第34話 砕けたハート
月曜日の放課後、部活中。夏に向けて個人メニューが増えて、私は一人でロードワークに学校の近くのじゅん菜池で走り込む。私の種目は短距離なんだけど、体力作りのために長距離を走り込む。
腕時計で十七時半を過ぎてるのを確認して、学校へと戻る。校庭で練習していた人達はすでに道具を片し始め、ダウンを始めている。私はそのままダウンに加わる。
帰り道、小笠原さん、越智君、馬渡君は松戸方面だから学校前のバス停で別れて、私と夏凛と虎太郎ちゃんと福田君と小坂君の五人で国府台駅に歩き出す。男子が前を、私と夏凛が少し距離を空けて後ろを歩いて行く。
「芽依、土曜日はどうだった?」
「またその話……?」
私はうんざりして眉根を寄せる。毎回毎回、月曜日になるとバイトの事を聞かれて困ってしまう。
「そんなに気になるなら、夏凛もバイトすればいいのに……」
ふぅーっと大きなため息とともに言った言葉を、福田君が聞き咎める。
「なに? 柴田さん、バイトするの?」
「えっと私じゃなくて……」
夏凛が困った顔をして私に視線を向ける。私は首を動かして、「夏凛が誤魔化してよ」って合図したんだけど。
「あー、柴田じゃなくて芽依だよ、バイトしてんの」
「こっ、虎太郎ちゃんっ」
「へぇーそうなんだ、芹沢さんバイト始めたんだ」
「えっと……そうなんだ」
苦労して今まで隠していたことがすべてぱぁになって、歯切れ悪く頷く。でも虎太郎ちゃんにここまでばらされてしまった後で、違うって言うのは無理だったから、仕方なくバイトの事を認める。
「俺もバイトはしてみたいけど、いまは練習についていくので精一杯って言うか。うちの学年、小笠原さんと越智に続いて三人目のバイトかぁ~」
福田君が呑気に行って前を歩いていく。
「芹沢さん、ほんと?」
斜め前を歩く小坂君に聞かれて、私はぎこちなく頷く。
「うん、先週から始めて……」
あーあ、小坂君にもばれちゃった。でも、バイトのお金で誕生日プレゼントを買うって言うのはまだばれてないから大丈夫だよねっ!
「なんのバイト?」
「えっと、喫茶店で……」
メイド服来てるとは恥ずかしくてとても言えなくて、それ以上突っ込まないでぇ~って思いながら目を瞑る。
「もしかして、しばらく土日忙しくなるって言ってたのはバイトのこと?」
「うん、ごめんね。でも、週二回日曜は休みだし、土曜も早番だったら夕方から空いてるから遊んでね」
そう言った私の手を、小坂君が握ってくるからドキンッとする。
「喫茶店――行ってみたいな。芹沢さんのバイト姿、見てみたい。ダメ?」
心なしか潤んだ瞳で見つめられて、心臓がドキバク言っている。そんな色っぽい表情で言われたら、いいよって言いたいけど――
「えっと、まだ慣れなくて恥ずかしいから」
「そう……」
小坂君を見上げると、すっと視線をそらされてしまう。握られていた手から温もりが消え、小坂君が福田君の横まで歩いて行ってしまった。
なんだか小坂君の様子が変に感じたけど気のせいだったのかと思う。
※
それから二週間が経って七月二十二日終業式。さすがに終業式は部活はなくて、久しぶりに小坂君と二人きりで下校する。
「あっ、ねえ、帰りに八幡よらない?」
電車に乗ってから言ってみる。八幡は学校と家の間にある駅で、時々帰りに寄り道をする。
「いいよ。なにか用事?」
私の提案に快く頷いてくれる小坂君に笑顔を向ける。
一時期はギクシャクしていた時期もあったけど、時間が経って本当にいつもどおりになっていた。
「あのね、バイト先の人に美味しいケーキ屋さん教えてもらったから行ってみたくて」
バイトを始めて三週間。周りの人が親切に教えてくれるし、お店の雰囲気は落ち着いた感じで好きだし、楽しくバイト生活を送っている。
「あっ、小坂君って、甘いの大丈夫……だよね?」
確か前に、甘いもの好きって言っていたような……
「うん、好きだよ」
ふわりととろけるような笑顔で言われてドギマギしてしまう。うわぁー、久しぶりに小坂君の満面の笑み見たかも。なんだか得した気分になる。
「良かった、小坂君が甘いもの好きで。私も好きなんだ」
そういえば――虎太郎ちゃんは甘いもの苦手なのに無理して食べてたなって思い出して、苦笑が漏れる。
