第41話 絆のとりこ
虎太郎ちゃんの部屋――
小坂君に別れを告げられたことを話して泣いた私は、虎太郎ちゃんとキスをした。そして今、私は虎太郎ちゃんに押し倒されて床に仰向けに寝転がっている。
顔のすぐ横に手をついて、私に覆いかぶさるように見下ろしてくる虎太郎ちゃんの瞳が切なく甘く揺れる。艶めかしい手つきで頬を撫でられて、ドキドキと胸が高鳴ってくる。
この時になって、虎太郎ちゃんとキスしちゃったことに焦りと罪悪感が押し寄せてくる。
私、虎太郎ちゃんと――!?
妖艶な光を宿した虎太郎ちゃんの瞳がふっと細められて、どんどん顔が近づいてくるから、またキスされるんだと思って気が動転してパニックになる。
「こっ、こたろーちゃん……!?」
素っ頓狂な声を出してぎゅっと目を瞑ると、顔に虎太郎ちゃんのふわふわの髪の毛がかかってくすぐったい。恐る恐る目を開けると、虎太郎ちゃんは私の顔のすぐ横に顔をうずめてて、肩が小刻みに震えている。
えっ――泣いているのかと思って、動揺しておろおろしていると。
「ぷっ――!」
って噴き出した声が聞こえて、何がなんだか分からなくてキョトンと目を瞬く。
顔を上げて至近距離で私を見つめる虎太郎ちゃんは、口元に手を当てて涙ぐんで笑いを必死にこらえていた。
なっ、なんで笑ってるの――!?
信じられなくて、あんぐりと口を開けて、眉根を寄せて虎太郎ちゃんを睨みつける。さっきまでの甘ったるい雰囲気はどこにもなくて、くすくすとおかしそうにお腹を抱えて笑っている。キスされると思って慌てた私はなんだか恥ずかしくて。
「虎太郎ちゃんっ!」
大きな声で叫ぶ。
「あははっ……」
虎太郎ちゃんは瞳に浮かんだ涙を手の甲で拭って、片方の瞳で私を見据えると、くすっと意地悪な笑みを浮かべる。
わぁー、ヤな感じ!
「悪い、悪い……」
全然悪いと思ってる雰囲気じゃなくて、いまだに笑っている虎太郎ちゃんをさっきよりも鋭く睨みつける。
「冗談だよ、芽依を本気で襲うわけないだろ? 芽依が小坂一筋なことは俺が一番よく知ってるんだから」
そう言って、起き上がった私の頭を撫でながら笑った虎太郎ちゃんの顔は切なくて。私まで切なくなってしまう。
「芽依があんまりわんわん泣くから、どうやって泣きやませようかと思ったんだ」
「かっ、からかったのね!?」
ぷーっと頬を膨らませた私に、虎太郎ちゃんがそっと手を近づけて、目元を優しくなでる。
「涙、止まっただろ――?」
その声があまりに優しくて、胸に沁み入る。
そういえば、あんなに悲しくて涙が止まらなかったのに、いつの間にか止まってる――
虎太郎ちゃんのおかげ――?
