第2話 なぜ魔王軍のメシは、マズいのか?
魔王軍の朝は、重苦しい寒さと共にやってくる。
ここ魔界は、大陸の最北端に位置する極寒の地だ。太陽は昇るものの、その軌道は低く、地平線をなめるように移動するだけ。日照時間は極端に短く、一日のおよそ三分の二は夜か薄暗がりだ。
僕、タータ・ミルグレインの新しい職場での一日も、凍えるような鐘の音とともに始まった。
(ううっ、寒い……。さて、まずは腹ごしらえといくか)
白い息を吐きながら、与えられたコックコートに着替える。
僕は身支度を整えると、兵士たちが集まる大食堂へと向かった。
広い石造りの食堂には、すでに多くの魔族兵士たちが集まっていた。
牛の頭を持つ者、背中に翼がある者、全身が鱗に覆われた者。多種多様な魔族たちが、長いテーブルに並んで食事を摂っている。
けれど、奇妙だった。
数百人もいるはずなのに、食堂は不気味なほど静かだったのだ。
聞こえるのは、食器が触れるカチャカチャという音と、何かを咀嚼する低い音だけ。
窓の外の薄暗い雪景色も相まって、まるで機械が燃料を補給しているような、寒々しい光景だった。
「おや、タータ殿。貴方も食事ですか?」
背後から声をかけられ、振り返るとイリスさんが立っていた。
相変わらず理知的で美しいが、その表情はどこか事務的だ。
「あ、おはようございますイリスさん。はい、まずはここの食事を知っておこうと思って」
「感心ですね。では、配給係へどうぞ」
言われるままにカウンターへ行くと、無表情な骸骨の兵士が、盆の上に『それ』をドンと置いた。
黒い、長方形の塊。
レンガを一回り小さくしたようなサイズ感。
湯気も出ていなければ、匂いもしない。
「……イリスさん、これは?」
「『魔軍制式携帯食』です。我々の主食ですね」
僕はその黒い棒を手に取ってみた。ずしりと重く、硬い。
恐る恐る口に運び、端っこを齧ってみる。
ガリッ。
ボソボソボソ……。
(……なんだこれ)
味がない。
いや、強いて言うなら、ライ麦のようなものを殻ごと固めて乾燥させたような味だ。
口の中の水分が一瞬で奪われ、飲み込むのも一苦労だ。
「……栄養バランスは完璧に計算されています。これ一本で、成体魔族がこの極寒の地で一日に必要とする魔力と体温を維持できます」
イリスさんが誇らしげに胸を張る。
なるほど、確かに効率的だ。吹雪く戦場においては、これ以上ない食料なのだろう。腐らないだろうし、持ち運びも楽だ。
でも。
「……これじゃあ、頑張れないなぁ」
僕は思わず本音を漏らした。
「頑張れない? 栄養は足りているはずですが」
「栄養の問題じゃないんです。心が満たされないんですよ」
僕は黒い棒を皿に置き、周りの兵士たちを見渡した。
みんな、ただ生きるために、義務感だけで咀嚼している。そこには「美味しい」という感情も、「楽しい」という安らぎもない。
「食事っていうのは、ただの燃料補給じゃないんです。凍えた体を温めて、『よし、午後も働くぞ』って気力を湧かせるための時間なんです。こんな味気ないものじゃ、いつか心が折れちゃいますよ」
パン屋の息子として、これだけは譲れない哲学だった。
イリスさんは少し困ったように眉を寄せた。
「心、ですか……。我々は合理性を最優先してきましたから。ですが、軍師長も貴方のその『視点』を買ったのです。……何か、改善策はありますか?」
僕はもう一度、黒い棒を齧った。
ベースは穀物だ。ただ、風味と油分、そして塩気が決定的に足りない。
これに合う食材といえば……。
「イリスさん。ちょっと人間の街へ行って、あるものを買ってきてもらえませんか?」
「あるもの?」
「はい。『チーズ』です」
◇◆◇
イリスさんの飛行魔法は優秀だった。
数時間後には、南方の温かい人間の街から大きなハードチーズの塊を買って戻ってきたのだ。
僕は厨房に立ち、さっそく調理に取り掛かった。
とはいっても、パンを一から焼く時間はない。まずはこの『魔軍制式携帯食』を美味しくするのが先決だ。
まず、黒い棒を砕いて粉々にする。
そこへ、細かく刻んだチーズをたっぷりと混ぜ込む。
つなぎに少量の水と油を加え、再び棒状に成形する。
