第7話 魔王主催の晩餐会、あるいはパン屋への殺意
【タータ視点】
その夜、魔王城こと『マグナス城』の大広間は、かつてない緊張感に包まれていた。
魔界の各地を治める有力諸侯、将軍、部族長たち。
一癖も二癖もある猛者たちが一堂に会し、長大な黒曜石のテーブルに着いている。
本来なら、彼らが顔を合わせれば、領土問題や武勇の競い合いで怒号が飛び交うはずだ。
けれど今夜は、誰もが押し黙り、上座の支配者の顔色を窺っていた。
魔王グラトニア=バル=マグナス。
彼が気まぐれに発した、「余が直々に、貴様らを饗応する」という勅命。
魔界始まって以来の『魔王主催晩餐会』である。
(うわぁ……胃が痛くなりそうだ……)
僕は広間の隅、給仕たちが控える場所で、こっそりとその光景を眺めていた。
今日の僕は、ただのパン屋じゃない。この宴の『責任者』だ。もし不手際があれば、僕の首だけでなく、イリスさんやリュミナ、ベルナルドさんの立場まで危うくなる。
「……総監殿。顔色が悪いですよ」
隣に立つイリスさんが、心配そうに囁く。彼女も今日は正装のドレス姿だ。背中の開いた黒いドレスが、銀髪と白い肌を際立たせている。
「大丈夫です。パンの出来は完璧ですから」
僕は自分に言い聞かせるように頷いた。
ベルナルドさんが命がけで運んだ『白小麦』。
リックが選りすぐった『極上のミルクとバター』。
リュミナが怪力で捏ね上げ、僕が魂を込めて焼き上げた最高傑作。
――『白パン(ハイジ)』。
焼き色はつけず、低温でじっくりと火を通した、雪のように白く、雲のように柔らかいパンだ。
この魔界には存在しない、「白」と「柔」の象徴。
「――料理を運べ」
魔王の重々しい声が響く。
合図と共に、給仕の兵士たちが銀の盆を運んでいく。
漆黒のテーブルクロスの上に置かれたのは、湯気を立てる真っ白なパンと、濃厚なシチューだけ。
シンプル極まりない献立だ。
「……なんだ、これは」
客席の方から、不満げな濁声が聞こえた。
声の主は、全身を真紅の甲冑で固めた巨漢、ザガン将軍だ。
保守派の筆頭であり、ヴァルド軍師長とは犬猿の仲だと聞いている。
「陛下。我らを呼びつけておいて、食わせるのがこれですか? 軟弱な人間のごとき、色のないふやけた物体……。我ら魔族に必要なのは、血の滴る肉と、硬い骨でしょうが!」
ザガン将軍は、目の前の白パンを無造作に鷲掴みにした。
そして。
グシャッ。
握りつぶした。
せっかく膨らんだパンが、無惨な塊に変わる。
「あっ……」
僕は思わず声を上げそうになった。
職人として、食べ物を粗末にされるのは一番辛い。
広間の空気が凍りつく。誰もが魔王の反応を待った。
しかし、魔王は無言だった。
ただ静かに、自分の前の白パンを手に取った。
ザガン将軍とは対照的に、赤子の頬に触れるように優しく。
二つに割る。
ふわり、と白い湯気が立ち上る。
その中には、小麦の甘い香りと、発酵の命の匂いが詰まっている。
魔王はそれを口に運んだ。
唇が触れ、歯が沈み込む。
抵抗なく千切れ、口の中で溶けていく。
「…………」
魔王が目を閉じる。
その表情が、恍惚と緩んだ。
「……雲だ」
静かな、しかしよく通る声だった。
「余は今、空を食んでいる。……なんと優しく、なんと甘美な」
魔王は夢中で二口、三口と食べ進める。
その姿を見て、他の諸侯たちも恐る恐るパンに手を伸ばした。
そして、あちこちで驚嘆の声が漏れ始める。
「な、なんだこの柔らかさは!?」
「甘い……! 穀物とはこれほど甘いものだったか?」
「シチューに浸すと、汁を吸ってまた格別だぞ!」
ヴァルド軍師長も、無言で頷きながら、パンの香りを愉しんでいる。
広間の空気が変わった。
殺伐とした魔族の集会が、一瞬にして「美食の場」へと変貌したのだ。
たった一人、パンを握りつぶしたザガン将軍を除いて。
「ぬ、ぬぅ……?」
周囲の反応に、ザガン将軍はバツが悪そうに手の中の塊を見た。
そこへ、魔王の視線が突き刺さる。
「……ザガンよ」
「は、はっ!」
「貴様には、その『白』の価値が分からぬようだな」
怒鳴り声ではない。
けれど、絶対零度の冷徹さがそこにはあった。
「力任せに握りつぶし、本質を見ようともせぬ。……そのような狭量な器では、我が軍の最前線は任せられぬな」
「は……?」
「席を移れ。貴様は、あちらだ」
魔王が指差したのは、広間の一番出口に近い、末席だった。
ザガン将軍の席――上座の筆頭から、一気に最下層への降格。
理由は、戦の失敗でも謀反でもない。
たった一個のパンを、愛せなかったから。
「な……ば、馬鹿な……パン一つで、私の武勲を否定すると仰るのですか!?」
「くどい。……余の食卓を濁すな」
ザガン将軍は顔を真っ赤にして立ち上がり、屈辱に震えながら末席へと移動した。
代わりに上座へ呼ばれたのは、パンを綺麗に平らげた若手の文官だった。
――序列が、変わった。
力ではなく、魔王の好む「味」を理解した者が上がる。
その事実に、諸侯たちの目の色が変わった。
純粋な食欲ではない。
ギラギラとした、野心と欲望。
そして、その視線は魔王から外れ……給仕の影にいる、僕へと向けられた。
(……ひっ)
背筋に、冷たいものが走る。
彼らの目は語っていた。
『あの人間だ』
『あいつが、この味を作ったのか』
『あいつを握れば、魔王を操れる』
『あるいは……あいつさえ消せば』
感謝でも、称賛でもない。
それは、明確な『利用価値』への品定めと、ドロドロとした嫉妬。
「……タータ殿」
イリスさんが、誰にも聞こえない声で囁いた。
「これからは、背後に気をつけてください。……貴方は今、魔界で最も『危険な男』になりました」
僕は震える手で、自分のエプロンを握りしめた。
ただ、美味しいパンを食べてほしかっただけなのに。
みんなに笑顔になってほしかっただけなのに。
僕の焼いた真っ白なパンは、今夜、魔界を揺るがす『火種』になってしまったようだった。
やがて、食の進まないザガン将軍のパンとシチューが冷めていった。
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