第4話 魔王の暴食、そして新しい弟子
リックが来てから数週間。
魔王軍の食卓には革命が起きていた。
『特製チーズカロリーバー』は、前線の兵士たちに爆発的な人気を博し、士気はうなぎのぼりだ。
黒鉄城の食堂は、今や笑顔と活気に満ち溢れている。
……しかし、平和な時間は長くは続かなかった。
「……タータ殿。準備をしてください」
ある日の早朝、厨房に現れたイリスさんの顔は蒼白だった。いつもの冷静さはどこへやら、その声は微かに震えている。
「準備って、朝食の?」
「いいえ。……『本城』への出頭命令です。魔王陛下が、貴方を呼んでいます」
◇◆◇
魔界の中枢、魔王城。
黒曜石で作られたその巨城は、天を突くようにそびえ立っていた。
広大な玉座の間。
左右に並ぶ高位の魔族たちが、一斉に膝をつき、頭を垂れる。
その最奥、小高い玉座に、その男はいた。
魔王、グラトニア=バル=マグナス。
豪奢なマントを羽織り、頬杖をついてこちらを見下ろす姿からは、圧倒的な『圧』が放たれている。
ヴァルド軍師長でさえ、緊張で額に汗を滲ませているほどだ。
「……面を上げよ」
重厚な声が響く。
僕は恐る恐る顔を上げた。魔王の瞳は、底なしの沼のように深く、そして飢えていた。
「貴様か。我が軍の兵たちが『生きる喜びを知った』などと騒いでおるのは」
「は、はい。パン屋のタータと申します」
「パン、か。……よかろう。余にもそれを献上せよ」
僕は震える手で、バスケットを差し出した。
中に入っているのは、リックの作った熟成チーズをたっぷりと練り込んだ、焼きたての丸パンだ。
魔王グラトニアは、無造作に一つを掴むと、大口を開けて放り込んだ。
バクッ。
咀嚼音が、静まり返った広間に響く。
一度、二度。
魔王の手が止まる。
そして、無言のまま二つ目、三つ目へと手が伸びた。
(……気に入らなかったのか?)
心臓が早鐘を打つ。
五つ目のパンが消えたところで、魔王はようやく口を開いた。
「……美味い」
その一言に、広間の空気がドッと緩んだ気がした。
「芳醇な香り。濃厚な味わい。……かつて余が食べた、どの供物よりも素晴らしい」
魔王は満足げに唇を舐めると、ギロリと僕を睨みつけた。
「だが、解せぬな」
「へっ?」
「これほどの美味を、人間どもは独占していたというのか?」
その瞬間、広間の空気が再び凍りついた。
魔王の瞳に、明確な『欲』の色が宿る。
「人間界には、このような美味が溢れているのだろう? ならば……奪えばよいではないか。全軍を挙げ、彼の地を我が領土とすれば、余は毎日これを食せるわけだ」
周囲の将軍たちが色めき立つ。
「おお、まさに!」
「侵攻の好機ですぞ!」
戦争への気運が、ただの『食欲』をきっかけに燃え上がろうとしていた。
まずい。これは、非常にまずい。
僕のパンが、戦争の引き金になろうとしている。
「……お言葉ですが、陛下」
僕は思わず声を上げていた。
イリスさんが「あっ」と息を呑むのが聞こえた。
「奪っても、この味は手に入りません」
「何?」
魔王の視線が鋭くなる。
「パンもチーズも、作る人の心が味に出るんです。怯えながら作らせたり、無理やり奪ったりしても、決して美味しくはなりません。この味は……平和だからこそ、焼けるんです」
言ってしまった。
殺されるかもしれない。
けれど、職人として嘘はつけなかった。
魔王はしばらく僕をじっと見つめ……やがて、愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「ククク……ハハハハ! 面白い! 余に説教をする人間など初めてだ!」
魔王は立ち上がり、高らかに宣言した。
「よかろう! その理屈、覚えておく。だが、余の腹は満たされぬぞ!」
魔王は指を突きつけた。
「タータよ。貴様を本日より、魔王軍『補給総監』に任ずる!」
「は、はいぃ!?」
「余の胃袋を満たし、兵たちの士気を上げよ。……それができぬようなら、その時は人間界ごといただくとするか」
◇◆◇
こうして僕は、パン屋から一気に将軍クラスの『補給総監』へと出世してしまった。
……聞こえはいい。
だが、その実態は地獄だった。
「パンが足りないぞ! 第三部隊からも催促だ!」
「粉を運べ! 窯の温度を上げるんだ!」
魔王城の巨大厨房で、僕は毎日数千個のパンを焼くことになった。
魔王陛下からのオーダーは、腹持ちが良く、保存の効く『黒パン』。
ライ麦を使い、ずっしりと重く焼き上げるドイツ風のパンだ。
これが重労働なんてもんじゃない。
「無理だ……いくらなんでも、一人じゃ無理だ……!」
三日目の夜。
粉まみれで床に這いつくばる僕の前に、誰かが立った。
「……無様ですね、総監殿」
「イ、イリスさん……」
見上げると、そこにはイリスさんと、もう一人。
イリスさんによく似た、でも少し幼さの残る少女が立っていた。
銀色のショートカットに、小ぶりな羊の角。
ぶかぶかの作業着を着ている。
「見かねて、助っ人を連れてきました。私の妹です」
「……リュミナ=ノクティル。よろしく」
少女――リュミナは、無愛想に短く挨拶した。
「妹さん!? え、でも、パン作りなんて……」
「リュミナ。見せてあげなさい」
リュミナは無言で頷くと、巨大なボウルに入ったパン生地の前に立った。
大人三人係でも重い量の生地だ。
彼女はそれを、細い腕でガシッと掴むと――。
ドムッ!!
凄まじい音と共に、生地を叩きつけた。
そして、目にも止まらぬ速さで捏ね始めたではないか。
「す、すごいパワー……」
「魔力はないが、腕力と体力だけは取り柄の子です。今日から貴方の弟子にします。扱き使ってください」
「姉さん、言い方」
リュミナはむっとした顔でイリスさんを睨んだが、その手は休むことなく完璧なリズムで生地を捏ね続けている。
まさに、パン職人になるために生まれてきたような才能だ。
「助かった……! ありがとう、リュミナちゃん! 君は救世主だ!」
「……別に。仕事だから」
リュミナはそっぽを向いたが、その耳が少し赤くなっているのを僕は見逃さなかった。
魔王の胃袋を掴み、戦争を回避するための戦い。
強力な(物理的に)新しい弟子を迎え、僕のパン作りはさらに加速していくのだった。
久しぶりに暖かい日差しのふりそそぐ練兵場では、魔族兵たちの、腹減ったの合唱が響いていた。
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