そして、オーブンへ。
しばらくすると、厨房の中に香ばしい香りが漂い始めた。
焦げたチーズの濃厚な匂いと、穀物が焼ける素朴な香り。
冷え切っていた黒鉄城の空気が、一気に色づいていくようだ。
「……いい匂いですね。これが、チーズですか」
厨房の入り口で、イリスさんが鼻をひくひくさせている。魔族にとっても、この匂いは刺激的らしい。
「お待たせしました。『特製チーズカロリーバー』の完成です!」
焼き上がったそれは、表面に溶けたチーズがこんがりと焦げ目をつけ、見るからに食欲をそそる姿に変わっていた。
◇◆◇
その日の夕食。食堂の空気は一変していた。
「なんだ、この匂いは……?」
「いつもの携帯食じゃないぞ」
ざわめく兵士たちに、僕とイリスさんで改良したカロリーバーを配っていく。
一人の大柄なオーク族の兵士が、怪訝そうにそれを口に入れた。
サクッ。
心地よい音。そして次の瞬間、オークの目が大きく見開かれた。
「う……うまいッ!」
その叫び声が、合図だった。
兵士たちが次々とカロリーバーにかぶりつく。
「なんだこれは! 塩気が効いていて、体が温まる!」
「噛むと中からトロッとした油が出てくるぞ!」
「もう一本ないのか! 俺はまだ食えるぞ!」
無言だった食堂に、活気が戻ってきた。
「うまい」「おかわり」という言葉が飛び交い、あちこちで笑顔がこぼれる。
それは、僕がよく知るパン屋の風景だった。
「……騒がしいな」
その時、食堂の入り口に巨大な影が現れた。
ヴァルド軍師長だ。
食堂が一瞬で静まり返る。
「ぐ、軍師長閣下! これはその、新しい食料の試食を……」
兵士が慌てて敬礼する。
ヴァルド軍師長は無言で僕の前まで歩いてくると、盆に残っていた最後の一本を手に取った。
「これが、貴様の仕事か」
「はい。お口に合うか分かりませんが……」
軍師長はそれだけ言うと、満足げに去っていった。
その背中を見送りながら、僕はガッツポーズをした。
◇◆◇
作戦は大成功だった。
しかし数日後、新たな問題が発生した。
「……在庫切れ、ですか」
執務室で、イリスさんが困った顔で報告書を見ていた。
「はい。兵士たちの評判が良すぎて、人間の街から買ってきたチーズがもう底をつきそうです」
「また買ってくればいいんじゃないですか?」
「それが……これだけの量を定期的に購入すれば、人間側に怪しまれます。それに、輸送コストも馬鹿になりません」
確かにそうだ。
チーズは保存食だが、作るのは時間がかかる。人間の街で大量買い占めなんてしたら、すぐに噂になるだろう。
「チーズさえあれば、魔王軍の食糧事情は劇的に改善するのですが……」
イリスさんは考え込み、やがて何かを決心したように顔を上げた。
「……仕方ありません。現地調達しましょう」
「え? でも、魔族はチーズを作れないんじゃ……」
「ええ。ですから、作る人間を連れてくるのです」
イリスさんは立ち上がり、マントを翻した。
「人間の街で、優秀なチーズ職人を探します。技術提供を交渉しましょう」
「はあ、なるほど。じゃあイリスさん、行ってらっしゃ――」
「何言ってるんですか、タータ。貴方も同行ですよ」
「へっ?」
僕は間の抜けた声を上げた。
「貴方はパン屋でしょう? チーズの良し悪しが分かるのは貴方だけです。それに、人間との交渉には、人間である貴方がいた方がスムーズです」
「いやいやいや! 僕、戦闘力ゼロですよ!? また人間の街に戻るなんて――」
「拒否権はありません。これは軍師長命令でもあります」
イリスさんは妖艶に微笑むと、僕の腕をガシッと掴んだ。
その力は、見た目からは想像できないほど強かった。
◇◆◇
こうして僕は、魔王軍の食卓改革のため、なぜか魔族の美女と二人で、再び人間の街へ向かうことになった。
ただチーズを入れたかっただけなのに。
どうしてこう、僕の人生は思わぬ方向へ転がっていくのだろう。
――チーズ一つで、こんな話になるなんて。
僕は窓の外、低く垂れ込めた鉛色の空を見上げながら、深いため息をついたのだった。
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