「小坂はきっと、少し誤解してるだけなんだ。すぐに仲直り出来るさ」
虎太郎ちゃんは目元をふっと細め、優しく頭を何度も撫でてくれる。そうされると、自然と安心するし、虎太郎ちゃんの言葉は飾り気がない分、ストレートに心に響く。
「うん……」
「だから今だけ、考えるのをやめろ……いいな?」
「うん……」
「少し距離を置けば、お互いがどんなに想い合っているかに気づくだろ?」
「うん」
気が付いたら、虎太郎ちゃんの胸にしがみついて泣いていた。
この涙は悲しいからじゃない――虎太郎ちゃんの優しさが温かくて嬉しいからだよ。
私の涙が引っこむまで、虎太郎ちゃんは文句一つ言わずに黙って、ずっと頭をなで続けてくれた。
やっぱり虎太郎ちゃんの側は安心する。
子供の時の記憶は思い出すことが出来ないけれど、これが幼馴染の絆なんだろうか。
これは幼馴染だから? それとも――
※
終業式の日と土日の三日間、私は虎太郎ちゃんの側にずっといた。
虎太郎ちゃんの側は居心地がよくて、傷ついた心には癒される時間が必要だったから。
部屋にいる時は三歩くらいの距離を置いて座って、虎太郎ちゃんがトイレやお風呂に行く時は廊下で待っていた。後で考えたらストーカーみたいだけど、一人でいるとぐるぐると余計な事を考えてしまって、側に誰かがいないと不安で落ち着かなくて、ちっぽけな自分の存在を忘れ去られてしまいそうで落ち着かなかった。
夜はあまり眠れなくて、虎太郎ちゃんが心配してバイト先まで送り迎えしてくれた。
バイトの休憩中、一人になると考えることはやっぱり小坂君のことで。だけど涙はもう乾いて出てこなかった。
『別れよう――』
そう言われたことを思い出すだけで胸がジクジクと痛む。小坂君のことが好きなのに、何でこんなことになってしまったのか、考えても分からなかった。だけど、分からないままではいけないと思った。小坂君が何に対して怒ったのか、なんで私の側が辛いと言ったのか。何か一つでも理解し合えなければ、話しかけることも出来ない……
それに、以前の私には戻れない気がしていた――
小坂君といる時は楽しい。でもいつも緊張して、どこか遠慮して距離を置いていた。
だけど虎太郎ちゃんは違う。なにも遠慮することはないし、話さなくてもお互いのことを理解し合っている。側にいるだけで安心する存在で――
小坂君が言ったように、私が虎太郎ちゃんにも惹かれているかって言われたら、それは違う――と思う。小坂君に対する気持ちは恋で、虎太郎ちゃんに対する気持ちは……そんな簡単な言葉じゃ言い表せない、もっと奥の深い物なんだ。見えない絆で結ばれている。
悲しくて寂しくて、魔がさした訳じゃない。あの時、確かに私と虎太郎ちゃんの気持ちは一つだったから、後悔はしていない。虎太郎ちゃんとキスした――その事実は消えないから。
ただ、小坂君に対する罪悪感が胸に渦巻いて、今まで通り、小坂君を純粋に好きだった頃には戻れない。普段通りになんて振る舞えない。週明けの部活で顔を合わせるのが憂鬱だった。
部活に行きたくない。休んじゃおうかな……そんな事を考えるくらい気分が浮上しきれていない。
ははっ――おかしいの。いつもだったら小坂君に会えるだけで幸せだったのに、今は会いたくないって思うなんて。私はもう小坂君のこと好きじゃないのかな――
そう考えて、そんなことないって否定する。だってこんなに胸が痛いんだもの。だけど……
そっと唇に手を触れる。温もりはもうないのに、その時の感触を鮮明に思い出して顔が真っ赤になってしまった。
あの時は、ただ虎太郎ちゃんの瞳が辛そうで、私と同じなんだって思ったらキスをしていた。虎太郎ちゃんは私をからかっただけみたいに言っていたけど、虎太郎ちゃんの目が、言葉が、優しく私を包み込んで、私を必要としていることが伝わってきた。私も――今は虎太郎ちゃんが必要だ。
それがただお互いに同情しているだけだったとしても、いつも通り笑顔になれるまでは、虎太郎ちゃんの側にいたかった。
※
月曜日、夏休み最初の部活の日。
小坂君に会うのが憂鬱で、だけど練習を休むのはやっぱり嫌で、重い足取りのまま準備して玄関に向かう。外に出ると、家の塀の前に寄りかかっている誰かの頭が見える。
アプローチの階段を降りて行くと、振り返った虎太郎ちゃんと視線があう。
「はよ。行こうぜ」
ジャージ姿で肩かけのスポーツバックを背負った虎太郎ちゃんは、素っ気なく言って歩き出す。そんな冷たい態度を取っても、私が部活に来ないかもって心配して迎えに来てくれたことに嬉しくなる。
大丈夫――まだ、小坂君と顔を合わせるのは辛いけど、小坂君の前で笑える自信はないけど、虎太郎ちゃんがいてくれたら笑える気がするんだ。
どんなに苦しくて辛くても、虎太郎ちゃんの側にいれば普段の自分を保てる。
小坂君と向き合えなくても、こういう別れもあるんだって、納得できるその日まで――