第1話 パン屋の親父、異世界で二度目の人生を始める
ふわりと、焼き立てのパンの香りがした気がした。
それは、六十八年間の人生で一番好きな匂いだ。
ワシは田中恒一。日本のとある地方都市で、小さなパン屋を営んでいた。
妻に先立たれ、子供は独立し、最後は一人だったけれど、決して孤独ではなかったと思う。店に来てくれるお客さんの笑顔があったから。
(ああ、いい人生だったな……)
布団の中でまどろみながら、ワシは静かに息を引き取った。
苦しみはなかった。まるで長く発酵させた生地が、ゆっくりと膨らんでいくような、穏やかな最期だった。
老いたパン屋の意識は、そこで一度、途切れた。
◇◆◇
「オギャア! オギャア!」
次に気がついたとき、僕は泣いていた。
悲しいわけじゃない。ただ、本能がそうさせたのだ。
目を開けると、そこには見たこともない天井と、優しそうな金髪の女性の顔があった。
「よしよし、元気な男の子よ。あなた、名前は?」
「……タータだ。タータ・ミルグレイン。私たちのかわいい息子」
粉まみれの大きな手が、僕――いや、赤ん坊の僕の頬を撫でる。
その手からは、懐かしくて愛おしい、あの酵母の匂いがした。
(へっ? もしかして僕、生まれ変わっちゃった?)
不思議と混乱はなかった。
前世で徳を積んだわけでもないけれど、神様が「もう少しパンを焼いてもいいぞ」と言ってくれたのかもしれない。
そう思うことにした。
ここが『ラクトダム』という異世界だと知ったのは、少し後のことだ。
人間と、獣のような耳や尻尾を持つ獣人、そして魔力を持つ魔族が大陸を分けて暮らす世界。
けれど、そんな壮大な世界のことなんて、僕には関係ないと思っていた。
だって僕は、パン屋の息子なのだから。
◇◆◇
それから二十二年。
僕はすっかりこの世界に馴染み、実家のパン屋『ミルグレインの朝』で働いていた。
父のグスタフは頑固な職人だが腕はいい。母のエレナは店を切り盛りするしっかり者だ。
二人の愛情を受けて育った僕は、前世の記憶と今の技術を合わせ、今日もせっせとパンを焼いている。
ある日の夕暮れ。
僕は配達の帰りに、いつもの酒場『鉄鍋と角笛亭』へ立ち寄った。
「おばちゃん、いつものエールを一杯」
「あいよ、タータちゃん。今日も精が出るねえ」
カウンターでエールを飲みながら、ふと掲示板に目をやる。
そこには、冒険者向けの依頼書や、迷子のペット探しのチラシが貼られていた。
その中に一枚、異様に禍々しいオーラを放つ黒い羊皮紙があった。
黒い羊皮紙には白文字でこう書かれていた。
『求ム、軍師。
待遇:応相談(幹部候補生)。
条件:軍の運用に変革をもたらす者。種族問わず』
(軍師、かぁ……。物騒だねえ)
僕みたいな平和主義のパン屋には、一番縁のない仕事だ。
そう思って苦笑いした、その時だった。
「……ほう? その張り紙に興味がおありで? 私はイリス=ノクティルと申します」
鈴を転がすような、艶やかな声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこには息を呑むような美女が立っていた。
流れるような銀色の長い髪。
知的な光を宿した瞳。
そして何より目を引いたのは、頭の両側から生えた、黒い羊のような巻き角だ。
服の上からでも分かる豊かな胸元と、理知的な雰囲気のギャップが、不思議な色気を醸し出している。
(魔族……!? こんな人間の街の酒場に?)
