第9話 甘味は、支配を深める
【魔王グラトニア視点】
目覚めと共に、余はわずかな不快感を覚えた。
体調が悪いわけではない。寝台も快適だ。窓の外には、いつも通りの鉛色の空と、凍てつく荒野が広がっている。
不快の原因は、余の「舌」だ。
腹が減っている。
だが、かつてのように「何でもいいから腹を満たしたい」とは思わなくなってしまった。
あの黒い棒のような携帯食を噛み砕き、泥水を啜る……そんな日々には、もう戻れない。
(……罪なことよ)
知ってしまった舌は、戻らぬ。
余は、自分がかつてよりも少しだけ「弱く」なったことを自覚し、その事実に苛立ちながらも、どこかで今日の食事を待ちわびている自分を嗤った。
◇◆◇
「――陛下。本日は、新しい食材をお持ちしました」
朝の謁見。
補給総監となった人間、タータがおずおずと進み出てきた。
小動物のように震えているが、その瞳には職人特有の自信が宿っている。
彼が盆の上に載せてきたのは、小さな壺だった。
蓋を開けると、中にはさらさらとした白い粉が入っている。
「……白い砂か? まさか、余に土を食えというのではあるまいな」
「め、滅相もございません! これは『砂糖』です。人間界から、ベルナルドさんに無理を言って仕入れてもらいました」
「砂糖……?」
聞き慣れぬ言葉だ。
タータは説明した。それはサトウキビという草から精製されたもので、栄養摂取のためではなく、ただひたすらに「甘さ」を感じるためのものだと。
「人間界では、祝い事や、疲れた時、そして子供へのご褒美に使われます。……いわば、体の栄養ではなく、心の栄養です」
心の、栄養。
余は鼻を鳴らした。
「ククク……。余に、子供の菓子を食えと言うか。不遜な男よ」
だが、興味は惹かれた。
余は手で合図を送った。タータは心得たように、その粉をまぶした、新しい「白パン」を差し出した。
表面が雪のように白く、光を反射してキラキラと輝いている。
余はそれを手に取り、口へと運んだ。
――シャリッ。
微かな音と共に、舌の上に異質な感覚が走った。
パンの柔らかさとは違う、鋭敏な粒子の感触。
次の瞬間、それは唾液と共に溶け出し、爆発的な「快」となって脳髄を駆け巡った。
「…………っ」
余は言葉を失った。
甘い。
果実の酸味とも、肉の脂の甘みとも違う。
純粋で、暴力的で、それでいて頭の芯が痺れるような陶酔。
冷え切っていた血が、一瞬で沸き立つような感覚。
気づけば、余はパンを飲み込んでいた。
喉を通った後も、口の中に幸福な余韻が残っている。
「……これは、弱さだな」
余は独りごちた。
こんなものを覚えてしまえば、兵士たちは戦いの辛さをより強く感じるようになるかもしれぬ。
甘味とは、安らぎだ。
常に死と隣り合わせの魔界において、安らぎは隙を生む。
だが。
(……美味い)
抗えない。
理屈で拒絶しようとしても、体が、魂が、次の一口を欲している。
余は玉座の上で、己の軍勢を思った。
極寒の大地を行軍し、魔獣と戦う者たち。
彼らに、この「白い粉」を与えたらどうなる?
きっと、狂喜するだろう。
士気は跳ね上がる。
だが同時に、彼らはこの味なしでは生きられなくなる。
この城に、この味がある限り……彼らは余に対して、絶対の忠誠――いや、依存を抱くことになる。
「……クク、ハハハハ!」
余は笑った。
タータよ、恐ろしい男だ。
「これは武器だ。剣よりも、呪いよりも、厄介な」
恐怖で縛る支配は、いつか反乱を生む。
だが、快楽で縛る支配は、逃れられぬ鎖となる。
「……陛下? お気に召しませんでしたか?」
タータが不安げに尋ねる。
余はニヤリと口角を上げた。
「いいや。……気に入ったぞ、タータ」
余は立ち上がり、マントを翻して宣言した。
「全軍に通達せよ! 近々、再び宴を開く! この『甘味』を用いたパンを、諸侯にも分かち与えるとな!」
「へっ? あ、はい!」
これは、褒美だ。
だが同時に、選別でもある。
この甘美な毒を、誰が受け入れ、誰が拒むか。
誰が新しい時代に順応し、誰が古き誇りに固執するか。
余の脳裏に、幾人かの部下の顔が浮かぶ。
喜んで貪るであろう豚のような貴族たち。
そして……苦虫を噛み潰したような顔をするであろう、武骨な将軍の顔。
「……さて」
甘さに耐えられぬ者は、いずれその反動で、強い苦味を抱くことになるだろう。
それが反発となるか、あるいは殺意となるか。
余はそれを、玉座の上から愉しむとしよう。
去っていくタータの小さな背中を見送る。
もはや、ただのパン屋ではない。
「タータよ。貴様は、余の腹だけでなく――魔界そのものを、変えているぞ」
窓の外。
二つの月の光が、心なしかいつもより妖しく輝いているように見えた。
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