第8話 白いパンと、白い婚約者
魔王主催の晩餐会から、数日が過ぎた。
僕、タータ・ミルグレインの日常は、劇的に変化していた。
「……あの、イリスさん。これは一体?」
補給総監の執務室。その机の上には、山のような手紙と贈り物が積み上げられていた。
最高級のワイン、宝石、そして見たこともない魔獣の毛皮。
「貴方への『求愛』ですよ、総監殿」
イリスさんが、事務的に手紙の封を切りながら答える。その声は心なしか、いつもより温度が低い。
「求愛? 僕に?」
「ええ。先日の晩餐会で、貴方の作った『白パン』は権力の象徴となりました。となれば、その生みの親である貴方を自陣営に取り込みたいと思うのは、貴族として当然の思考です」
イリスさんは一枚の手紙を読み上げ、鼻で笑ってゴミ箱へ捨てた。
「『我が家の娘を嫁に』『妾でも構わぬ』『全財産を譲るから養子に』……。まったく、節操がないですね」
政治だ。
剣や魔法を使わない、婚姻という名の侵略戦争。
僕の背筋が寒くなる。パンを焼きたいだけなのに、なんでこんなことに。
「ど、どうしよう……断れるのかな」
「すべて断ります。貴方は魔王軍の重要資産ですから、勝手な縁談は認められません」
頼もしい! さすがイリスさんだ。
僕がホッと胸を撫で下ろした、その時だった。
コンコン。
執務室のドアが控えめに叩かれた。
「失礼いたします。……西の有力者、カーミラ公爵家の御令嬢がお見えです」
衛兵の言葉に、イリスさんの眉がピクリと跳ねた。
「……通しなさい。公爵家を門前払いはできません」
◇◆◇
ドアが開くと、部屋の空気が一瞬で華やいだ。
入ってきたのは、この世のものとは思えない美女だった。
「お初にお目にかかります。補給総監、タータ様」
吸血鬼の名門、カーミラ家の令嬢、セシリア。
その容姿は、僕の焼いた『白パン』を連想させた。
透き通るような病的なまでに白い肌。
血のように赤い唇。
プラチナブロンドの髪は、歩くたびにキラキラと光を撒き散らしている。
「こ、これはご丁寧に……」
僕がドギマギしていると、セシリア嬢は優雅に微笑み、僕の手を取った。
ひやりと冷たい、でも滑らかな感触。
「晩餐会での『白パン』……感動いたしましたわ。あの白さは、まさにわたくしたち吸血鬼の肌のよう。運命を感じてしまいましたの」
セシリア嬢は、僕の手を自分の頬に寄せた。
甘い香水の匂いが鼻孔をくすぐる。酵母の匂いとは違う、危険な大人の香りだ。
「タータ様。わたくしと……一緒になっていただけませんか?」
「ええっ!?」
「我が家に来ていただければ、最高級の厨房と、何不自由ない暮らしをお約束しますわ。貴方様はただ、わたくしのためにあのパンを焼いてくださればいいのです」
直球だ。
しかも、条件は破格。魔王軍の激務から解放され、悠々自適な生活。
普通の男なら、即答で頷いてしまうだろう。
だが。
(……それじゃあ、みんなには食べてもらえない)
彼女の条件は「独占」だ。
僕のパンは、彼女だけのものになる。前線の兵士たちや、あの日食堂で笑ってくれたオークのおっちゃんたちは、二度と食べられない。
それは、パン屋の息子として一番やっちゃいけないことだ。
「あの、セシリア様。お気持ちは嬉しいのですが――」
僕が断ろうとした、その時。
ゾワリ。
室内の温度が、さらに五度くらい下がった気がした。
「…………」
視線だ。
僕の斜め後ろ、給仕としてお茶を淹れていたイリスさんからの視線。
彼女は何も言っていない。
ただ、ポットからカップへ紅茶を注ぎながら、その銀色の瞳で、じっと――そう、ジトッと、僕とセシリア嬢の手が触れ合っている部分を見つめていた。
その目は、晩餐会で見せた冷静な参謀の目ではない。
自分のテリトリーに、余計な異物が入り込んできたことを不快に思う、猫のような目。
あるいは、大切に育てた酵母を、他人に勝手に使われそうになった時の職人のような目。
「……あら? そちらは?」
セシリア嬢も、その異様な気配に気づいて振り返った。
「……補佐官のイリスです。お茶が入りましたので」
イリスさんは無表情のまま、カップをことりと置いた。
その所作は完璧だが、置く音がわずかに硬い。
「ありがとう。……ふふ、優秀な補佐官がいらっしゃるのね。でも、わたくしがお嫁に行けば、その役目も不要になりますわ」
セシリア嬢が挑発的に微笑む。
イリスさんは、表情を崩さない。
ただ、その瞳の奥で、青白い炎が揺らめいたのを僕は見た。
「……セシリア様。カーミラ家は素晴らしい名家ですが……」
イリスさんが、ゆっくりと口を開く。
「タータ殿は、甘い蜜よりも、素朴なパンがお好きなようですよ?」
「……どういう意味かしら?」
「彼は、飾り立てられた美しさよりも、噛めば噛むほど味が出る……そういう『日常』を大切にする方です。高貴な貴女様に、泥臭い厨房の生活が理解できますか?」
それは、僕を代弁する言葉であり、同時にイリスさん自身の宣言のようにも聞こえた。
『私は、彼を知っている』という、静かだが強烈なマウント。
二人の美女の間で、火花が散る。
白き吸血鬼と、銀の魔族。
僕は挟まれた小動物のように、ただ震えるしかなかった。
「……ふふ。面白いですわね」
先に引いたのはセシリア嬢だった。
彼女は僕の手を離し、優雅に立ち上がった。
「今日はご挨拶まで。ですが、わたくしは諦めませんわ。美味しいものは……時間をかけて味わうのが好きですから」
セシリア嬢はウィンクを残し、嵐のように去っていった。
◇◆◇
部屋に、重苦しい沈黙が戻る。
僕は恐る恐る、イリスさんの方を見た。
「あ、あの……助かりました、イリスさん」
「……別に。仕事ですから」
イリスさんはそっぽを向いて、お盆を胸に抱いた。
その横顔は少しだけ拗ねているように見えて、そして耳のあたりがほんのりと赤かった。
「それより、総監殿。パンの発酵が進んでしまいますよ。……厨房へ戻りましょう」
「あ、はい!」
イリスさんはスタスタと歩き出す。
僕は慌ててその後を追った。
魔王軍での戦いは、戦場だけじゃない。
政治と、商売と、そして……なんだか甘酸っぱいトラブルも、これから増えていきそうだ。
イリスさんの背中が、いつもより少しだけ小さく、愛おしく見えた。
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