僕は呆気にとられながらも、慌てて首を横に振った。
「い、いや! 滅相もない。僕はただのパン屋ですから。軍師なんて大それたこと、できるわけありませんよ」
彼女――イリス=ノクティルは、僕の言葉を聞くと、面白そうに目を細めた。
「パン屋、ですか。……ふむ。貴方からは、とても良い匂いがしますね」
「え? あ、小麦の匂いですかね?」
「ええ。実直で、温かい匂いです。……我が軍には、今一番欠けているものかもしれません」
その声には、かすかな焦りが混じっていた気がした。
イリスさんは意味深なことを呟くと、僕の手を取った。
その手はひんやりとしていて、でも柔らかかった。
「一度、面接に来てみませんか? 場所は前線拠点、『黒鉄城』です」
「へっ? いやいや、だから僕はパン屋で――」
「種族は問いません。貴方のその『視点』が、役に立つかもしれないのです」
有無を言わせぬ迫力と、どこか必死な眼差しに、僕は思わず頷いてしまっていた。
まあ、どうせ不採用だろう。社会科見学のつもりで行けばいいか。
そんな軽い気持ちだったのだ、この時は。
◇◆◇
数日後。
僕はガクガクと膝を震わせながら、黒鉄城の大広間に立っていた。
窓の外には荒涼とした大地が広がり、広間には強そうな魔族の兵士たちがズラリと並んでいる。
そして目の前の玉座には、全身を漆黒の鎧に包んだ大男が座っていた。
魔王軍軍師長、ヴァルド=グラディウス。
兜の奥から覗く鋭い眼光と、顔に走る古傷が、歴戦の猛者であることを物語っている。
「――して、貴様がイリスの推薦した男か」
地響きのような低い声。
僕は直立不動で「は、はいっ!」と裏返った声を上げた。
(やばい、やばいぞ……。ここで言葉を間違えたら、きっとパンどころじゃ済まない)
背筋を冷たい汗が伝う。この場の全員が、僕の喉元を狙っているような殺気を感じる。
「人間でありながら、我が軍の門を叩くとは良い度胸だ。して、貴様は何ができる? 剣術か? 魔法か? それとも、敵国の情勢に詳しいのか?」
ヴァルド軍師長の問いかけに、広間の空気が張り詰める。
隣に立つイリスさんも、真剣な表情で僕を見つめている。
僕は正直に答えるしかなかった。
嘘をついたって、すぐにバレて殺されるのがオチだ。
「あ、あの……戦のことは、さっぱり分かりません」
「何だと?」
ヴァルド軍師長の眉がピクリと動く。
「剣も振れませんし、魔法も使えません。ただ……」
僕は一度深呼吸をして、震える足をなんとか踏ん張った。前世からずっと大切にしてきた言葉を口にするために。
「兵士さんが『明日も生きよう』って思えるような、美味しいパンなら焼けます」
静寂が訪れた。
一秒、二秒、三秒。
誰も何も言わない。
や、やったか? やっぱり場違いだったか? 今すぐ首が飛ぶか?
「……『パン』とは、なんだ?」
ヴァルド軍師長から返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「へ?」
「我々魔族は、固形食料と栄養剤で効率的に摂取を行う。そのような嗜好品のような概念はない」
そうか、この世界の魔族には、パン文化がないのか。
僕は鞄から、実家で焼いてきた、日持ちする丸パンを取り出した。
もちろん冷めているけれど、まだ香ばしい匂いが残っている。
「これです。食べてみてください」
ヴァルド軍師長は怪訝そうな顔でパンを受け取ると、恐る恐る一口かじった。
「む……?」
咀嚼する音が響く。
そして、ゴクリと飲み込んだ瞬間、彼の強面がわずかに緩んだのを僕は見逃さなかった。
「……柔らかい。それに、噛むほどに甘みが広がる。これが……食料なのか?」
「はい。お腹だけじゃなくて、心も満たすものです」
ヴァルド軍師長はしばらくパンを見つめていたが、やがて顔を上げ、イリスさんに視線を送った。
イリスさんが小さく頷く。
「……採用だ」
「へっ?」
「我が軍の兵士は疲弊している。必要なのは、まさにこの『明日への活力』かもしれん。貴様を特別補給顧問として迎え入れる!」
◇◆◇
こうして、僕は魔王軍に再就職することになった。
待遇は幹部クラス。
与えられたのは、広すぎる個室と、資材使い放題の専用厨房。
魔王軍の城で、僕は人生で一番大きなオーブンの前に立っていた。
(これが、僕の……新しい職場?)
軍服ならぬコックコートに袖を通しながら、僕は呆然と呟く。
――まさか、パンを焼くことで、世界の戦争に関わることになるなんて。
僕の、そして魔王軍の胃袋を変える戦いが、ここから始まろうとしていた。
外では魔界の鳥たちが、ギャアギャアと鳴き、空には大小きい二つの月が浮かんでいた。
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