第1章 黒瀬バイオ研究
午後の山道を、黒塗りの警察車両が雨を切り裂くように走っていた。
ハンドルを握るのはジョー(47歳・警視庁刑事)。背を丸め、ワイパーの音に苛立つように眉間の皺を深くする。
「チッ……俺様が運転かよ。助手席でふんぞり返ってる探偵様は、よっぽど楽だろうな」
助手席に座るのはレイジ(48歳・私立探偵)。中折れ帽を目深にかぶり、窓の外の暗い森を眺めている。左手で無精髭をさすりながら、口の中でガムを噛んでいた。
「運転はお前の方が向いてる。それに俺はただの客人だからな」
「ケッ……生意気言いやがって」
ジョーは舌打ちし、わずかにアクセルを踏み込んだ。
「黒瀬宏(65歳・黒瀬バイオ研究所所長)が通報した内容、覚えてるか?」
「ああ。“研究所で人が死んだ”──だろ。第一発見者にして通報者……一番怪しいに決まってんだ」
「早計だな。だが、候補を絞るには悪くない」
レイジは淡々と返し、味の抜けたガムを噛み直した。
◇ ◇ ◇
雨は次第に激しさを増し、フロントガラスを白く覆う。
細く曲がりくねった山道は、ガードレールすら頼りない。
「後続があったとしても、この土砂崩れじゃ無理だな」
ジョーが唸る。
「……孤立するかもしれん」
レイジは窓の外、濡れた山肌を見やり、さらなる土砂崩れの兆しを読み取ろうとした。
◇ ◇ ◇
ようやく視界に現れたのは、山奥に不釣り合いなほど無機質な建物だった。
黒瀬バイオ研究所──鉄とガラスの直線で組まれた、冷たい要塞のような施設である。
入口に立っていたのは、黒瀬宏。背筋こそ真っ直ぐだが、雨に濡れた白髪と強張った顔が、老いと動揺を隠しきれない。
「……よく来てくださいました。神城刑事、それに時雨堂先生」
黒瀬宏は沈痛な声で口を開いた。
「死んだのは誰だ?」
ジョーが鋭く問いかける。
「藤堂玲奈(26歳・研究員)です。実験室で……息をしていないのを、この私が……」
黒瀬宏の声は震え、最後の言葉はかすれて消えた。
「やっぱりな。第一発見者であり通報者……しかも所長とくれば権力も欲しい。動機は十分だろ」
ジョーが鼻で笑い、黒瀬宏を睨みつける。
「ジョー、落ち着け。……それだけで犯人扱いは飛躍だな。証拠がなければ推理じゃなくてただの憶測だ」
レイジは低く制し、帽子のつばを指で押さえると、建物の奥へと歩みを進めた。
◇ ◇ ◇
実験室の床に横たわっていたのは、藤堂玲奈だった。
長い黒髪を乱し、白衣の裾が薬品に濡れている。
争った形跡はなく、まるで眠りに落ちたように静かに動かない。
「……反応は見られないな」
レイジは低く言い、帽子のつばを指で押さえた。
「間違いねぇのか?」
ジョーが息を呑む。
「脈も呼吸も、俺には感じ取れない。……少なくとも、生きているようには見えん」
佐伯由佳(29歳・研究員)が蒼白な顔で口元を押さえ、羽村紀子(42歳・事務担当)は帳簿を胸に抱いて震えていた。
宮坂俊(22歳・警備員)は入口に立ち尽くし、ただ青ざめていた