第8章 消えた声
外の雨は勢いを増し、窓を打つ水音は絶え間なく続いていた。
食堂の空気は重く張り詰め、誰もが疲弊した表情で椅子に腰掛けている。
二人の研究員──藤堂玲奈と杉浦剛志──がすでに命を落とし、この場に残る全員の心には、言葉にできぬ恐怖と不信が根を下ろしていた。
沈黙を破ったのは、ジョー(47歳・刑事)の声だった。
「……そういや、腹が減ってきたな。考えてみりゃ、ここに来てから誰も何も食ってねぇだろ」
その言葉に、相馬達也(25歳・実験補助スタッフ)がはっとして顔を上げた。
「い、言われてみれば……喉もずっと渇いたままです。なんだか時間の感覚までおかしくなってきて……」
羽村紀子(42歳・事務担当)は帳簿を抱きしめるように胸に当て、眼鏡の奥で瞳を輝かせた。
「……黒瀬所長(65歳)が言っていましたよね。“備蓄は十分にある”って。外からの搬入は止まっていますけど、保存食も飲料水も、まだ数週間は困らないくらいあるはずです」
黒瀬宏は重く頷いた。
「……ああ。研究所の性質上、孤立を想定している。倉庫には必要な物資が揃っている」
その言葉に、食堂の空気がわずかに和らぐ。
しかし羽村は立ち上がり、毅然と声を放った。
「……なら、私が取ってきます。ここに食べ物や飲み物があると分かれば、皆さんも少しは落ち着けるはずです」
「待て、ひとりで行く気か?」
ジョーが眉をひそめる。
「ええ。倉庫は近いですし、危険はありません」
羽村の声には、不安を振り払おうとする力が込められていた。
そのとき、相馬が慌てて立ち上がった。
「で、でも……羽村さん、俺も行きます。中じゃなくて、外で見張ります。誰かが近づいたら知らせるくらいはできますから!」
羽村は小さく微笑み、静かに頷いた。
「ありがとう、相馬くん。じゃあ……お願いね」
そう言い残すと、二人は食堂を後にした。
◇ ◇ ◇
倉庫の扉を開けると、ひんやりと湿り気を帯びた冷たい空気が流れ込んできた。
羽村は振り返り、相馬に声をかける。
「ここで待っていてください。すぐに戻ります」
相馬は強張った顔で頷き、廊下に立った。
「……気をつけてください」
羽村は扉を閉め、紐を引いて裸電球を点けた。
黄色い光が棚を照らし、整然と並んだ缶詰やペットボトルが浮かび上がる。
「……本当に、たくさんあるわ」
小さく安堵の吐息を漏らし、微笑を浮かべた。
だがその瞬間──背後の気配が空気を揺らした。
振り返る間もなく、首筋に鋭い痛みが突き立つ。
羽村の視界がぐらりと傾き、手にしていた水のケースが床へと崩れ落ちた。
薬品の刺すような匂いが広がり、力の抜けた体は音もなく床に沈んでいった。
その表情には、驚愕ではなく「役に立てる」というわずかな安堵が残っていた。
◇ ◇ ◇
廊下では、相馬が必死に耳を澄ましていた。
雨音と雷鳴ばかりが響き、倉庫の中からは物音ひとつしない。
「……羽村さん?」
小さく呼びかけても返事はない。
その不自然な静けさに、相馬の胸はざわつき始めていた。
◇ ◇ ◇
やがて、レイジ(48歳・探偵)とジョー(47歳・刑事)が倉庫へ駆けつけた。
相馬が青ざめた顔で出迎える。
「な、何も……物音がしないんです。でも、返事がなくて……」
ジョーが険しい表情で扉を押し開ける。
薄暗い倉庫の床には、崩れ落ちた羽村紀子の姿があった。首筋には薬品の痕が残り、すでに息絶えている。
「……やられたな。これで三人目だ」
ジョーが吐き捨てるように言った。
レイジは静かに頷き、冷徹な声で断言する。
「もう助からない。羽村は……殺された」
重苦しい沈黙が場を包む。
ジョーは壁際に置かれていた平台車を引き寄せ、保存食やペットボトルを積み込み、取っ手を強く握った。
「せめて……羽村が取りに来た意味は果たしてやる。食い物と飲み物は、俺が運ぶ」
雷鳴が轟き、平台車の小さな車輪が軋む音とともに、二人は倉庫を後にした。
その音は、失われた命の重さを告げる葬送の調べのように、廊下に長く響いていた。