第3話 チーズ職人のリックさん
「……う、うわあああっ! た、高い! イリスさん、高すぎますって!」
「静かに。舌を噛みますよ」
僕は今、空を飛んでいた。
といっても、優雅な空の旅ではない。イリスさんの脇に米袋のように抱えられ、強風に晒されているのだ。
彼女には翼がない。これは純粋な『飛翔魔法』によるものらしい。魔力で無理やり重力をねじ伏せている感覚が、僕の三半規管を激しく揺さぶる。
「着きますよ。……貴方の故郷です」
風切り音が止み、ふわりと体が浮く感覚があったかと思うと、僕たちは路地裏に音もなく着地した。
数日ぶりに踏む、故郷の土だ。
懐かしい石畳。パンの焼ける匂い。そして、活気ある人々の声。
魔界の張り詰めた空気とは違う、緩やかで温かい時間がここには流れていた。
◇◆◇
実家のパン屋『ミルグレインの朝』の扉を開けると、カウベルがカランコロンと鳴った。
「いらっしゃい……って、タータ!?」
店番をしていた母のエレナが目を丸くする。奥の工房からは、父のグスタフも顔を出した。
「なんだ、帰ってきたのか? 軍師の仕事はどうなったんだ」
「ただいま、父さん、母さん。……実はね」
僕はイリスさんを紹介し、事の顛末を説明した。
魔王軍に入ったこと。
そこでパンを焼くことになったこと。
そして、美味しいパンを作るために、チーズ職人を探しに戻ってきたこと。
普通なら卒倒するような話だ。娘ほどの年齢の女性(に見える)が魔族だと知れば、恐怖で震えてもおかしくない。
けれど、父さんは腕組みをして「ふむ」と唸っただけだった。
「魔王軍だろうが何だろうが、腹を空かせた客がいるなら、そこがパン屋の戦場だ。……間違っちゃいないな」
「あらあら。じゃあ、この店は妹のミリアに継いでもらいましょうか。あの子、最近筋がいいのよ」
母さんもあっさりと受け入れた。さすがパン屋の夫婦、肝が据わっている。
父さんは工房へ戻ると、一つの小さな壺を持って戻ってきた。
「ほらよ、タータ。持っていけ」
「これって……うちの『パン種』?」
それは、創業以来、継ぎ足し継ぎ足し守られてきた天然酵母だ。この店の命そのものと言ってもいい。
「向こうの水と粉に馴染むかは分からん。だが、これが俺たちの味だ。……ちゃんと生かせよ」
ずしりと重い壺を受け取る。
父さんの不器用な激励に、僕は胸が熱くなった。
「ありがとう、父さん。……ところで相談なんだけど、この街にいいチーズ職人はいないかな? できれば、すぐに動けるような」
「チーズか……。そういえば、チーズ屋の次男坊、リックくんがいたな」
「リック? ああ、あの牧場の」
「うむ。家は長男が継ぐことになったから、自分の居場所がないと悩んでいたそうだ。腕はいいんだがな」
リックなら僕も知っている。真面目で、少し気が弱いけれど、牛への愛情は人一倍の男だ。
話がまとまったところで、イリスさんが一歩前へ出た。
「……ご両親。突然息子さんを連れ出してしまい、申し訳ありません」
イリスさんは深々と頭を下げた。魔族の幹部が人間に頭を下げるなんて、ありえない光景だ。
そして、懐から金貨の詰まった革袋を取り出し、カウンターに置いた。
「これは支度金です。……息子さんは、私が責任を持って守ります。必ず、無事にお返ししますので」
その真摯な眼差しに、父さんと母さんは顔を見合わせ、やがて優しく微笑んだ。
「頼んだよ、お嬢さん。タータはパン馬鹿だけど、悪いやつじゃないから」
◇◆◇
街外れの牧場へ向かうと、牛舎の掃除をしている青年を見つけた。
茶色の髪にそばかす顔。リックだ。
「よお、リック。久しぶり」
「えっ、タータさん!? 帰ってきたんですか?」
リックは人懐っこい笑顔で駆け寄ってきたが、僕の背後にいるイリスさんを見た瞬間、ビクッと固まった。
黒い角。異質なオーラ。本能が警鐘を鳴らしたのだろう。
「あ、あの……その方は……?」
「紹介するよ。僕の上司のイリスさん。……魔族の方だ」
「ひぃっ!?」
リックが腰を抜かしそうになる。無理もない。
僕は彼を落ち着かせ、事情を話した。魔王軍で、どうしても美味しいチーズが必要なのだと。
「ぼ、僕が……魔王軍でチーズを……?」
リックは戸惑っていた。当然だ。人間と敵対している軍隊に行くのだから。
「魔族って……やっぱり、怖いですか?」
リックが不安そうに呟く。
「正直、最初は怖かったよ。みんな強面だし、無口だし」
僕はイリスさんをちらりと見て、笑った。
「でもね、美味しいものを食べると、みんな笑うんだ。人間と同じだよ。ただ、美味しいものを知らないだけなんだ」
僕の言葉に、リックは少し考え込み、やがて顔を上げた。
「……僕のチーズでも、誰かを笑わせることができますか?」
「できるよ。僕が保証する」
リックの目に光が宿った。
彼は立ち上がり、ズボンの土を払った。
「分かりました。……兄貴に報告してきます! ちょっと待っててください!」
リックは母屋へ走っていき、十分ほどで戻ってきた。
背中には大きなリュック、手にはチーズ作りの道具一式を抱えている。
「いいってよ! 『お前だけのチーズを作ってこい』って、背中を叩かれました!」
晴れやかな顔だった。彼もまた、自分の戦場を求めていたのだ。
◇◆◇
帰り道。
行きよりも状況は悪化していた。
「……お、重い……です……」
空の上。イリスさんは、右脇に僕、左脇に大荷物のリックという、とんでもない状態で飛んでいた。
いくら魔族とはいえ、成人男性二人分の重量はきついらしい。
「す、すみませんイリスさん! 僕も飛べればいいんですけど……!」
「……文句を言うなら……落としますよ……!」
イリスさんの額に脂汗が浮かんでいる。飛行速度は行きよりもずっと遅く、ふらふらと頼りない。
クールな彼女の、必死な姿。
なんだか申し訳ないけれど、少しだけ親近感が湧いてしまった。
西の空には、真っ赤な夕日が沈もうとしていた。
世界を茜色に染め上げる夕焼け。
その美しさは、人間界も魔界も変わらない。
「うわぁ……綺麗ですねぇ」
リックが感嘆の声を上げる。
僕と、リックと、必死な顔のイリスさん。
奇妙な三人組は、夕日を背に、ゆっくりと北の空へと消えていった。
こうして僕たちは、新たな仲間と共に、再び魔王軍へと帰還したのだった。
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