第9話 痛むキズ
体育館で倒れた私を保健室まで運んだのが虎太郎ちゃんと聞き――しかも、お姫様抱っこでってことに驚愕を隠せず、口をぽかんとあける。
夏凛はそんな私に同情の視線をよこし。
「あの時は、体育館に女子の悲鳴が響き渡って大変だったわよ」
ぽんっと私の肩に手を置き、追い打ちをかける。
「女子のひがみを買ったのは間違いなしよ。それから……」
「そんなぁ……」
私が情けない声を出すと、何かを言いかけた夏凛はやめ。
「とにかく、背後には気をつけなさい」
そう言い残して、部活に行ってしまった。
なによ、背後って!
ぷんぷん、怒りを露わに薄情な親友に対しての愚痴を漏らし、下着を交換するために、保健室の前にあるトイレへと向かった。着替えだけなら、カーテンが引かれてるから保健室の中でもできるけど、さすがに下着はね……
下着だけ取り換え、ジャージ姿で保健室に戻ると、保健医の先生はいなくて、小坂君が一人、丸椅子に座って外に視線を向けていた。
「小坂君……」
どうしてここに? そう続けようとした言葉を飲み込む。
振り返った小坂君の表情は、いつものとろけるような笑顔じゃなくて、無表情で――張りつめた緊張感が漂う。
「芹沢さん。着替えたら、家まで送って行くよ」
小坂君は私を見ずに、感情の読みとれない静かな声で言った。
「うっ、うん」
私は頷いて、荷物の置かれたベッドに行き、しゃーっとカーテンを閉めた。背中でカーテンを握り、緊張で小刻みに震える体を縮める。
あんな怖い小坂君見るの初めてだ――あからさまに怒ってる顔をしてるわけじゃないけど、纏ってる空気がいつもと違いすぎて、そう思った。
なんで、怒ってるの――小坂君?
私は理由が分からなくて、とにかく小坂君を待たせないようにと素早く着替えようとして捻挫のことをすっかり忘れて、思いっきり左足に力を入れてしまい、痛みに声を漏らす。
「いたっ……」
足の痛みと、小坂君を怒らせてしまった自分が情けなくて、涙が込み上げてくるけど、それを必死に我慢する。
「芹沢さん……大丈夫?」
カーテン越しに小坂君のためらいがちな、でも心配そうな声が聞こえ、涙を我慢するためにしゃがみこんでた私は、目元を拭ってから制服のリボンを結んで立ちあがる。
「うん、大丈夫。お待たせ」
泣きそうになってたのを悟られないように、必死に笑顔を作って、カーテンを開けた。
私の少し先を歩く小坂君は、学校を出てから一言も話さない。いつもだったら、隣を歩いてくれるのに、前を歩くのは、やっぱり怒ってるからなのだろうか。
それでも、その歩調がゆっくりなことに、小坂君の優しさを感じて、胸が締め付けられる。
小坂君を怒らせるようなことをしたのは、私なんだから、謝らなきゃ。
「ごめんなさいっ!」
私は精一杯の気持ちを込めて、頭を深く下げた。
前を歩いてる小坂君は立ち止まり、振り返ると、瞳に苛立ちをにじませ言った。
「俺が、何に怒ってるか、わかってる?」
そんな風に返されるとは思わなくて、私は怒ってる原因が何なのか必死に考えたんだけど、わからなくて黙ってると……
「わからない? ねえ、芹沢さん。俺って芹沢さんにとって、なに?」
「かっ……」
切なげな表情で小坂君が言うから、私はすぐに答えようとしたんだけど、私の声に小坂君の声が被る。
「彼氏? じゃあ、なんで、足痛めてること黙ってたの?」
痛いところをつかれて、私は困って眉を落とし黙り込む。
「なんで、昨日、田中と帰ったこと黙ってたの? 田中といつの間に、そんなに仲良くなったの……」
そう言った小坂君は、はっと口をつぐみ、視線を落とした。
「ごめんなさい……。足のことは、心配かけると思って言えなかったの」
声を落として言うと、ぱっと小坂君が顔を上げ、頬を染めてぷいっと横を向いた。
「芹沢さんのことだったら、心配したい……捻挫のこと知らなくて、芹沢さんのこと――」
そこで言葉を切り、小坂君は聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「ごめん、これはやつあたりだ……」
その言葉の意味が理解できなくて、ただただ小坂君を見つめたけど、小坂君は私の方を向いてくれない。
「俺は、芹沢さんにとって、心配させるほどの価値もない……?」
その問いかけに、なんと答えたら小坂君が笑ってくれるのか分からなくて、言葉に詰まる。
「しばらく、朝一緒に行くのやめよう……。送るって言ったけどごめん、今は一緒にいれない」
小坂君はそう言って、一人、歩きだしてしまった。
その言葉が永遠の別れを告げられたように感じて、胸にぐんっと何かが突き刺さったように締め付けられて、私はその場から動くことができなかった。
しばらくして、やっと歩き出すことができたんだけど、頭の中では、ぐるぐると小坂君の言葉が反芻し、悲しみが込み上げてくる。
私はどうして、小坂君を怒らせちゃったんだろう……
ただ、心配させまいと、怪我のことを黙ってただけなのに、それがいけなかったの……?
