第5話 魔王の無茶ぶりと、白い小麦
【イリス視点】
「……イリスよ。飽きたぞ」
魔王城、玉座の間。
この世の全てを統べるような低い声が、私の鼓膜を震わせた。
玉座に座る主、魔王グラトニア=バル=マグナス陛下は、不機嫌そうに頬杖をついている。
「は、はあ……。と申しますと?」
「黒パンだ。あれは確かに美味い。噛みごたえがあり、滋味深い。だが……毎日毎日、茶色くて硬いパンばかりでは、心が荒むとは思わんか?」
私は内心で盛大に溜め息をついた。
つい先日まで、「泥味のカロリーバー」を黙って食べていた方が何を仰るのか。美味しいものを知ってしまったが故の、贅沢な悩みだ。
「余は食べたいのだ。こう……雲のように白く、羽毛のようにフワフワとした、柔らかいパンを!」
魔王陛下が両手で「フワフワ」のジェスチャーをする。威厳のかけらもない。
しかし、その瞳は本気だ。もし叶わなければ、八つ当たりで人間の街の一つや二つ、消し飛びかねない。
「……承知いたしました。補給総監に伝えます」
私は一礼し、逃げるように玉座の間を後にした。
まったく。私を何だと思っているのか。私は魔王軍の参謀であって、パシリではないのだが。
◇◆◇
重い足取りで向かった先は、城の地下にある大厨房だ。
近づくにつれ、廊下に芳ばしい香りが漂ってくる。焼きたてのパンと、溶けたチーズの匂い。
その匂いを嗅ぐと、張り詰めていた神経がふっと緩むのを感じる。
「リュミナ! 生地の温度が高い! もっと手早く!」
「ん。……わかった」
厨房を覗くと、湯気の中で忙しなく動く影があった。
私の妹、リュミナ。
魔力を持たず、落ちこぼれと言われていた彼女が、ここでは生き生きと働いている。その姿を見るだけで、ここに来た意味があるというものだ。
そして、その中心にいる男。
タータ・ミルグレイン。
魔力もなければ、武力もない、ひ弱な人間。
けれど……。
(……不思議な男ですね)
彼が指示を出すだけで、荒くれ者の魔族たちが素直に動く。
彼が生地に触れるだけで、ただの粉が魔法のように美味しい食事に変わる。
私は彼のことが、嫌いではない。いや、むしろ……。
美味しいものを生み出せる存在として、尊敬すらしている。
「あ、イリスさん! お疲れ様です!」
私に気づいたタータが、粉まみれの顔で笑顔を向けた。
私は咳払いを一つして、努めて冷静に振る舞う。
「タータ殿。……また、陛下からの『無茶ぶり』です」
◇◆◇
「白くて、フワフワのパン……ですか」
事情を話すと、タータは腕組みをして唸った。
隣ではチーズ職人のリックも「またかよ」という顔をしている。
「作れないことはないです。いわゆる『白パン』ですね。ただ……材料が問題です」
「材料?」
「はい。今の黒パンに使っているのは魔界産のライ麦です。でも、フワフワのパンを作るには、『白小麦』が必要なんです。魔界の土壌じゃ育たない品種です」
なるほど。土壌の問題か。
「分かりました。では、私が人間界へ行って買ってきましょう」
私はマントを翻そうとした。が、タータに慌てて止められた。
「いやいやいや! 待ってくださいイリスさん! 魔王様の分だけならともかく、どうせ『全軍にも食わせろ』って話になりますよね?」
「……恐らく、そうなるでしょうね」
「だったら、何トン必要だと思ってるんですか! イリスさんがいくら力持ちでも、運びきれませんよ!」
言われてみればそうだ。数万の軍勢の胃袋を満たす小麦など、私の飛翔魔法でも運びきれる量ではない。
「じゃあ、どうすれば……」
「……商人を雇ったらどうですかい?」
作ったばかりのチーズを味見しながら、提案したのはリックだった。タータも頷く。
「そうだね。僕たちは作るプロだけど、運ぶプロじゃない。人間の街には、国境を超えて取引をする『闇商人』みたいな連中もいるはずです。彼らと契約して、定期的に白小麦を運ばせるルートを作らないと」
――商人。物流のプロ。
その発想はなかった。軍隊というのは基本的に自給自足か略奪だ。「契約して買いつける」という発想自体が、魔王軍には新しい。
「分かりました。では、人間の街へ行き、その手の商人をスカウトしましょう」
私は納得し、タータの背中に手を回した。
「さあ、行きますよタータ殿。交渉には貴方が必要です」
「へっ? あ、また僕が――」
慣れた手付きで彼を抱え上げ、飛翔の準備をした、その時だった。
『――ならぬ』
ドォォォォン……!
厨房の空気が震えた。魔王陛下の声だ。遠隔魔法で直接語りかけてきている。
『タ、タータよ……。貴様が行ってしまったら……今日の昼飯は誰が焼くのだ?』
「……え?」
『余は腹が減っているのだ! タータは城に残れ! 交渉ごとき、イリス一人で十分であろう!』
わがままここに極まれり。
ただ昼飯のためだけに、補給総監の出張を禁じるとは。
「は、はは……。だそうですよ、イリスさん」
タータが苦笑いで私の腕から抜け出す。
「……はぁ。承知いたしました、陛下」
私は天を仰いだ。
中間管理職の悲哀を、これほど感じた日はない。
◇◆◇
数分後。
私は一人、寒空の下を飛んでいた。
右脇にも、左脇にも、誰も抱えていない。
体は軽いはずなのに、なぜだろう。心なしか、前回よりも寒さが身に沁みる。
(……一人というのは、少し寂しいものですね)
あーだこーだと騒ぐパン屋も、ビクビク震えるチーズ職人もいない。
ただ風の音だけが響く空の旅。
「……まったく。人使いの荒い魔王様と、世話の焼けるパン屋さんだこと」
私は小さく愚痴をこぼした。
けれど、口元が自然と緩んでいるのを自覚する。
美味しいパンのためなら、これくらいの労力、安いものだ。
目指すは人間の街、商業区。
そこにいるはずの『金の亡者』を探しに、私は速度を上げた。
空に浮かぶ二つの月が、ただ優しい光を放っていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




