第30話 ハートエイク 1
虎太郎ちゃんは結局一度も勉強会には参加しなかった。クラスでも、私と視線が合うと無表情で視線をそらされてしまう。
私、なにか虎太郎ちゃんを怒らせるようなことしちゃったんだろうか……
いつもだったら目を見ただけで虎太郎ちゃんの気持ちもだいたい分かるのに、ここ最近の虎太郎ちゃんは全く分からない。
時々、私と虎太郎ちゃんを見て女子が囁いてるのに気づいていたけど、そんなのは前からの事で気にならなくて。何を話しているのかも、私は知らない。
体育祭で私のことを敵視していた橋本さんも、相変わらず私と視線が合うと射抜くような鋭い視線で睨んできて、一方的な敵意に困ってしまう。
クラス対抗リレーで私が二回走ったことにクラスのみんなは気づいていて、それが橋本さんの我が儘のせい――って噂になって、クラスから冷たい視線で見られたから仕方がないのかもしれないけど。でも、元をただせば悪いのは橋本さんでしょ?
私が悪いとは思わないから、どんなに睨まれたって平気だけど、いい気分はしない。
それに――
もう一週間だよ……
虎太郎ちゃんと口を聞いてないの。こんなことは初めてだよ。
なんだか側に虎太郎ちゃんがいないと落ち着かなくて、学校帰りに虎太郎ちゃんの家に寄ることにした。
チャイムを鳴らすと虎太郎ちゃんのお母さんが出てきて。
「あら、芽依ちゃん、いらっしゃい。虎太郎なら部屋にいるわよ。上がって」
虎太郎ちゃんに用事があると言う前に笑顔で迎えてくれて、お辞儀をして玄関を上がる。
幼馴染だと分かった日以来、学校の帰りや休みの日など何度も来たことがあるから、慣れた足取りで二階の奥にある虎太郎ちゃんの部屋に一人で向かう。
コン、コン。
ノックをすると「はい」って素っ気ない返事がして、ゆっくりと引き戸を少しだけ開けて中を覗く。
虎太郎ちゃんは窓側に置かれた黒いパイプベッドの上に仰向けになって寝転び、足を組んで雑誌を読んでいる。
「なに?」
視線を雑誌に向けたまま聞かれ、私は部屋に足を踏み入れて後ろ手で引き戸を閉める。
「虎太郎ちゃん……?」
恐る恐るといったように声を出す。
「芽依……」
きっとノックしたのはおばさんだと思ってたんだ。雑誌からこっちに視線を向けて、驚いた顔をしている。手に持っていた雑誌を閉じて横に置き、起き上がってベッドに腰掛けた虎太郎ちゃんは不機嫌そうに眉を寄せて床に視線を向ける。
「なにしに来た……」
いつもだったらそんなこと言わないのに。
邪魔だ、帰れ――そんな威圧的な雰囲気に、たじろいでしまう。
久しぶりに虎太郎ちゃんの感情が伝わってきたのに、虎太郎ちゃんの気持ちは分からなくて、どうしていいか分からない。
「虎太郎ちゃん、なんか最近、私と目も合わせてくれないし、図書館での勉強会も一度も来なかったから、どうしたのかなって思って――」
虎太郎ちゃんの方を向いていられなくて、前髪をいじって視線を横にそらす。
「来ちゃ……ダメだった?」
いつもだったら、なんだかんだ文句を言いながらも、虎太郎ちゃんの部屋で一緒に時間を過ごしている。だから今日も、そんなことない――って返事を期待して聞いたのに、虎太郎ちゃんは黙り込んでしまう。
長い沈黙を挟んで、ちっと舌打ちをする声が聞こえて虎太郎ちゃんを振り仰ぐ。
「ああ……」
「そっか、じゃあ、また来るね」
虎太郎ちゃんが私を見ようともしないで言うから胸が苦しくて、震えそうになる声を必死に絞り出して言った。それなのに。
「俺の部屋には、もう来ないでくれ――」
拒絶の言葉を言われ、体が一気に冷たくなる。
「ごめん、忙しかったんだね……」
どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか分からなくて、ただその場を逃げ去るように虎太郎ちゃんの部屋を飛び出した。
冷静になって考えれば、なんで虎太郎ちゃんが不機嫌なのかちゃんと聞けばよかったって思うのに、その時は何も考えられなくて、全速力で家まで走って帰っていた。