どうしよう……もう、小坂君が私に愛想尽かして、話してくれなかったら……
どうしよう、どうしよう……
ただ、その気持ちだけで一杯で、どこをどう歩いて家に帰ったのか、私は記憶がない。
気がつくと、空は夕焼けで紅に染まり、目に痛いほどの赤が、胸を一層締め付ける。その時、堪えていた涙がぽろり、一粒頬を流れる。それをきっかけに、広げた手のひらの上に、ぽろぽろと後から後から涙が溢れてくる。
泣きたいんじゃないのに、溢れてくる涙に戸惑っていると、ドンと背後の人物にぶつかってしまった。
「あっ、ごめんないさい……」
振り返ると、そこにいたのは虎太郎ちゃんで、私を見て眉をひそめ、綺麗な顔をゆがませて目を見開いている。
「芽依……どうして泣いてる? もしかして、また女子に何か言われたのか?」
ふるふると首を左右に振って、ファンクラブの子に何か言われたのかと思ってる虎太郎ちゃんに違うことを伝える。
「じゃあどうした? 部活には出ないで帰ったはずなのに、なんでまだこんなとこうろついてるんだ?」
そう言われて――小坂君の顔を思い出して、涙が止まらなくて嗚咽が漏れる。
「うっく……、うっ……わ、たし……ひぃく……」
喋ろうとしたんだけど上手く喋れなくて、そんな私に、虎太郎ちゃんは首にかけてたフェイスタオルをふわりと私の頭にかけてくれて、周りから私の顔が隠れるように包み込むと、肩に手をかけ、ゆっくりと歩き出す。
「いい、今は喋るな。とりあえず、家に来い」
虎太郎ちゃんの部屋に上がった私は、我慢してた声を出して思いっきり泣いてしまった。
その間、虎太郎ちゃんは呆れたりせず、ただ、隣に座って優しく私の頭を撫で続けてくれた。こんな風に、大きな声を上げて泣くのなんて、いつぶりだろう……
いっぱい泣いて、少しすっきりした私は、虎太郎ちゃんに事情を説明することにした。
「小坂君と一緒に帰ってたんだけど、なんか、怒らせちゃって、それでぐるぐる考え事しながら歩いてたの……」
「学校からずっと歩いて帰って来たのか?」
虎太郎ちゃんは、片眉を上げて驚いた。
「うん、たぶん。ぼーと歩いてて、電車に乗った記憶ない……」
私は頭を掻いて苦笑する。
そんな私を見てため息をついた虎太郎ちゃんは、私の前にしゃがみ、左足首を見て、もう一度ため息をつく。
「腫れ、ひどくなってるぞ。今、湿布持ってくるから」
しばらくして、救急箱を持ってきた虎太郎ちゃんは、湿布を取り出し、丁寧に貼り替えてくれた。
「ありがと」
「どういたしまして。それより、小坂はどうしてちゃんと付き添って帰らなかったんだ?」
きゅっと眉間の皺を深くし、苛立った口調で虎太郎ちゃんが言う。
「違うの、小坂君はちゃんと一緒に帰ってくれようとしたの……悪いのは、私で……」
その時のことを思い出して、止まったはずの涙が溢れてくる。
「うぅ……、ごめん、泣くつもりじゃ、なかっ……」
必死に涙を堪えようとしたんだけど、出来なくて。虎太郎ちゃんが舌打ちして、私の頭をグイッと虎太郎ちゃんの胸に押し付けた。
「誤らなくていいから、泣きたいなら、気が済むまで泣け」
舌打ちなんかするから、怒ってるのかと思ったけど、虎太郎ちゃんの声は暖かくて、照れてるだけだとすぐにわかった。
優しいね、虎太郎ちゃん――
私は虎太郎ちゃんの胸を借りて、涙が枯れるまで思いっきり泣いた。