだけでいいんだ。
好きだと言うだけが愛じゃない――
伝えない――そんな愛し方もあるんだと、俺は知っているから。
必死になって気持ちを殺して、芽依の幸せのためにしてやれることを探すだけなんだ。
※
翌日、部活帰りに芽依の病院へ寄る。芽依が入院することになったのは四人部屋だけど、芽依の他には人がいない。
「芽依、具合はどうだ?」
病室に入ると、右奥窓側のベッドに芽依は少し高くしたリクライニングベッドの背に寄りかかって座って、窓の外を眺めていた。
「虎太郎ちゃん、来てくれたの?」
「ああ、急に倒れるから心配したんだぞ。これ、芽依の好きな淡路島プリン。食欲がなくても、少しだけでいいから食べろよ」
「ありがとう……いま、食べようかな」
芽依が背もたれから体を起こして、足元のテーブルを近くに移動させる。
俺はベッドの横の丸椅子に腰かけ、テーブルの上にプリンを一つ置き、残りの二つをベッド脇にある備え付けの小さな冷蔵庫にしまう。
「虎太郎ちゃんは食べないの?」
「俺はいい、芽依が三つとも食べろよ」
「うん」
蓋をあけて付属のプラスチックのスプーンですくう。プリンは弾力で揺れ、芽依は美味しそうに頬を綻ばせる。
「おいしい……淡路島プリン食べるの久しぶり。これ、美味しいのに時々しか売ってないよね」
「ああ、また売ってるの見つけたら買ってきてやるよ」
そう言った時、病室の扉が開いて小坂が入ってきた。
「こ、さか、くん――」
芽依が呆然と扉の方を見つめ、小さな声で名前を呼ぶ。
俺は昨日の今日で、小坂と微妙な雰囲気だったから、眉根を寄せて小坂を見た。
「芹沢さん、体調はどう?」
「えっと……」
ベッドの側、足元に来た小坂が芽依を見てふわりと笑う。その笑顔が自然すぎて俺は苛立ちに唇をきゅっとかみしめる。昨日の帰りの電車の中ではあんなに余裕がなさそうにしていたのに、今日はやけに精彩を放っている。
芽依は突然現れた小坂に動転して、助けを求めるように俺の方に視線を向けるから、きっぱりとした口調で小坂に言う。
「芽依はしばらく安静って言われてるから、せっかく見舞いに来てもらって悪いけど、今日は帰ってもらえるか?」
そう言った俺を、小坂が無言で威圧してくる。
小坂がどういうつもりで芽依に会いに来たのか知らないが、芽依が嫌がっているのなら俺は迷うことなく、小坂を追い出すさ。
余裕たっぷりにふっと笑って小坂を見つめる。
「俺は芽依のおばさんが来るまで側にいるように頼まれているんだ」
俺がいる意味はあるが、小坂はいる意味がない――と明確に境界線を引く。芽依にとって必要とされているか、されていないか。
小坂は俺の当てつけた言い方に顔を顰め、ゆっくりと息を吐く。
「分かった――今日は帰るよ。これ、お見舞いの花。芹沢さん、早く良くなるといいね」
そう言って小さなフラワーアレンジメントの花かごをテーブルに置き、病室を出ていった。