※
日曜日。
初めて小坂君の家にお邪魔すると言う事で、緊張してしまう。どんな服で行こうか――クローゼットの中の服を引っ張り出して、これがいいかなこっちがいいかなって昨日たくさん悩んで、白の丸襟シャツ、胸元にくるみボタンが付いたベージュのジャンバースカートを合わせる。肩ひもは背中でクロスし、スカートのほどよいギャザーでふんわりと女の子らしいシルエットになっている。
待ち合わせの谷津駅の改札前に、両足をそろえて姿勢を正し、鞄を持った手を前に合わせて立つ。
淡いピンクの鞄の中には、教科書と問題集とノートと筆記用具が入っていてずっしりと重い。
十時って言われたのに三十分も早く来ちゃって、待っている時間がよけいに緊張してしまう。
だって、男の子の部屋行くのなんて初めてでドキドキしちゃう。そう考えて。
あっ、虎太郎ちゃんもいちおう男の子か――ってことに今頃気づく。虎太郎ちゃんは私の中で、男友達とかそういう分類じゃなくて“幼馴染”ってポジションで、男とか女とかじゃなくて性別を越えた関係と言うか――
だけど虎太郎ちゃんは、私みたいな幼馴染はうっとおしいって思ったのかな……
一昨日の虎太郎ちゃんの事を思い出して、気分がどんどん沈んでいく。
ほんとに、私、虎太郎ちゃんになにかしちゃったんだろうか……
態度だけじゃなく、言葉でも拒絶されて、虎太郎ちゃんにどう接していいか分からなくなってしまう。だって、二週間前までは普通だったのに……
ふぅーっと大きなため息をついて、空を見上げる。
こういう気持ちはなんて言うんだろう――そんなことを考えて目を細め、爽やかな風が吹いて髪をさらっていく。腰に届きそうな長い髪が、僅かに汗をかいた頬に張り付いたから剥がす。
「芹沢さんっ!」
大好きな声に名前を呼ばれてぱっと振り返ると、こっちに向かって小坂君が走ってくる。
淡いブルーデニムのパンツに、襟と裾がチェック模様の白いシャツを着た小坂君は、いつものふんわりと和む笑顔をしてて、私は顔を見ただけで胸がきゅんっとしてしまう。
「小坂君、おはよう」
「ごめん、待った?」
「ううん、私がちょっと早く来すぎちゃっただけだから」
朝が弱い私だけど、小坂君の家に行くって思ったら緊張してよく眠れなくて、朝もすごい早く目が覚めてしまったの。
「何分くらいに着いてた?」
「九時半くらい?」
「九時半……連絡してくれればよかったのに」
きまり悪そうに小坂君が言うから、私はちょこっと首をかしげる。
「待ってるのも楽しいからいいの」
緊張はしてるけど、楽しいって言うのも嘘じゃないから。
「今度また早くに着いたら連絡して。俺、すぐ来るから」
さりげなく私の手を掴んで歩き出す小坂君は、学校で会う時よりも大人っぽい雰囲気でドキドキしてしまう。
「小坂君が全速力で来たら、きっとすごく早いね」
くすりと笑って小坂君の手を握り返して歩き出した。
小坂君の家は線路沿いにしばらく歩いたところ、閑静な住宅街にある。二階建のオレンジの屋根の家、玄関前に小さな庭があって犬小屋に柴犬が繋がれている。
「この子がももちゃん?」
庭を突っ切りながら尋ねると頷かれる。前に小坂君がももちゃん自慢してるのを聞いたことがある。携帯の待ち受けもももちゃんの写真なんだよ。
ももちゃんは犬小屋で出来た日陰部分に小屋に寄りかかるように丸まって寝ている。
「帰り、起きてたら触っても大丈夫?」
「うん、ももは懐っこいから喜ぶよ」
目元を和ませる小坂君に続いて玄関から家の中へ入る。
「お邪魔しまーす」
玄関の目の前に伸びる廊下の先に視線を向けながら言ったんだけど、期待した返答はなくて、小坂君に促されて玄関で靴を脱ぐ。
「今日、母さんも父さんも仕事でいないから、気にしなくていいよ」
そんなことを言われて、ドキンとする。
きっと態度にもでちゃったんだな。小坂君がちょっと困った顔して視線をそらす。
「えっと、変な意味じゃなくて。弟はいるから安心して――」
そう言って「安心ってなんだ……」とか小坂君が呟いていた。