「ん、どうしたの?」
くすっと笑った声が聞こえたのか、小坂君に聞かれて、私は首を傾げて小坂君の顔を見る。
「あのね、虎太郎ちゃんは甘い物苦手なんだって。それなのに、ファンの子から貰うお菓子はちゃんと食べるんだって。笑っちゃうけど、えらいよね」
そう言ってまた笑いが込み上げて来て、ふっと見た小坂君の顔が無表情で違和感を覚える。
「…………」
小坂君が何か言ったんだけど、急に突風が吹いて聞き取れなかった。
「ごめん、なに?」
風で顔の前に来た髪をかきわけて聞き返すと、小坂君が真剣な光を宿した瞳で私を見つめる。
「俺も芹沢さんのバイト先、行きたいな……」
切なさを含んだ口調で言われ、困ってしまう。
「えっと……」
この前は慣れてなくてって断れたけど、さすがに二度目は同じ理由では断れなくてしどろもどろする。顔にかかる髪を耳にかきあげて、小坂君から視線をそらす。
黙り込んでしまって、国府台から三駅目の八幡に着いてしまう。だけど電車を降りずに、無言でそのまま電車に乗り続ける。
私はどうしたらいいか分からなくて、ちらっと小坂君を見ると、視線はあわなかったけど、小坂君が私の手を握りしめるから黙っていた。
うちの最寄りの海神駅に着き、小坂君に手を引かれて電車を降りてしばらく歩く。
突然、小坂君が立ち止まるから仰ぎ見ると、振り返った小坂君は今にも泣き出しそうに顔を歪めていて、その表情にドキンっとする。
「小坂君……?」
どうしたの――そう聞きたかったのに声がかすれて出てこない。
小坂君はしばらく私を見つめた後、ゆっくりと口を開いて、ぎゅっと唇をかみしめる。
「田中がバイト先に行くのはよくて、俺はダメなの……?」
「えっ?」
突然言われたことに、頭がついていかない。
「田中は芹沢さんのバイト先に行ったって言ってた。制服が可愛いって」
そこでぎゅっと眉をしかめて横を向き、低い声で吐き捨てるように言う。
「芹沢さんは何かっていうと田中の話ばかりだ。俺はそのたびに比べられてる様な気がして劣等感を感じるっ」
「違っ、私、小坂君と虎太郎ちゃんを比べたりなんか……」
「じゃあ、どうして幼馴染だって分かった時、すぐに俺に言ってくれなかったの?」
「それは……虎太郎ちゃんに口止めされてて……」
「俺に言うのもダメって言われた?」
「…………」
私は体の前で両手をぎゅっと握りしめる。小坂君が本気で怒っている事が分かって、何も言えなかった。
「芹沢さんと田中が下の名前で呼び合うのも、なんだか俺よりも仲がいいみたいでずっと嫌だった……」
「――っ」
そんなこと聞いたことがなくて驚いて。だけど考えてみれば、小坂君が不愉快に感じるのは当然かもしれなくて、何も反論が出来ない。
「時々二人にしか分からない話をしたり、芹沢さんと田中がお互いの事をなんでも分かっているようなのも苛立った――」
小坂君がこんな風に言うほど嫌だったなんて知らなくて、ダメな自分に悲しくなってくる。
「分かってる……二人が幼馴染だから、だれよりもお互いの事を理解し合っているのは仕方がない事だって、こんなの嫉妬だって……だけどっ」
そこで声を荒げて小坂君が私の両肩を掴んで上を向かせる。
「俺が芹沢さんにとって一番なんだって信じてた。でも、それは違うの……?」
苛立ちと切なさの入り混じる瞳で見つめられて、胸が押しつぶされるように苦しくて、必死に首を横に振る。
「ちがっ……私は小坂君が、好きだよ……」
「じゃあどうして……っ」
腕が肩から背中にまわされて、強く抱きしめられる。小坂君の声は切なさにかれて、その後に呟いた声は聞き取れなかった。
ぎゅっと抱きしめられ、小坂君の胸に顔をうずめる形になって小坂君の心臓の音が間近で聞こえる。心なしか肩がふるえているように感じて顔を上げようとするけど、あまりに強く抱きしめられていて動く事も出来ない。
「小坂君……泣いてるの……?」
尋ねた声に、ぴくっと肩が大きく跳ねる。
それからゆっくりと、背中にまわされていた腕が緩められて、小坂君と私の間に一歩の距離が作られる。
小坂君の瞳は赤くて、泣いていたのかもしれない。
「別れよう――」
小坂君がなんて言ったのか、しばらく理解できなかった。